熱くなるまで
2011年東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One~オンライン作家たちによるアンソロジー~』(VOL.2)に掲載されていた作品の再掲載となります。
私がこの席に座るようになって半年が過ぎた。
真っ白な壁に真紅の絨毯。私のデスクは木製だけど白く塗装されている。椅子は赤。そしてすりガラスのパーテーション向こうには白いドアがある。このスタイリッシュな空間の奥に我が社の社長室があるのだ。
社長室の手前に受付兼秘書係のデスクがあり、ひょんなことから私がここで仕事をすることになった。私の前にこの席に座っていた女性は、私の知る限り、私の数倍は聡明で美人だった。口調はどんなときも淀みなく、電話の応対も老練の域に達していた。まだ自分に自信のなかった頃は彼女の喋りを録音して真似しようかと思ったくらいだ。でも半年前、彼女は両親の介護を理由に会社を辞めた。あまりにも突然だったので誰もがその理由を疑い、そして本当の理由は社長の逆鱗に触れたためだという噂が社内に広まった。
それを他人事だと思って聞いていた私に、いきなり異動が言い渡され、あろうことか社長室にて勤務することが命じられた。このときは本当に驚いた。どうして私に白羽の矢が立ったのかは未だにわからない。でも前任者が突然辞めたのは、結局のところ社長に気に入られなかったからだ、とみんなは言う。我が社の社員なら誰でも知っていることだが、社長は気難しい人なのだ。
昼休みの時間になった。
ここに来る前は同僚たちとランチに出かけたり、コンビニで弁当を買ってきて食べていたけれども、今は昼もこのデスクで過ごす。トイレや飲み物を買いに行くくらいの中座はできるが、基本的には定時までデスクを離れることはできない。というのも昼時に来訪する人は少ないのに、電話を掛けてくる人は案外多いのだ。でも昼休みまで行儀よく座っている必要もないだろうと私は思う。それに社長もこの半年間、昼休みの間は一度も姿を見せたことがない。きっと彼なりに気をつかってくれているのだ。
私は駅前のパン屋で買ってきたクロワッサンを頬張りながら、情報誌に目を通していた。もうすぐこの街にとある劇団専用の劇場が完成する。その特集記事に私は目を奪われていた。
クロワッサンをほぼ食べ終わり、残りのコーヒーを飲み干したときのことだった。突然、予告もなしにエレベーターが開く音がした。私は驚いて通路へ視線を移し、そして背筋を正した。
「あっ」
考え事をしていたらしく、目を上げて短く声を発したのは相手のほうだ。
「食事中か。すまない」
「いいえ、もう済んだところです」
私は立ち上がって一礼する。彼が私の前を通り過ぎるまで、こうして礼をするのが私の日課だ。他は電話の応対と予定の確認、社長から依頼された資料や文書の作成、そして来客時にお茶かコーヒーを運ぶくらいのことしかしていない。ここに来るまでは漠然と社長室勤務は大変そうと想像していたが、今は思ったよりも楽な仕事だと感じていた。
普段は社長室のドアが開く音がするので、それを合図に頭を上げるのだけど、一向にドアの音が聞こえてこない。不思議に思いながら姿勢を戻すと、私のデスクの前に社長が立っていた。
「この劇団が好きなのか?」
私は目を大きく見開いて社長を見上げた。長身である彼の顔を見ようとすると、首を上げなければならない。端整な顔立ちだが常に厳しい目つきをしていて、冷たい印象の人だ。普段声を荒げるようなことはないのだけど、その表情を少しも変えずに冷酷な命令を下す場面は何度か目撃している。私はドキドキしながら、ぎこちなく頷いた。
社長は何も言わずに私のデスクから雑誌を手に取り、しばらく眺めていたかと思うと、急に私に向かってその雑誌を突き返してきた。
「懐かしいな」
