1#鯨が飛んだ日
熱い湯に浸かっているかのような満足感と浮遊感を感じながら、意識が覚醒する。体を覆っていた掛け布団替わりのタオルケットを乱雑に剥ぎ、その男はむくりと体を起こした。眠気のせいで若干覚束無い足取りながら、遮光カーテンに遮られている窓に近付き、勢いよくカーテンを開ける。
いつもと変わらぬ行動。
いつもと変わらぬ朝。
いつもと変わらぬ光景…のはずだった。
夏の眩しい太陽光に照らされた近所のマンションや線路、そこを走っている電車、そして各々の職場に向かうために黙々と歩く人々。
普段通りの朝ならばこのような光景を目にしただろう。
今、眼前に広がるのは、いつも通りに太陽に照らされるマンションに線路。
そこは変わらない。
しかし、電車が線路を走っている光景や道を歩く人々は全く見当たらない。恐ろしいまでの静寂が街を包んでいる。
男がこんな異常事態に疑問を抱く前に、周囲に大きな影が落ちてきた。
雲が太陽を隠したという割にはずいぶんとはっきりした影であり、自然とそちらを見上げてしまう。
空飛ぶクジラだ。
海を泳いでいるはずのクジラが空をさも当然のように泳いでいる。悠然としたその泳ぎは、男にそれが未だ自分が夢を見ているのだと錯覚させるには十分であった。
「…紫王?」
背後から自分の名を呼ばれ窓際で呆然としていた男-火澄 紫王は振り返った。
「珍しいね。紫王が俺より早く起きるなんて。」
「… あー。そうね。これ夢だから。起きてないんだよ実際は。まぁ、でも、おはよう。寒奈」
ルームシェアをしている幼なじみの、早乙女 寒奈におざなりに言葉を返す。心ここにあらずな様子の紫王に疑問を覚え寒奈は先程の紫王と同じように窓の外を眺め絶句した。
人間あまりに理解不能な出来事に出くわすと一周回って冷静になるらしい。なんの気なく部屋を見回した紫王は、普段は一日中つけっぱなしにしているエアコンが止まっている事に気付いた。
今は8月。連日猛暑、夏真っ盛りな日に冷房が停止していた室内は耐えきれない程に蒸し暑くなっている。
例え夢の中だとしてもこんなに暑苦しいのは御免だと、エアコンのリモコンを手に取り電源スイッチを押した。…つかない。何度か繰り返し押してもエアコンは云とも寸とも言わず沈黙を保っている。
よく見るとエアコンから伸びている筈の電源コードが無くなっている。
流石、夢の中だと苦笑を浮かべ、リモコンをベットに放り投げた。
「紫王、どうしたの?それより、暑くないの?エアコンつけようよ」
寒奈も紫王と同じく一周回ったらしい。さりげなくカーテンを閉めながら歩み寄る。
紫王は無言でエアコンのコードがあったであろう場所を指差し、自分より若干大きい寒奈を見上げた。
「あれ?なんでコードないの?故障?そんなわけないか…紫王の夢なんでしょ、どうにかしてよ。」
今では何も無かったかのように平になってしまったエアコンの側面を確かめるようにぺたぺたと触れながら寒奈はふざけながらも呆れたように言った。紫王は、そんな事言われても…と肩をすくめて寝室を後にする。
自分だって暑いのだ。できるものなら地球環境なんて気にせずガンガンに冷房を効かせたい。
薄暗いリビングを通り抜けキッチンにある冷蔵庫の冷凍室を勢いよく開ける。
こんなに暑いのだ、アイスでも食べなくてはこっちが溶けてしまいたくなる。
「嘘だろ…俺のアイス…」
ただの甘ったるいジュースと木の棒になってしまったアイス達を前に絶望する。正確な時間はわからないが全てのアイスが同じ状態になっているところを見るに、随分と前から稼動停止していたようだ。
不幸中の幸いと言えば、アイスの置き場確保のために冷凍食品の類いが皆無であったところだろうか。ぶにゅぶにゅになった冷凍餃子など見るのも嫌である。
まさかと思い当たり紫王は無理矢理冷蔵庫の裏をのぞき込む。案の定ある筈の電源コードはどこにも見当たらない。
「しぃ…もしかしてアイス全滅?なんか電気着かないし、ブレーカーが落ちてる訳じゃないみたいなんだけど…家電という家電がコード無くなってるんだけど何したのさ。悪質な夢過ぎるでしょ。」
もう笑うしかないといった様子で寒奈が開きっぱなしの冷凍庫をのぞき込む。言葉では責めつつも、最早今の状況が本当に紫王の夢だとは全く思ってはいないのだろう。しかし、こんな現実は信じられないのも事実である。
因みに、しぃと言う呼び名は幼い頃の紫王の渾名だ。往々にして“し”から始まる子供のあだ名はしぃちゃんだろう。
なんとなく染み付いた習慣で冷凍室の扉を閉めた時、冷蔵庫の扉中央部分、丁度自分の目線の高さになにやら濁った大き目のビー玉の様なものが埋まっていることに寒奈は気付いた。
そのビー玉のような物は約半分がしっかりと扉に埋め込まれているようだ。こんな装飾は買った時には付いてなかったのは勿論、昨日の時点でも存在していなかった。
直径3cm程度のそれになんの危機感を持つことなく寒奈は人差し指で触れた。
直後、何かを吸い取られるような感覚を覚え、大袈裟とも言える動作で後ずさり、冷蔵庫から距離を取った。
「っ!…は、はぁ?え?なんなの」
「っつ!なんだよ寒奈、いきなり…静電気?」
