第8話
「勉強ですよ……勉強。受験生なんです」
今やっているのは数学。文系の大学を受けるのだが、それでも多少レベルの高いところとなると、数学は必須。さほど苦手意識はないのだが、しかしながら、応用問題のレベルになってくると手が全くでない。基本的なところは取れるにしても、応用レベルの問題に一切歯が立たないのでは、その部分の点数を取れる可能性がゼロになる。多少なりとも可能性をあげておきたいというのが鉄志の考えだ。
「へぇ、そうなのね。……その計算式は変ね」
「え、あれ、そっか……」
鉄志が三十分ほど頭を悩ませて解いていた問題で、答えの略解ではどうにも理解が追い付かなかった部分をほんの数秒見ただけでさらりと指摘する。思わず、なんだ、この人はという顔でメリッサを見る。
「あら、なんだ、この人はという顔で見てるわね」
「え、ええ」
なんだ、この人は。
「ああ、そうそう! 鉄志くん! 君にお願いがあるの、まさかこんなところで会うとは思わなかったわ。もう少ししたらまたお店にお尋ねしようとしていたところだったの」
結局、少しタイミングが早まっただけか。声量は控えめ。ここがどういう場所かということは理解してくれているようだった。図書館という概念が海外にもあってよかったなと思う。だが、お願いは聞けない。言わなくても分かる。絶対にいちまの件なのだから。それ以外に考えられない。
「いえ、あの、でもたぶんそのお願いは聞けないので……」
「オー! 何故? でも、私はあの呪いの人──」
第一声で色々な人が振り向いた。やっぱりダメだった。周りの人に配慮するという気持ちなんてこの人にはなかったのだ。その後、続けざまに呪いの人形とかいうパワーワードを口にしようとするものだから、思わず鉄志はメリッサの口を片手で塞ぎ、もう片方の手でしーっとジェスチャーする。
「なんですか? もう、鉄志さん!」
「わ、わかった、分かりましたから、片付けるので待っててください」
勉強を中断するのは非常に残念だったが、きっとこのまま放置したらここで二度と勉強できなくなってしまうような事態にもなりかねない。今後のため、そして、放置することにより奪われる時間を考えると、一旦ここを出て、外で適当にあしらって、また戻って来た方がいいと判断する。
その判断は、第一歩としては間違っていなかったようで、メリッサは了承し、大人しく鉄志が片付ける様子を見守っている。
「あ、本を返してこないと……」
メリッサが手に持っているのは十何冊かの古そうな本。
「待っていてくださいね」
メリッサはそう言い残すと、本を返しに行ってしまう。残念ながら、鉄志は、この隙に逃げられるような無頓着な精神力を持ち合わせてはおらず、せこせこと自分の片づけを進めるのみだった。
「立ち話もなんですので」
と、それらしい言葉を知っていたメリッサによって、喫茶店へと連れていかれる。商店街の中の喫茶店ではなく、駅内にあるチェーン店。
小綺麗に整った店内は、図書館に負けないくらい空調が効いており、適度な賑わいが、それぞれの客にとって実に話しやすいスペースであることを印象付ける。整った制服に身を包んだ店員のお姉さんに、二人掛けの席へと案内され、互いにコーヒーを注文。
「さて……あ、なんだったかしら~そうそう! 呪いドールを私に!」
やっぱり。
「ですから、それは……」
「あ、受験生って言ってたわよね? 私、こう見えても、アメリカで学位取ってるの。良かったら協力しましょうか? 見返りっていうことで」
「えーっと、あの……あれ、失礼ですけど、メリッサさんは、おいくつなんですか?」
女性に年を聞くのは失礼だということくらい、鉄志は分かっていたのだが、メリッサもメリッサで結構がつがつ失礼な感じに来ているので、目には目を理論で聞いてみるのだった。
すると、メリッサは特に気を悪くした様子はなく、むしろ楽しそうに問い返してくる。
「あら、鉄志さんが私に対して興味をもってくれることは嬉しいことね。何歳に見えるかな?」
その笑みは、大人っぽくもあり、しかし、あまり自分と年は違わないのではないかと思えるほどには幼さも残る。スタイルは良くても、顔はまだまだセクシーと言うのとは違って、どちらかというと、太陽のような明るさを感じさせる。月とは違うという訳だ。