ポツリとそう言うと社長は私に背を向けてデスクから離れていく。去り際に見た彼の頬には確かに微笑が浮かんでいた。
私は社長から受け取った雑誌を胸に抱えたまま、ストンと椅子に腰を下ろす。笑った顔などほとんど見たことがなかったから、驚きのあまり心臓の音が耳のすぐ横で鳴っているようだった。
それからすぐに外出のために社長が部屋から出てきた。
「少し出かけてくる。二時間ほどで戻る予定だ」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」
今日のスケジュールには午後の二時間は「私用」と記入されている。空いている時間に私用を済ませることの多い社長には珍しいことだ。恋人とデートかな、と思う。彼目当てで電話を掛けてくる女性が常に数人いるから、その中の誰かが恋人である可能性もあると密かに思っていた。
だけど、本当の恋人ならわざわざ会社の電話に掛けなくても、社長個人のケータイに掛ければいいはずだ。と、そこまで想像して私は苦笑した。私には何の関係もない話だ。
でも初めて見た社長の笑顔を思い出すと、胸がきゅうっと締めつけられるような痛みを感じる。胸を押さえながら、私は自分の気持ちを力いっぱい否定した。
社長は思わず見とれるような容姿を持ち、若くして会社を大きく育てた有能な男性だ。実際その仕事ぶりを近くで見ていると、私の心の中にはいつしか彼を深く尊敬する気持ちが宿っていた。だけど私は単に受付兼秘書係であって、彼と特別な関係になりうる立場ではない。どんなことがあってもそれを忘れてはいけないと思う。
それでも昼休み以降、私の心の中は妙に騒ぎ出すようになってしまった。そんな自分自身に困惑している頃、社長が戻ってきた。
「コーヒー、入れてくれる?」
それだけ言い残して足早に社長室に姿を消す。いつものぶっきらぼうな言い方だ。私は手際よくコーヒーを入れて社長室のドアをノックした。
「どうぞ」
ドアを開けると、社長は応接用のソファに長い足を投げ出して横になっていた。いつもなら私が入室すると座り直すのに、今日は横たわったままだ。恐縮しながらテーブルの上にコーヒーを置いて応接ソファから離れようとしたとき、不意に声を掛けられた。
「後藤さんは兄弟いるの?」
私はトレーを持ったまま立ち止まる。
「はい。弟が一人います」
「そうか。いや、そうだな。君はしっかりした姉さんという感じがする」
社長は頭の後ろで腕を組んで伸びをした。彼が私をそんなふうに見ていたことに意表をつかれてその場から動けない。どうしようか、と思ったところで社長は身を起こしてコーヒーを口にした。
「俺には今年二十歳になる妹がいるんだ。俺とは一回りも離れているから、仲がいいとか悪いというレベルじゃないんだけど、部屋を借りたいから一緒について来てくれと頼まれて、仕方なく行ってきた」
「そうだったんですね」
私はその光景を思い浮かべてみた。この冷たい顔をした綺麗な男性が、歳の離れた妹に振り回される図が面白く、微笑ましい。
「でも、あれは男だな」
愉快な想像を打ち消すように社長は言った。
「えっ?」
「まだ大学生で、実家から通うほうがいろいろと都合がいいはずなのに、わざわざ部屋を借りるなんて、男が理由に決まってる。その部屋の品定めを俺に頼む妹の神経がわからない」
「社長は妹さんから慕われているんですね」
私はほとんど確信に近い思いで言った。そんな秘密を含んだわがままを言っても、聞いてくれる兄がいたらどんなに心強いだろう。学生時代に何度か私にも兄か姉がいたら、と思ったことがあるから、社長の妹という身分は純粋に羨ましくもある。
「それはどうだかわからないけど、妹がもうそんな年齢になったのかと複雑な気分だよ」
社長は大きくため息をついた。そしてふと私を見る。
「後藤さんはいくつ?」
「24です」
