第6話
その日も、何事もなく一日が始まった。鉄志はそのまま何事もなく、勉強をしていた。
ただこれまでと違っていた事と言えば、鉄志が本町商店街をなんとか活気づけようという意識を持っているということと。
そんな鉄志はいちまの存在にも慣れ、いちまが傍にいても、問題なく勉強に集中できるようになっていた。いちまは、特に何も用事がなければ、ずっと大人しく、人形の本職の力を発揮するかのようにじっとしている。二人の間に会話はさほどないが、けれども、そこに気まずい雰囲気が流れているという訳でもない。この会話のなさは、安寧。それは、例えるなら無言の心地よさであり、仲が良いという関係とはまた違った独特な関係。達成できたのは、ひとえに、いちまが人形であるという事実からであろうか。
平穏な時間は流れる。店表の人通りは相変わらずほとんどなかったけれども、それは鉄志の心を乱すことなく、平和。かといって、鉄志はこの店が流行らない、商店街がどうしようもないというい現実から目をそらして勉強に打ち込んでいるという訳でもない。
目の前にあるやるべきことを一つ一つ着実にこなすことで、他の方面へもしっかりと力を注げるのではないかという思いから、勉強という今自分がやるべきことに力を入れているのだ。
そんなまさに平穏と呼ぶべき時間帯。
昼が過ぎ、昼飯を食べようと席を立ち、いつものようにカップ麺を手に戻ってくる。
「そういやあ鉄志。いっつも食べとるその食べもんはなにぃ? けったいな入れもんに入っとるけども」
「え。いちさん、カップ麺知らないの? お湯を入れて三分待つとあら不思議、ラーメンが出来るんだよ」
その説明に、酷く感心するいちま。
「はぁ~! 便利だがや!」
この人形は、一体いつの時代の人形なんだろうと、思いつつカップ麺をすする。いちまはそれを面白がってのぞき込む。位置を変えて、他の角度から見たりしている。
その様子を見ている存在が鉄志といちまの他にいたのが、この平穏を書き乱す一因だ。一人の訪問者はおもちゃ屋みやしたの前に立っている。若い女性。鉄志と同じくらいの年だろうか。ダークブロンドの髪は地毛だ。日本人のそれではない。
その女は、おもちゃ屋みやしたの少し重たいガラス製の扉に手をかけた状態で止まっていた。
店内のカウンター近くで繰り広げられている奇妙なやり取り。声はほとんど聞こえていなかったが、しかし、二人分の声が聞こえているということは分かったし、何より、明らかに人形が動いている。日本人形が動いている。日本の伝統工芸が動いている。その様子を目にして、釘付けになっていた。
音も発することなくただ手をドアの押すところにおいて、ドアを押すこともなく、かといって引くこともなく、中で繰り広げられているやりとりを見ていた。正確には、いちまが動く様子をはっきりとじっくりときっぱりと見ていた。青が少し混ざった瞳で、間違いなくはっきりと捉えていた。
鉄志がそのことに気づいた時には、既に手遅れ。
鉄志と、女の目線がガラス越しにぴったりと合う。明らかに見られていたということが分かる。慌てていちまに、外、外とジェスチャーして伝える。これが余計に良くない。次に合ったのは、いちまと女の目線。三人がそれぞれ見つめ合い。鉄志といちまは、事態の問題性を、そして、女はこの世あらざるものを認識した。
何がきっかけか。この均衡が崩れる。
女がガラス製のドアを開け、店内へと入ってくる。
「オー! アメージング!」
鉄志は、ああ、これ驚いたって意味だなと理解する。そして、外人かと身構える。外人相手ならもしかしたらこの状況もなんとか誤魔化し切れるかもしれない。日本の伝統工芸のレベルは世界的にも高くて、この人形は実は全自動で動いているんですよ、すごいでしょう? これが忍者の国の力、サムライパワーなんですよ、はははと言ったらどうにかなるだろうか。
「これは、市松人形ですね? すごい! オカルトドール! ワンダフル!」
あら、これはとても流暢な日本語ですね、と心の中で感心しつつも、同時に、外人相手だから日本語で適当にまくしたてればどうにかなるだろうという幻想がぶち壊されたということが分かり、次の手を考えなければならなくなる。
