回想 歳三の少年期
大分勝手な創作が入ってます。
信じてはいけない、いいね!?
生まれつきの飲み込みの速さで損ばかりしていた
…というのは嘘だ。
していたのは損ではなく「退屈」であった。
天保六年、武州多摩郡石田村にて土方義豊生(歳三)を受ける。
父・隼人義諄と恵津の間に生まれ、末っ子であった。
しかし、義諄は歳三が生まれる前に亡くなっており、また母・恵津も歳三が6歳のときに病に罹り逝去してしまう。
義諄の長男、為次郎は盲目であったため、次男の喜六が義厳と名乗り後を継いで当主となった。
後に義厳はなかと結婚し、彼らにによって養育されたが、歳三を可愛がって専ら世話をしたのは4歳年上の姉、のぶだった。
歳三は幼い頃より、その飲み込みの良さを発揮した。
家の手伝いをさせれば、兄弟の様子を見て要領よくこなす。
村の子どもの中でも多めに手伝いを課せられても一番早く仕事を終わらせるのは歳三であった。
それ故に他の子どもらが家の手伝いを終えるのを待つことが多く、つまらない歳三は他の子共らの仕事を手伝ってさらりと片付けるため、同年代の子どもから好かれる一方で年上の少年らに目をつけられていた。
この時分の子どもの成長差は顕著で、この時代年は元日に一斉に年をとる「数え年」で同年代でも早生まれか遅生まれかによって体格の差があり、ましてや年上ともなるとその差はますます顕著である。
年上の少年らに目をつけられた歳三は、彼らに仕事を押し付けられそうになり、体格差を背景に脅されるのだが、歳三はひるまない。
相撲、チャンバラなどで勝負を挑まれれば、普通の子なら自然と引くものだが、歳三は逆に嬉々とするのが常であった。
とはいえ、彼我の差は明らか。
相撲をとれば体当たりで吹き飛ばされ、チャンバラをすればまともに打ち合うこともできない。
2・3度の圧倒的な敗北をした歳三であったが、擦り傷などとは裏腹に口角は上がり、逆月(盃)をえがく。
歳三はそれでもいうことを聞かないので再び稽古と称して勝負を挑まれる。
まともに組み合っても勝てないことを悟った歳三は跳び、駆け身軽さを武器に勝ち始め、警戒を利用しては安定して勝つ様になり、ついには負けることがなくなっていく。
そんな歳三は村ではバラガキ(触れれば怪我する乱暴者)と思われていたが、同年代、年下の子どもらにとってはヒーローだった。
後に天然理心流道場に入門する歳三に、ついていこうとする者も出てくるのだが、それはもう少し先の話である。
一方で歳三はといえば、負けなくなるに連れてつまらなくなっていった。彼にとって年上の少年らのいじめのような行動すらも退屈しのぎでしかなく、対等な相手や挑むべき相手が彼の周りにはいなかった。