なぜそんなことを聞くのだろう、と思いながら答えると、社長はコーヒーを一口飲み、「うん、知っていた」と言って笑った。
一瞬何が起こったのかわからず茫然とする。気がつけば、トレーをものすごい力で握り締めている自分がいて、今は目を開けたまま夢でも見たような気分だった。
「少し寝る。何かあったら起こして。電話は急ぎじゃなければ折り返しで」
社長はコーヒーカップをテーブルの上に戻すと、またソファに横たわった。足が長いのでソファからはみ出している。靴下が水玉模様でかわいい。彼の冷たい印象とかけ離れた模様だ。
飲み終えたコーヒーカップをトレーにのせて退室しようと立ち上がったとき、目を閉じた社長の姿が視界に入る。綺麗に揃った睫毛と穏やかな表情に胸がドキッとした。でも私は何もなかったように、静かに社長室を出た。
社長の笑顔を見るという稀な体験はこの日以来しばらくなくて、私もあれは本当に夢だったのかもしれないと思い始めていた。だけど私の心の中には社長の笑った顔が焼きついていて、また見ることができないかな、と毎日密かに期待していたりする。
もしかしたら私や社員のみんなが思い描いている社長と、本当の社長は少し違うのかもしれない。だって「社長が水玉模様のちょっとオシャレな靴下を履いていた」と言っても、同僚は全く信じてくれないのだ。それどころか逆に私が社長に変な関係を強要されているのではないかと心配されたりする。「社長はそんな人じゃないよ」とむきになったら、同僚たちは一斉に怪訝な顔をして、私の反応に引いたようだった。
でもみんなも社長のそばにいたら、きっと少しは今までの認識を改めると思う。彼は何も理由なく冷酷な判断を下すわけじゃない。両者がもう一歩ずつでも歩み寄ってくれれば会社の雰囲気は変わるのに――。
何かいい方法がないかと考えてみるけど、やはり私一人の力ではどうにもならないことだった。
ある日、社長と同年代の男性が社長室を訪れた。三十代前半の男性の来客は珍しい。しかもスーツ以外の服装でやって来る人はほとんどいない。
「おっ! かーわいい子じゃない」
そんな挨拶をされたのも初めてだった。私は困惑しながらも、他の来客と同じように応対するよう心がける。社長はその男性の背中を押して、社長室のドアを素早く閉めた。
コーヒーを運んでいくと、珍客の男性が私の顔を興味津々で見つめてきた。
「ねぇねぇ、彼女に俺を紹介してよ」
社長の目が普段より一層鋭くなった気がする。だけど、向かい側の男性は全く気にする様子はない。大きなため息の後、社長の投げやりな声がした。
「この男は俺の同い年の幼馴染。小学校から大学まで一緒だった。今は建築士をしているらしい」
建築士と聞いて、一瞬頭の中に「?」が浮かんだ。この男性の軟派な感じから、どんな仕事をしているのか想像できなかったのだ。でも、社長の幼馴染という点には納得したので「そうですか」とにこやかに答えた。
「いや、幼稚園から一緒だよ。コイツの初恋の女の子も知ってる。確か……」
「お前、そういうどうでもいいことは言うな」
「ま、そうだな。それより彼女に俺がどんな仕事をしてるか説明してあげてよ」
「説明したいなら自分でしろ」
私は二人のやり取りを笑顔で聞いていた。社長が誰かと打ち解けて話している姿は珍しい。本当に幼馴染なんだ、と思った。
「自分で自分の仕事を説明するのは恥ずかしいだろ。お前だって自分で『私が社長です』って言いたくないだろうが」
幼馴染の言葉に、社長は腕組みをし、上目遣いで凄んで見せた。私の背筋にひやりとしたものが滑り込む。息を潜めて成り行きを見守っていると、意外なことに突然社長が私の顔を見た。
「君はミュージカルなんかを上演している劇団が好きだったな」
「はい」
急に劇団の話題になって、頭の中にまた「?」マークが出る。社長は向かい側に座る幼馴染を顎で差した。