いちまは、こんな状況にも関わらず、怪訝そうな顔をして──鉄志としては今さらではあるものの表情をなくして人形そのものになりきって欲しかったが──女を見上げるように見ている。
「この人形はおいくらですか? ここはおもちゃ屋さんですよね! いくらで売っていただけますか?」
その女は、懐から財布を取り出し、中のお札を数え始める。ああ、やばい、そろそろ何かしらの反論をしないと、話がどんどん膨らんでいってしまう。こんな呪いの人形を外に出したらそれこそ大問題──あれ、なんか一大ブームを築ける気が……いやいや、それはよくない、きっと何か解体実験とかされるに違いないし。なにより、いちまはそんなことを望んではいないだろう。彼女を守れるのは俺だけだ。そんなことを考えつつ、
「だ、だめですよ! これは非売品です。ノットフォーセール!」
すると、女は驚いたような顔をして、一旦財布を懐に収める。
「そうでしたかぁ~! ああ、自己紹介が遅れました。私、青山・ワード・メリッサと言います、以後お見知りおきを」
んん、なんか、真ん中の名前はミドルネームで、ということは、青山さんと呼べばいいのだろうか、青山という苗字を持つということは、日本人とのハーフなんだろうか、と外人に対する接し方がわからない鉄志だったが、自己紹介された以上、こちらもしなくてはと考える。
「自分は、おもちゃ屋みやしたの店番やってる、宮下鉄志です」
「オーケー! こっちは?」
そう言ってメリッサが指さしたのは、当然ながらいちま。いちまは何を思ったのか、それに答える。それは、一度動いているところや話しているところを見られてしまった以上、もういいのではないかという判断をしたからだ。
「うちは、いちま。よろしゅう、メリーさん」
あ、外人に対する昔の人のそれだ。
「ノー! ジャパニーズブードゥードール! アイアムメリッサ、私はメリッサよ」
「メリーさん」
メリッサのネイティブな発音が、いちまにはどうしても、メリーさんと聞こえてしまうようだった。メリーさんもそれっぽく言えば、メリッサになるし、大体同じような意味なので、勘弁してやって欲しいところだ。たぶん、アイアムのところも何言ってるか理解してないだろう。
「メリーさん?」
メリッサは手を額に当て、少し考えると、
「オーケー。もういいわ、大丈夫、大体メリーさんみたいなものだから」
なんと適応力の高い外人だ、と鉄志は感動する。いや、外人ってみんなこんな感じなんだろうか。ああ、なんか、昔ながらの外人のイメージってやっぱりあってたんだろうか。
ああ、少し落ち着いて見てみると、そういえば体型もイメージする外人、つまるところ、ダイナマイトバディな感じで、じっくり見ているとこっちが恥ずかしくなる。服装が無地のシャツにジーンズという身軽そのものであるのがかえってよくない。
「ところで、鉄志さん? どうしても、このドールは譲ってもらえないということ? そでのしたは弾みますよ!」
メリッサは鉄志に話しかけているが、目線は間違いなくいちまに注がれている。どうしても、欲しい、といった気持ちがひしひしと伝わってくる。これはこの人が外人だからとかそういう問題ではないだろう。目の前に、動く人形がいるのだ。夜中に一人でいるならいざ知らず、こんな真昼間に店の中にいたら誰だって注目するだろうし、欲しがるのも無理はないと思える。というか袖の下って使い方あってるのかこれ。
「いや、これは、ですね。そう、我が家に伝わる家宝なんです! 家宝! わかりますか? 家の宝と書いて、家宝。とても大切なもの!」
それを聞いて、驚くメリッサと、歓喜しているいちま。ああ、適当なことを言ってしまった、後で誤解をといておかなければと考える。
「家宝! いわゆる、伝家のほーとーという奴ね! 一家に一本はあるという……さすがね、では、この額では?」
人形は刀ではないんだが……と思う。メリッサが指を七本立ててこちらに見せてくる。
「七万円……?」
「ノー! セブンティー!」
「オー!」
うーん、だめだ、このままでは押され負けてしまうことも考えられる。七十万あったら何ができるだろう。ああ、あのゲームも買えるし、あのおもちゃも買えるな。