鉄志は考えた。学位を取っている、ということは、日本基準で考えれば、少なくとも二十二は超えているはずだ。正直、外国人の女性の顔を見たところで、老けているのか若いのか、本当におおざっぱにしか分からない。そして、大体美人に見えるというのもまた事実。余談だが、美人だと感じていなかったら、今回のわがままな要求にもここまで付き合わなかったかもしれない。男とは弱い生き物なのである。
「えーっと、二十三歳、くらいですか?」
あてずっぽうだが言ってみる。
「えぇ!? そんなにグラマラスに見えますかぁ? うーん、あぁ、ちなみに、鉄志さんは、ローニン生? というものだとしたら、十八歳くらいですかねぇ?」
「遠からず近からずです。俺は十九ですよ。というか浪人生が分かるって、結構日本文化にも詳しいんですか……?」
ところどころずれているところもあるが。
「浪人! 日本の武士! 失敗したらハラキリ!」
「違いますよ!?」
「ハハハ、ジョーク、ジョーク。アー、それで、私の年齢は、十九、同い年ですねぇ~」
同い年……。いや、外見的にはそんな気もしていたが、それよりも気になるのは、同い年だということは、
「まさか、あの、噂の飛び級ってやつですか?」
「イエス! ニッポンに来てコフーンの調査をするために必死で勉強しましたねー。ニッポン語も!」
なんとなく、この人の人間性が見えてくる。言ってることが本当かどうかは分からないけれども、さっき図書館の学習室で見せつけられた能力といい、古墳関係の本ばかり持っていたことといい、この人は、目標に向かって本気で努力することのできる人間なのだろう。そして、きっと、その努力が間違っているとは思わないような、自分のしたいことが見えている人間。
「すごいですね……。俺は──」
俺は、なんだろう、と思う。俺は、自分の夢がはっきりしないながらもとりあえず大学受験を目指しているような人間です、とこのメリッサに言って何が起こるというのか。何も変わらない。それどころか、何故かという悪意のない糾弾を受ける可能性だってありうる。言う意味なんてない。
少し、自分のやりたことが見えかけていた鉄志にとって、このメリッサという女性の出現は、攻撃だった。
途中で言葉を区切った鉄志に、怪訝そうな顔を見せるメリッサ。鉄志もそのことに気づき、なんとか適当な話題をひねり出そうと、言葉を適当に並べようとする。
「あー、そうですね、へぇ、あ、そういえば、苗字がアオヤマだとか言っていたような気がするんですけど、それは……?」
自然と、するりと、どうでもいいような疑問。不自然ではないが、これといった意味のない、世間話。唯一不自然なところといえば、鉄志は別にメリッサについて何か知りたいという訳ではないのだ。そりゃあ少しは、ほんの少しは、きれいな人と知りあえたなぁ、というような邪念もあったりするが、そもそもこの女、いちまの秘密を知る厄介な存在であり、親密になるメリットは薄いとしか思えないのだから。
けれども、メリッサ側は、そんな鉄志の心のうちを知る由もなく、ただ平然と会話を楽しむように答える。
「父がニッポン人なの~。ああ、でも、アメリカに住んでいた時は生まれてからずっと英語で過ごしてきたから、ニッポン語を勉強し始めたのは、コフーンに興味をもってからよー」
やっぱり、鉄志の考えは間違っていない。古墳にいかほどの魅力があるのか、鉄志には分からないが、けれども、古墳を調査するには学位が必要だから、飛び級してまで学位を取った。そして、日本での調査なのだから当然日本語を身につけなければいけないため、日本語を身につけた。
言葉にしてしまえば簡単だが、メリッサのこのはつらつとした笑顔の裏には、相当量の努力があったに違いない。それが、彼女にとって苦痛だったかどうかというのはまた別の問題となるが。
「す、すごいですね」
鉄志の口から出た言葉は、やっと、それだった。
「古墳は、その、何が魅力的なんですか?」
いつの間にか、メリッサに対する警戒心や必要以上に話したくないという気持ちを、好奇心が勝っていた。
その質問に、メリッサはこれまで以上に目を輝かせる。聞いて欲しかったのか、よほど語りたかったのか。