「コイツの最近の仕事はその専用劇場の設計だ」
私は社長の幼馴染の顔を改めてよく見る。
「すごい方なんですね」
すると相手は立ち上がってシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚、私の前にうやうやしく差し出した。
「古東と申します。以後、お見知りおきを」
「あ、えっと、ありがとうございます。私は後藤と申します。宜しくお願いいたします」
受け取った名刺に目を落とす。古東さんはいきなり感激した様子で「え、後藤さん!?」と甲高い声を出した。
「俺、コトウでしょ? 彼女がゴトウさん。うわぁ、似てるね!」
「だからどうした」
至って冷静な声が社長室の空気を一度下げた。古東さんは眉をひそめて、それからおとなしく元の場所に腰を下ろす。
「光輝はホントにつまんない男だな。後藤さんもそう思うだろ?」
同意を求められた私は何と返事をしたらよいのかわからず、中途半端に口を開いたまま固まっていた。社長を見ると怒ったような顔でコーヒーを飲んでいる。
私は勇気を出して言った。
「社長は一般の笑いのレベルでは満足しないのではないでしょうか?」
「えっ?」
思惑通り古東さんが戸惑ったような声を出す。
社長は私の顔をチラッと見た。余計なことを言うな、という表情だ。でも私はそんなプレッシャーには負けない。
「おそらく非常に高度な笑いを、常に求めているのだと思います」
「……っぶーーー!」
古東さんが噴き出しながら背もたれにそっくり返った。
「『常に求めている』のか! 後藤さんに一本取られたな」
彼の反応に満足していると、反対側から「フッ」と笑い声が聞こえた。おそるおそる視線を社長へ移動する。社長は口に手を当て、背を丸めて笑っていた。
「コイツを笑わせるとは、やるなぁ。光輝、こんないい子は滅多にいないぞ。大事にしろよ」
私の頬は急にピキッと引き攣った。古東さんは社員として私を大事にしろと言ってくれたのだ。他意はないはず。でも私の心臓はドキドキとうるさくなっていた。
「お前に言われなくても、彼女の資質は俺が一番理解している」
ドン、と心臓を打ち抜かれたような衝撃を感じ、息が止まる。
古東さんが「はいはい」と茶化すように受け流した。そこに電話の音が聞こえてきた。私は本来の仕事を思い出し、すぐに礼をして社長室を後にする。電話の応対をしながら、もう少しだけ社長と古東さんの話を聞いていたかったな、と思った。
それから一週間が経った。また特に変化のない日常が繰り返されていて、社長は能面を貼りつけたような顔で私のデスクの前を素通りする。それは当然と言えば当然のことだけど、私は何か物足りないような気持ちで社長の背中を見送った。
この日も頭を悩ませるような事件は起こらず、着々と定時が近づいてきていた。社長は外出中だったので、仕事をキリのいいところで終わらせ、デスクを片付ける。その最中に一階の受付が来客を伝えてきた。
「コトウ様、ですか。漢字は『古い』に『東』でしょうか?」
「そうです」
私の脳裏に社長の陽気な幼馴染の顔が浮かんだ。
「社長は外出中ですが、ご用件は?」
「それが、社長に頼まれた品をお持ちいただいたとのことです。お通しいたしますので宜しくお願いいたします」
受付の女性社員は一方的に用件を伝えて電話を切る。彼女は私の苦手なタイプだ。ピンと伸びた背筋と、ツンと澄ました表情が印象的な綺麗な人だ。私が社長秘書に異動になった当時、彼女は率先して陰口を叩いていたらしい。でも直接聞いたわけではないので、私自身は彼女に対しての評価を保留したままでいる。私自身は彼女に何の恨みもないからだ。
それでも何となくもやもやした気持ちで受話器を置くと、エレベーターが動き出す音がした。あの古東さんがわざわざやって来るとはどんな用件だろう、と好奇心がむくむくと顔を出す。
