第二章 絶望の急襲(6)
30代くらいの男だった。顎に立派な髭をたくわえ、狼のような形の茶髪と混じって寧ろライオンのようにも思える。彫りの深い顔をしており、一見優しそうな目の奥には鋭い光が宿っている。着ているのは黒いスーツである。
長身で、筋肉質な体。戦いに慣れている者ならば、一目で彼が強者だと悟るだろう。
「……た、隊長」
朝影は恐怖に顔を引きつらせながら呟く。
「こ、この人が『楽園解放』の?」
黒神の質問は、朝影の耳には届いていないらしい。彼女が震える肩を両手で抑えながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
「まさか、隊長が来るなんて……さ、最悪……」
大男はフェンスから身を離すと、黒神たちのほうへと近づいてくる。
「まったく、予定時刻は過ぎてるのに何の報告も寄越さないから心配したんだぞ?」
大男は、黒神を無視して未だに震えている朝影に優しく話しかける。
「君は優秀だからね。その才能を生かす絶好の機会だ。それなのに……」
直後、大男の雰囲気が一変した。いや、一変したのは雰囲気だけではない。その口調までもが恐ろしいものに変わる。
「テメェは一体ここで何してやがんだよォ、光ィ!!」
大男は朝影の髪の毛を右手で鷲掴みにすると、そのまま彼女の体を軽々と持ち上げてしまった。
「がっ、痛い……!!」
「ッたく、マジでよォ。おかげで計画は変更だァ。テメェが成功してさえすれば俺たちは今頃エデンを混乱の渦に巻き込んでたッつーのに……」
髪を引っ張られる痛みに宙吊りにされたまま足をバタバタと動かして抵抗する朝影。だが、そんなこと無意味である。大男はその手を離さない。
黒神は、目の前の光景が信じられなかった。
あの朝影が、こうも軽々と宙吊りにされている。それになにより、彼女の怖がり方が異常だった。
「あ……」
「なんだよ小僧。今逃げるなら見逃してやるから、とッとと失せろ」
大男は言いながらも黒神のほうは見ない。よほど彼に興味が無いらしい。つまり、目的は朝影のみである。
そう、今逃げれば、無事でいられる。
朝影を簡単に蹂躙してしまうような人間に勝てるはずがない。逃げるほうが懸命だ。
もちろん、大男が『楽園解放』の隊長である以上、逃げたとしてもエデンを破壊されて黒神も死ぬ可能性だってある。だが、逃げれば少なくとも今は無事でいられる。
最期の瞬間まで、赤城と談笑も出来る。今戦って死ぬよりずっとマシだ。
(そうだよ。俺はそういう風に生きてきたじゃないか)
デバイスが適合せず、能力者との戦いを避け、それでも幸せに生きてきた。それでいいじゃないか。
大体、昨日偶然出会ったばかりの少女に、それも元々は敵だった彼女のために、自分の命を賭ける必要があるのだろうか? そんなもの、あるはずがない。
所詮は他人。そう、他人なのだ。
黒神の足は自然と動いた。
だが、それは逃げるためではない。
(でも、それでも! 今死ぬかもしれなくても! 俺は……!!)
「おい小僧ォ、何の真似だァ?」
「朝影を離せ。お前が誰だか知らねぇけど、俺は――朝影を助ける!!」
大男の懐に潜り込み、黒神は『氣』を集中させた右手を思いっきり振り上げる。大男は俺を軽々とかわしたが、同時に朝影の髪を手から離してしまう。
「ぐう……貴方、本気なの!? 早く逃げて、殺されるわ!」
「それでも、それでも俺はお前を助けたいと思った。それだけじゃダメか?」
覚悟を決めた男の目だった。少年は、改めて拳を強く握る。
対して、大男は面倒くさそうに首を捻る。
「はァ、いるんだよたまに。テメェみたいな勘違い野郎が。ま、もう逃がさねェけどなァ!!」
少女を助けたい。
ただそれだけのために、少年は死地へと踏み込んだ。