「よくぞ聞いてくれました! 私は元々考古学者になりたかったの。カリフォルニア大学には、考古学専攻のコースがあってね、そこで学ぶつもりだったのよ。だけど、世界の誰もが知ってるようなピラミッドなんかより、ものすごい存在が日本にあるってことをふとしたきっかけで知ってね! それがコフーン! いい? 鉄志さんも日本人なら知っていると思うけれど、コフーンの数は日本全国に──」
鉄志は気づく。あ、これは、すごい、とてもすごい人だ。そして、すごい人のすごいスイッチを踏んでしまった、と。話はどんどん白熱していく。よくもまぁこんなにぺらぺらと日本語が出てくるものだと日本人ながらも関心するほどに白熱してく。
「──の魅力は、規模もさることながら、時代によって歩みを変えていくこと。そして、そのなみなみならぬぅ数! 鉄志さん、この辺りにもコフーンが何基かあるのをご存知ですか? 私が日本に来たのは父の──」
あまりにも長いし、問いかけてきても、ふんふんと適当に返事をしておけばどんどん話が進んでいってしまう。
鉄志は話を右から左へ受け流しながら、いつ終わるもんかと考えた。こうしてる間にも貴重な時間が過ぎ去っていく。こういやって何もできない時間を過ごしてみて初めて感じる、普段の時間の使い方の贅沢さ。時間とは有限なのだ。今こうして謎の古墳トークを聞いている間も時間は流れるのだ。
「──聞いてる?」
「ふんふん」
「んふんふ」
「ふんふん」
「聞いてない!」
気づかれてしまったので、思考を目の前にいるメリッサへと戻す。
「あ、ああ、すいません、えっと……」
「もうコフーンについてはいいです! とにかく、私は、コフーンの調査をはじめとして、自分が手に入れたいものは必ず手に入れる!」
なんか物騒な悪役のようなことを言っている……。
「えーっと、その、手に入れたいものの中に、いちさんは含まれている、と言う訳ですか……?」
「もちろん!」
これは厄介な人に見つかってしまったものだと頭を抱えざるを得ない。
「でも、なんで、呪いの人形……? そんなオカルトなものと考古学と、あんまり関係ない……こともないんですかね……」
なんとなーくつながるような気がする。ピラミッドといえば、ファラオの呪い、くらいの繋がり方だが。
「イエス、もちろーん! ニッポンと言えば~、コフーン、コフーンと言えば~、日本の墓場、墓場と言えば~のろーい!」
「なんかすごくむちゃくちゃな気がしますけど……」
「ノー! 理論は破たんしていないのよ! いい? ニッポンは、やおよろズの神様の国。その国でおきているオカルトな出来事は、かならず神様が関係しているに違いないの!」
やおよろずを何かのチーム名と勘違いしているような発音だが、大丈夫だろうか。
「そう、ですか……? でも、どっちにしたって、俺は、いちさんを渡すつもりありませんよ。俺も嫌だし、父も嫌がると思いますから」
「オーケー、オーケー。前も言ったけど、ただで、とは言わないわよ? お金が嫌なら、例えば、私が、あなたに勉強をおしえてあ、げ、る、とか」
色仕掛けのように妖艶に表情を作ってくるメリッサ。服装は色気の薄いものなのに、しっかりと女らしさを出してくる。しかし、鉄志はそんな誘惑に負ける男ではない。たぶん。
「ん、あ! だ、だめですってば。勉強なら間に合ってますから!」
「そう?」
相手のペースに飲まれていはいけない。こんな調子で毎度毎度突っかかってこられたらたまったもんじゃないと危機感を強める。
「とにかく、俺、そろそろ勉強に戻りたいんですけど」
時計を見れば図書館で話しかけられてから既に二時間も経っている。ああ、もう戻って勉強する時間はないなと後悔しつつも、さっさと家に帰りたいため、言い訳として言う。
さすがに二時間も拘束していたことには申し訳なさがあるのか、メリッサは、あぁと少し驚いた顔で時計を見て、申し訳なさそうに、
「今回は、じゃあ、この辺で……。でも、いい? 私はドールのことを諦めないし、きっと鉄志さんは、ドールのことを諦めることになるわ。あ、飲食代は私が払っておくわね」
「ええ、ええ、分かりましたから。じゃ、俺はもう行きますね。ごちそうさまでした」
鉄志は席を立ち、店を去る。
家に向かう途中、鉄志は、好奇心で踏み入って知った彼女の強さを思い返していた。同時に、なんとかもう会わないようにしたいと考えた。
しかしながら、それは叶わないのである。