エレベーターが開くと、先日とは違って黒いスーツに身を包んだ古東さんが現れた。スーツ姿だが、一般の会社員とは何かがかけ離れている。たぶんスーツのデザインが既にビジネス用ではないし、シャツもグレーの光沢のある生地で、ネクタイは一般的なものより少し細い。おそらくどれも高級品のはずなのに、古東さんが着るとどこか浮世離れして見えるから不思議だ。
「やぁ、後藤さん! 悪いねぇ、急に来ちゃって」
私は笑顔で挨拶をした。
「それでご用件は?」
時計はもう定時をまわった。この後、急ぐ用があるわけではないが、できれば早く帰りたい。
古東さんは私のデスクに手をついて、私の顔に視線の高さを合わせた。
「後藤さんに会いに来たんだ。どうしても君に会いたくなって……」
私はギョッとした。後ろに一歩下がる。
すると古東さんは急に「あはははは!」とのけぞって笑い始めた。
「嘘。冗談だよ」
「そ、そうですよね。あはは……」
本当にたちの悪い冗談だ。ドキドキする胸を古東さんに悟られないように、私はできる限り平静を装った。
古東さんは上着の内ポケットに手を突っ込み、古東設計事務所と社名の入った封筒を私のデスクの上に置く。
「これを光輝に渡してほしいんだ」
「はい。お預かりいたします」
「それと……ちょっと言いにくいんだけど」
片手を後頭部に当てて、伏し目がちにしていたかと思うと、急に私の目を覗き込んできた。そして今度はズボンのポケットから何かを取り出して私に差し出す。古東さんの手に握られていたのはチケットだった。
「一緒に行ってくれないかな?」
「……えっ!?」
「この劇団、好きだって言ってたよね」
私はおずおずと古東さんの手からチケットを受け取った。まず大好きな劇団の名前が目に飛び込んできて、小さく息を呑む。
この劇団を初めて観たのは小学生の頃だった。当時、この劇団のミュージカルが全国で大流行し、私の住むこの街にも専用劇場があった。そこへ母に連れられて観に行ったのが最初で、そして最後だ。専用劇場は数年後、周辺地区の開発により閉鎖し取り壊されている。でもあの素晴らしい体験は十数年経った今も忘れることができない。小学生だった私は、生のミュージカルの迫力に最初は圧倒され、次第に興奮し、最後には感動して涙を流していた。その後もいくつかの演劇を観る機会があったけれども、これほどまでに心を突き動かされる舞台はなかった。
あのとき私の中に巻き起こった大きな感動が一瞬脳裏によみがえる。
「大好きです!」
思わず言葉に熱がこもった。それから「あっ」と思う。慌てて言い直した。
「この劇団が大好きなんです」
向かい側で古東さんが噴き出す。
「ホント後藤さんって面白いなぁ。やっぱり君を誘うことにしてよかったよ」
「いえ、でも私、まだ行くとは言ってな……」
言葉の途中で古東さんが私の手からチケットを奪い取った。
「嫌ならいいんだ。でもこれさ、招待席なんだよね。こんな席、なかなか取れないよ?」
私の喉がゴクリと鳴った。古東さんの指の間でひらひらと揺れるチケットに目が釘付けになる。
「どうなの? 行きたい? 行きたくない?」
畳み掛けるように返答を迫られた。私は一呼吸してから口を開く。
「行きたいです」
古東さんはにっこりとして、私のデスク上にチケットを置いた。
「こういう場所に男が一人で行くのもちょっとな、と思っていたから嬉しいよ。それじゃあ、当日は現地集合で」
待ち合わせなどの面倒なことがないとわかって、私は心の底から嬉しくなった。
古東さんが立ち去った後、思い切り表情を緩めてチケットを眺める。実は友達と行きたいと思っていたのに、誘ってみたら「あまり興味ない」とすげなく断られてしまったのだ。一人で行くのは少し勇気がいるな、と諦めかけていたところに、この話が舞い込んできて、こんなラッキーなことがあるだろうかと思う。しかも招待席だ。お金もかからない上に特等席に座れるなんて夢のようで、気分はふわふわと高揚していく。
