第三章 それぞれの戦い、それぞれの想い(6)
藤原がいた、ランク戦用の施設付近よりもさらに奥に、2人の少女が向かい合って立っていた。
片方は白い無地のシャツに黒の革ジャンを羽織り、これまた黒いジーパンを履いたクールな大学生くらいの女性。長いポニーテールはその先が腰まで届いている。
もう片方はハーフアップの黒髪で、綺麗な緑眼を持った少女。
どちらも抜群のスタイルで、もしこの2人が一緒に歩いていたなら、世の男は必ず彼女たちに目を向けるだろう。
「ここでいいノ? アタシたちとしては、君たちがもっと連携を取ってくるものだと思ってたケド」
ポニーテールの女性は軽く腕を動かしながら言う。
確かに、ハーフアップの少女――橘薫は藤原と同じ方向に走りながらも、彼の近くでは立ち止まらなかった。歓談部、それも同じ3年生である彼と連携を取った方が勝率は上がるはずだ。
「その必要は無いわぁ。創君は強いしぃ」
「そういう意味じゃナイ。君は大丈夫なのかって話ヨ」
「……ええ、問題は無いと思うわよぉ」
「そうカ。ちなみに、アタシは菊川茜。君ハ?」
首の骨を鳴らしながら、菊川は問う。対し、橘は右掌を頬に当てながら、おっとりとした声で答える。
「橘薫。それにしても、変な話し方ねぇ」
「気にするナ。昔っからこうなのヨ」
言いながら、菊川はボクサーのように拳を構える。だが、それを見ても橘は構えようとしない。しかも、菊川を見ながらあらあらと微笑を向けている。
「戦わないノ?」
「どうしようかしらぁ」
菊川は呆れの混じった目で橘の目をじっと見つめる。橘もそれに応えて見つめ返す。だが、橘は見つめ返すことしかしない。右手を頬に当てたまま首を傾げて、
「まあ、私は戦わないからぁ」
その言葉に、菊川は眉をひそめた。
「ほう、余裕ダネ。正直、君は弱い部類に入るものだと思っていたんだけどネ。アタシの勘違いカシラ?」
「弱いわよぉ。戦いにおいては。だから戦わないのぉ」
拳を構えたまま、今度は怪訝な顔をする菊川。
(何なのこの女……弱いから戦わナイ? でも、戦うことそのものは彼女の意思だけじゃ止められナイ。なのにこの余裕はなんナノ?)
罠かとも思ったが、そんなのも仕掛ける暇は無かったはずだ。ならば、彼女が構えようとしない理由はなんのか。
(まさか、遠距離攻撃の能力なのカ? いや、だったら『戦わない』という言葉は合わナイ。しかも、ああはいいながらも逃げようとしない所を見ても、やはり遠距離とは思えナイ……)
段々と、菊川の中にある感情が芽生えてくる。
「どうしたのぉ? さっきから構えたままで……来ないのかしらぁ」
「うるサイ!! 君こそ何故戦闘態勢をとろうとすらしないノ!? この学校の状態を見て、アタシたちがどれだけの脅威か分からないノ?」
苛立ち。いや、どうやらその感情の名はそれではないらしい。
橘はまだ微笑んでいる。その微笑を見るたびに、その感情は強くなっていく。
(どういうコト? 何故これでも構えようとしナイ!?)
気がつけば、菊川の拳からは血が滲み出ていた。かなり強く握り締めていたようだ。だが、彼女はその拳を緩めることが出来ない。
(そうか、自分が戦わないということは、別の人間がいるというコト。だとしたら、何処カラ? いや、そもそも今までのは全部嘘で、アタシが突っ込んできたところを仕留める気カ? そうだ、そうに決まってル!! だとしたら、あの女はそれほどの能力を持ってることにナル)
「……言っておくけど、私も怒ってるのよぉ? この学校のことも、後輩や先生たちのことも大好きだしぃ」
その笑顔に、影が生まれる。その中に、明確な怒りが見えた。
(……まて、まさかアタシは戦ってはいけない人間を選んでしまったということなノ!? そ、そんなはずはナイ! だって、見るからに弱そうだったじゃナイ。確かにあのチンチクリンたちよりは強いかもだけど、それでもアタシが勝てない相手じゃないハズ!)
しかし、橘の態度を見るとやはり彼女が強者に見えてくる。
ポタポタと、菊川の額から嫌な汗が流れ落ちてくる。今は真冬。気候のせいではない。ならば、その原因はなんだ。
(恐怖を感じているノ……?)