「と、とにかく、だめですってば! 他の売りものなら大丈夫ですから、何かお探しのものがあるんじゃないですか?」
メリッサは、そうですかぁ、と残念がりつつ、店内を見渡す。所狭しとならんだ玩具。プラモデル。ゲーム。カード。フィギュア。どれも、古いもので、中には貴重なものだって多い。日本人形にこれだけ興味を示すのであれば、それらしい雰囲気が出ているものを欲しがるものではないだろかというわずかな希望を胸に、品定めする様子を待つ。
「あー、じゃー、ハニーワとかはありますか?」
「ハニー、ワ……?」
なんだろう。ハニーは蜂蜜……。いや、ここでは可愛い者といったような意味で使っているのだろうか。ワはなんだ。ワ、和、輪……。なんかどれも違う気がする。英語でハニーワというおもちゃがあるのだろうか。
あれ、でもそういえば、メリッサという名前の語源は確かミツバチだった気がする。そう考えると、やっぱり、蜂蜜に関係するものという可能性が高いのだろうか。
残念だが、生まれてからずっとおもちゃ屋で暮らしてきた鉄志にも分からない。
「ハニーワ、分からない? コフーンの上に並べられた日本の神秘だけど……」
ハニーワ、コフーンというヒントを与えられて、鉄志にもさすがにピンとくる。コフーンは、古墳。となると、ハニーワはそのまま埴輪。古墳の上に並んでいるものといえば、埴輪である。これは日本に住む義務教育を受けた若者ならわかるはずだ。
ちなみに、よく埴輪と間違えられやすい土偶だが、土偶は石器時代に作られたもので、埴輪とは全くの別物であり、注意が必要だ。鉄志はそこのところ、日本史を勉強する上で正しく理解していた。
「ああ! 埴輪! 埴輪ですね!? なんで他のところは流暢なのに、埴輪だけ発音が英語なんですか!?」
ああそうだった、この人外国人だった。あまりに流暢な日本語を話すもんだから、発音がおかしいという可能性を完全に排除してしまっていたのだ。
「ハニーワはすごいのよ、まず、型を用いて作ったものはないの。だからこそ表れるあの優美な表情がいい。一つ一つがそれぞれ違っていて、現代の焼き物にはない愛らしさ、そしてミステリアスがあるわ。コフーンとセットで考えられるハニーワだけれど、実はすべてのコフーンにハニーワがある訳ではなくて──」
何故か興奮して語り出すメリッサを、待って待ってと制して、
「ここは、おもちゃ屋なんで、埴輪は置いてませんよ。うーん、焼き物屋さん……にも埴輪はたぶんないだろうし……」
と伝える。埴輪もどきの変な模型ならもしかしたらどこかに埋まっているかもしれないが、この語り方を見るに、そんなものを見た日には怒りで破壊しかねないような気もする。間違いなく求めているものではないだろう。
「あー、それならいいの! 別に、そのために来た訳ではないし!」
「え、それなら一体何をお探しで……?」
問う鉄志の方を見て、メリッサは答える。
「いやね、何もお探しじゃなくて、挨拶に来ただけなのよね……でも、変わちゃった。私は、そのドールさんがどうしても欲しい」
「だから、これは──!」
「いえ、いいのよ。じゃあ最後に一つだけ……。鉄志さん、あなたはこの店を好き?」
唐突な問いに、少し迷いつつも、鉄志は答える。
「はい、好きです」
それは、ほんの少し前決意を新たにしたことだったから、すぐに、嘘偽りのない気持ちを自然に答えることが出来た。
メリッサはその回答に満足したのか、わかったわ、とだけ言うと、鉄志らに背を向け、店の出口へと向かっていく。
「それじゃあ、またいつか!」
これで危機は去ったのだろうか。いや、そうは思えなかった。またいつかということは、そのまま、またここへ来るという意味。彼女はまたここに来る。そして、何か別件があった。その二つの事実が、鉄志の心をもやもやとさせた。
「なんじゃあ……驚いたねぇ」
対するいちまは、ようやく状況が飲み込めてきたようで、その事実を理解するので精いっぱいだった。
店を出たメリッサは、ほくそ笑みながら独り言を呟く。
「面白いものを見つけてしまったわ……」