自分の鞄にチケットを大事にしまい、それから社長宛の封筒を社長のデスクへと運んだ。だけどデスクは郵便物や書類などが山になっていたので、結局私のデスクの施錠できる引き出しに預かっておくことにした。
翌日、古東さんから預かった封筒を社長に渡すと、気のせいかもしれないけれども、社長はほんの少しだけ表情を緩めたようだった。
「古東はすぐ帰ったか?」
「はい」
社長は私の顔をまじまじと見つめてきた。疑うように顎を引き、少し上目遣いになる。私は思わず目を逸らした。
「えっと、古東さんにミュージカルのチケットをいただきました」
これは正確な表現ではないな、と思ったけれども、間違いでもないと自分を励ました。
しかし、社長にはごまかしが通用しなかったらしい。
「後藤さん。君のプライベートにいちいち口出しするつもりはないが、相手が古東となると話は別だ」
私は怒られているような気分になってうつむく。やはりオイシイ話だからとよく考えもせずにチケットを受け取ってしまったのが失敗だったのだろうか。でも、と私は思い直した。
「古東さんがどういう意図で私を誘ってくださったのかはわかりませんが、社長の幼馴染と知っていて簡単にお断りすることは私にはできません」
「君はバカか」
呆れたような声を真正面からぶつけられた。私は社長を無言で睨み返す。
「それじゃあ君は、古東がミュージカルの後も強引に付き合えと言ってきたらついて行くのか。あの男が俺の幼馴染だから簡単には断れないんだろう? どうなんだ?」
「それは……わかりません」
社長と私はその場で身動きもせず、数秒間睨み合っていた。突然視線をフイと外して背中を向けたのは社長のほうだった。社長室のドアが乱暴に閉じられる。
完全に怒らせてしまったようだ。
私は自分の椅子に腰を下ろすと、ふうと大きく息を吐いた。プライベートに口出しする気はないと言ったくせに、どうして怒られなければならないのかよくわからない。
「『バカ』って、ひどい。言い過ぎ」
胸の中に収めておくことができなくて、囁き声で愚痴った。チケットをもらっただけのことがそんなにいけないことだとは、私にはどうしても思えなかったのだ。
それから一週間、社長は頑として私とは口を利かず、私は仕事上どうしても必要な連絡事項のみを伝えるだけで、お互いピリピリとした雰囲気の中で過ごすことになった。
そして、ついにミュージカルの日がやって来た。その日も朝から社長は最高のご機嫌斜めぶりを発揮し、私もデスクの前を素通りする社長を、形式的には頭を下げつつ、冷たい目で見送った。
朝は社長が出社するとコーヒーを入れるのが日課だ。いくら険悪なムードでも日課は欠かさない。私はいつもと同じように社長室へコーヒーを運んだ。
「濃いな」
久しぶりに聞いた社長の声がそれだった。
「入れ直しますか?」
私は慌ててコーヒーカップに手を伸ばした。社長が私の顔をじろりと見る。
「メイクが濃い」
私はそこで彫像になったかのように固まった。わざとらしい嘆息を漏らしてから「失礼します」と苛立ちを何とかこらえて退室する。
せっかくの楽しい日の始まりが最悪だ、と社長室のドアを閉めた後でもう一度ため息をつく。
自分のデスクに戻って仕事を始めた私は、急に気になって自分のポーチから鏡を取り出した。そんなにいつもと変わらないと思う。でも、いても立ってもいられない気分になって、トイレに立った。
メイク直しを終えてデスクに戻ると、社長が外出の準備をして出てきた。
「今日はもう戻らない」
ぶっきらぼうにそう言い残して足早に去った。エレベーターが社長を乗せて動き出すと、私はようやく気持ちが落ち着いて、その後は胸を弾ませながら仕事をこなした。