歯がガチガチと鳴り出し、血の滲む手が震え始める。これも気候のせいではないと彼女は思った。
(か、勝てナイ? アタシはこの女に勝てないノ!? いや、だからこそあの女は『戦わない』と言ったのカ!! あの意味は、戦う必要がナイという意味カ!?)
自分の中にあった余裕が完全に崩れた。そして、戦意までもが失われていくのを感じる。
自分は橘に勝てない。
そう思うだけで、全てが奪われていく。
「あらあら、どうしたのぉ?」
「――っ!?」
気がつけば、橘の顔が目の前にあった。彼女はまだ微笑んでいる。
「もしかして、私に勝てないことに気付いたのかしらぁ?」
「……あっ」
橘のその言葉が決め手だった。次の瞬間、菊川の戦意は完全に崩壊してしまった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!?」
勝てない。
橘薫という女には、どうあがいても。
「戦わないのぉ?」
目の前が暗くなる。
橘の笑顔が、唐突に悪魔のような表情に変わる。その悪魔は、ゆっくりと口を動かした。
『ゆ・る・さ・な・い』
それは、学校を襲撃したことに対するものなのだろうか。
(そうだ、彼女は怒ってるって言っタ。間違い……ナイ)
悪魔の両手が、菊川の肩に乗せられる。どす黒い手を乗せた悪魔は、鼻と鼻が触れるほど顔を近づけ、もう一度同じ言葉を告げる。
『ゆ・る・さ・な・い』
直後、菊川の体から全ての力が失われた。立つことも出来ず、彼女はその場にへたりこんでしまう。もう、目線は下にしたまま動くことが出来ない。
もし目線を少しでも上に動かせば、悪魔と目が合ってしまうからだ。
だが、悪魔は許してくれない。
地面に、悪魔の顔が浮かんでいたのだ。その顔は、真っ直ぐに彼女を見ている。
「あ、やめてクレ。アタシは……あぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!」
必死に目を逸らそうとするが、どこに目を向けてもその顔がある。意を決して視線を上に向けると、そこには無数の悪魔の顔が浮かんでいた。
どこに目を向けても、必ずどれかと目が合ってしまう。慌てて下を向くが、いつの間にか地面にも無数の顔があった。
そう、もう菊川は悪魔から逃げられない。どこを見ようが、その顔がある。
そして、目を閉じても――。
もう彼女は逃げられない。
頭を両手で押さえ、まるで小動物のように丸まって発狂し続けている菊川を見下ろしながら、橘は首を傾げた。
「あらあら、やりすぎちゃったかしらぁ?」
悪魔の顔など、そもそも存在しない。それに、彼女は普通に微笑んでいるだけだ。では何故、菊川は今も恐怖に打ち震えているのか。
それは、橘の能力が原因なのだ。
橘の能力は『凶夢』。精神操作系の能力で、人間の恐怖心を最大限まで膨れ上がらせることが出来る。
発動条件は、彼女の目を見ること。
まずは疑心暗鬼。それから徐々に恐怖を与えていく。恐怖の形は人それぞれだが、菊川には橘の顔が悪魔のように見えてしまったようだ。
この能力は、彼女の態度があるからこそ引き出される恐怖心が最大となる。
常に微笑み、常に戦闘態勢をとらない。
普通に考えれば、舐められているとしか思えない。つまり、彼女の能力にかかっていなければ、抱くものは怒りだ。
だが、恐怖心が膨れ上がった人間は、その笑顔の裏にあるものを想像してしまう。罠があるのではないか、別の人間が隠れているのではないか、はたまた想像を絶した能力を持っているのか。
そこからは、菊川の例と同じだ。
つまり、本当に橘は戦わない。彼女の能力によって、敵は自滅してしまうのだから。
そしてこの能力は、その力を知っている相手にも有効である。要は、一瞬でも相手に疑念を抱かせればいいのだから。
橘に戦闘能力が無いと分かっていても、何か別の手があるのではないかと思ってしまう。
「んー、でも、創君には勝てないのよねぇ」
ランク戦用の施設の付近を見ると、戦いを終えた藤原が何処かへ向かっていくのが見えた。恐怖心を増幅させても勝てない相手、それが藤原だ。
ともあれ、3年生の戦いは終わった。
共に『英雄』よりも強い能力者であろう。そう、『英雄』こそ真っ先に倒す相手だと思ったことが、『楽園解放』の失敗だ。
橘は藤原と同じ場所へは向かわず、今も瓦礫に埋もれている生徒たちの救出に向かった。
ただ1つ。
橘の怒りは、菊川の幻覚では無かった。
その証拠に、彼女の柔らかそうな唇には噛み締めたような痕があり、そこからは少量の血が滲み出ていた。