突然の寒奈の動きに直ぐそばにいた紫王も同じ位驚いたらしい。傍から見れば随分と間抜けな光景だが、この場にいるのは二人だけでありその光景を笑うものはいない。
わけがわからないといった目でこちらを非難するかのように見てくる紫王に寒奈は冷蔵庫の例のビー玉を指差し、触れてみるように促した。
「…あ?なんでこんなとこにビー玉埋まってんの?なにこれ?取れないし」
「なんも感じないの?なんか吸い取られるみたいな…」
「いや?全く。」
促されるままになんの躊躇いもなくその玉に触れて見せ、その玉の淵を剥がせないかと爪先でカリカリ引っ掻いている紫王。そんな紫王を信じられないと見つめれば、紫王も何を言っているのかといった様子で寒奈を見つめ返してくる。
両者の間に若干気まずい空気がながれる。
そんな空気に耐えかねたのか、寒奈は再びその玉に手を触れた。すると、先程と同じ様に触れた指先から何かが吸い出されていく。そのなんとも形容し難い不快感に自然と顔を顰めてしまう。
「寒奈、大丈夫?マジなの?ねぇ、平気?」
「うん。慣れてくるとそんなでも無いから平気。」
「吸い取られるってどんな感じなのさ?」
「うーんとね…強いて言うなら…掃除機で筒の形態にしたときにさ、吸い込まれるか吸い込まれないかギリギリのところに指やってる感じ。…わかる?」
先程とは打って変わって心配そうに寒奈を見つめる紫王に安心する様に微笑みながら説明する。なんとも微妙な例えなのは自覚しているがこれ以上の例えが思い浮かばなかったのだ。いまいち理解出来ていない紫王に苦笑がこぼれる。
その時、ブウゥンと言う低い振動音と共に冷蔵庫が動き始めた。扉に埋まっている玉も、発見時は濁っていたのに今では綺麗な透き通った水色に変化し、ほんのり発光している。
「え?動いた。紫王、ほら動いたよ。…なんでだろ」
「本当だ!でも、他のは相変わらずだし…なんでこれだけ?…てか、寒奈、触ってる玉なんか光ってね?俺触った時そんなんじゃ無かったよ。」
そういえばいつの間にか吸い取られる感覚もなくなっている。冷蔵庫の扉を開けると、確かに冷気が出ているのが確認出来た。
「寒奈が触ったから動いた…?吸い取ったやつで動いてるのかな…」
「ねぇ、紫王。なんかさ、ファンタジーみたいじゃない?今の状況って…」
「どのあたりが?」
「こう、魔石に魔力を注入!的な。クジラも外飛んでるし」
「どっちかって言うと、後者の方がファンタジー。後、お前の頭」
お互いに感じている漠然とした不安をじゃれ合う事で紛らわせる。言葉遊びを続けながらも二人は、冷蔵庫の玉の様に他にも玉がないかと探し始めた。
水道の蛇口を捻っても水は一滴も出でこない。真夏の室内で水も、冷房もない現状に二人の顔色が悪くなる。どう考えても最悪のイメージしか見いだせない。空腹と水分補給を兼ねたキュウリを加えながらお互い顔を見合わせる。野菜室にあったものを適当に齧っているが、しっかり常温に戻っているキュウリはどうにも美味しくない。
「なんでキュウリ咥えたままこっち見るんだよ、寒奈。吹くかと思ったじゃんか」
「そっくりそのまま返すよ、紫王。キュウリが吹っ飛んでくとこだったよ、全く。」
「ぬるいキュウリまずい。冷たい水飲みたい。」
「実際、水出なかったらマズいよね…死んじゃう。」
紫王がキュウリを齧りながら、どうにか水が出ないかと蛇口を開け閉めする。寒奈はキュウリを齧りながら、流し台の下の扉を開けて、配管部を確認する。
「あ!あった!玉あったよ寒奈!なんか二個ある。」
どうやら蛇口の側面、対称になる様に玉が埋め込まれていた。どちらの玉も濁りきっている。
今度は、躊躇うことなく指を伸ばし片側の玉に触れた寒奈は、先程と同様の吸い取られる感覚を感じる。
不気味で不快だったこの感覚も、これによって水が出るかもしれないと思えばなんとも思わない。それどころか、むしろ歯がゆく感じる程だ。もっと一瞬でギュイっと吸ってくれれば良いのにと思ってしまう。
「寒奈、大丈夫?また吸われてるのか?」
「平気。安心しなって。他にも玉ないか探しといて」
どうにも不安そうにこちらを見つめる紫王につい笑みが溢れる。なんだかんだ言って過保護な幼なじみは、指示通り他の玉を探しながらもこちらをチラチラと伺うことをやめない。
仕方が無いので、視線をあわせ、仕草だけで他の玉を探すように促すと漸く紫王は真面目に探し始めた。
「はっけーん。コンロにもあったよ。あと、コーヒーメーカーにも」
「そう。こっちも終わったみたい。でも、吸い取ってたの片方の玉だけっぽいんだよね…もう片方は色も変わってないし…」
「他のとこやってから考えればいいんじゃない?ひとまず水は出るようになったんでしょ」
それもそうかと紫王の言葉に納得し、キュッと蛇口を捻れば冷たい水が今まで通り勢いよく流れ出た。
二人が堪らず手を指し出せば、その冷たさに顔が綻ぶ。そのまま、コップに入れるのももどかしいと手で器を作り、水を掬い飲む。冷たい水が渇き切っていた体に染み込んでいくような錯覚を覚えながら、何度も水を口に運んだ。
「水うめぇ」
「水の有難みがよくわかった」
紫王の心からの呟きに寒奈が真面目な顔で同意する。お互いの心がこもり過ぎた感想にどちらともなく笑い出す。
冷たい水を堪能し、人心地ついた二人は次の玉へ向かった。