定時に仕事が終わり、ドキドキしながら会社を後にした。新しくできた劇団専用の劇場は会社から徒歩で20分ほどの距離だった。到着して時計を見ると開演時間には十分な余裕がある。お腹が空くかもしれないと思ったので、ロビーで軽食を取った。
開演時間が近づいてくると、周囲の人たちは場内へと移動し始めた。私はあまり早く席に着いているのも変かな、と妙な気づかいをしてしまい、自分の席に行くのを躊躇していた。でも10分前になるともうロビーでじっとしていることができない。はちきれそうな胸のドキドキを抑えて場内へ足を踏み入れた。
チケットの座席番号を確かめて舞台のほうへと近づいていった。前から二列目の真正面の席だ。舞台が間近で、私の興奮は最高潮に達する。
私の隣はまだ空席だった。少し拍子抜けして、同時に少しホッとした。古東さんのことはよく知らないけど、彼には社長が心配するような変な意図はないと思う。
そこで思考がピタッと止まった。
社長は何を心配していたのだろう。私が古東さんの誘いに乗ったことにどうして怒ったのだろう。相手が古東さんだから話は別、みたいな言い方をしていたけれども、もしかしたら私が勝手に大丈夫だと思い込んでいるだけで、実は手の早い危険な男性なのかもしれない。幼馴染の社長が言うことだ。二度会っただけの私の判断より社長のほうが正しいに違いない。
そう思うと急に不安が全身を駆け巡った。私は本当にここにいていいのだろうか。
開演ブザーが鳴った。同時に列の端から身を屈めてこちらへ向かってくる人影が見えた。
来た!
心臓がドキドキする。舞台にわずかな照明がついた。その途端、私は「ええっ!?」と声にならない声を上げていた。
「すまない。遅くなった」
「あの、古東さんはどうしたんですか!?」
私の隣に腰掛けたのは社長だった。社長は後ろの人を気にしてか、足を前に出し、座高を調節する。
「君をアイツには任せられない」
小声でそう言うと、私の顔を見て微笑んだ。それから舞台へと視線を移動させた。
私も舞台を見る。だけど頭の中は激しく混乱していた。
これはどういうことなんだろう。
ミュージカルが始まってしまったので、社長に話しかけることはできない。そのうちミュージカルの進行とともに、私の意識も舞台へと向いたが、頭の片隅では隣にいる社長のことがずっと気になっていて、どっぷりと物語に浸かることができなかった。
終演後、私たちはしばらく立ち上がることができずにいた。しかも気まずいことに社長は黙ったままだ。私はどうしてよいのかわからず、困り果てて社長を見る。
「何か言いたそうだな」
社長はやっと口を開いた。私は少し考えて、それから言った。
「社長がミュージカル好きとは知りませんでした」
隣でフッと笑う声が聞こえた。
「昔、この劇団を家族で観に来たことがある。嫌いではないな。今日も楽しかった。両親の結婚記念日にこのチケットを贈ったのは正解だった」
自然な表情で笑う社長に、私の視線は釘付けになっていた。
「どうして……」
思わず口走ってしまう。
「いつもそういう顔をしてくれないんですか」
社長の頬から笑みが薄れて、みるみるうちに寂しそうな表情が浮かんできた。
「俺は俺のやり方でしかできないんだ。社員に冷酷だと言われても、俺一人くらいはそういう役を演じなければ成り立たない。会社とはそういうものだ」
「そうは思いません」
私は社長の勝手な思い込みに腹が立っていた。
「社長が冷たい顔をして厳しい態度で社員に接したところで、社内がギスギスするだけでいいことなんか一つもありません。それよりもっと普通に、人間らしいところを見せてくれたほうが、社員だって社長を素直に尊敬してついて行こうと思うはずです」
言い終えるとすっきりしたけれども、次の瞬間、言い過ぎたような気がしてハッとした。社長は反対側の肘掛に肘をつく。
「わかったようなことを言うな」
その言葉を聞いた途端、得体の知れぬ感情が湧き上がり、胸を突き破って出てきそうになった。反射的に立ち上がって出口へ向かう。途中、上を向いて激情がこぼれそうになるのをこらえる。そのとき、後ろから腕を掴まれた。
「待て」
「帰ります」
「送る」
「なんで優しくするんですか? 怒っていたんじゃないんですか? それにどうして今日、社長がここに来たんですか!?」
私は涙が頬を伝うのも気にせず、思っていたことを全部吐き出した。つかまれていた腕が解放される。
「古東のほうがよかったのか?」
「違います」
頭上でクスッと笑う声がした。見上げると社長が優しい表情をして、私の頬の涙を指で拭う。
「続きは車の中で話そう」
返事をする前に再び腕がつかまれ、私はふわふわとした足取りで劇場を後にした。
「君はしっかりしているようだが、実際は全く無防備だな」
車を発進させると社長はまずそう言った。当然、社長の車は私が乗ったこともない高級車だ。助手席に乗ったのはいいけれども、居心地が悪くて仕方がない。
「心配で放っておけない」
私は社長の顔をおそるおそる見た。社長はクスッと笑ってハンドルを握っていないほうの手を伸ばして、私の手をつかむ。
「あの、でも、これって……」
「本当はもっとギリギリまで待つつもりだったのに、そうも言っていられなくなった」
「ギリギリ?」
「そう。君が俺のことを好きになるまで」
心臓が壊れそうなくらいドキドキしていた。ずっと社長の遠まわしな言い方に半信半疑で、でも本気に受け取ったらそれこそバカを見ると思っていたのだけど、これはもしかしてもしかするということなのだろうか。
「私は社長のこと……」
「ストップ」
「えっ!?」
いきなり出端をくじかれて、私は目をパチパチと瞬かせた。社長は握った手にぎゅっと力を込める。
「その続きはもっと後で聞かせてくれ。俺と同じくらいに、君が熱くなるまで、もう少し待っているから」
息が止まった。社長の顔を確かめるように見ると、一瞬だけ私に視線を合わせてくれた。その途端全身がボンと熱くなる。これは夢じゃないよね、と何度も自問した。
その後社長は、今夜と同じ特別招待席の別の日のチケットを古東さんに頼んであったのだと説明してくれた。勿論、社長が両親の結婚記念日を祝してプレゼントするためのものだ。そのお礼をするために古東さんの会社に出向き、彼を優しく脅して今夜のチケットを奪ったのだと言う。優しく脅す、なんてひどく矛盾しているけれども、社長らしいと思った。私は二人のやり取りを想像して、楽しく幸せな気分になる。ミュージカルの幕は下りたのに、まだ夢の中にいるようだった。それもそのはず。私と社長の恋はまだ幕が開いたばかりなのだから。
翌日、会社に古東さんから電話が来た。社長に取り次ごうとすると「後藤さん」という冷静な低い声が受話器から聞こえてくる。
「昨夜は楽しんでくれた?」
「はい! あの、本当にありがとうございました」
「俺、キューピッドになるつもりは全然なかったんだけど」
古東さんのぼやく声に私は思わず笑ってしまった。
「光輝に伝えてよ。『この借りは必ず返せよ』って」
「はい。承りました」
「それから後藤さん。アイツ、すごくわがままなヤツだけど、よろしくね」
「はい。承りました」
電話を終えて、私は立ち上がった。時計を見るとちょうど午後三時だった。静かだからもしかすると眠っているかもしれない。でもいいよね、と一人にんまりしてコーヒーメーカーにスイッチを入れた。
ドリップしたてのコーヒーを持って社長室のドアをノックする。私だってこのコーヒーよりもっと熱くなっているのに、と思いながら……。
※ラストの劇場の座席に関して、通常演劇の招待席が前から2列目に設定されることはありえないと、今回投稿後に教えていただきました。ご指摘をいただきましたとおり、本来招待席は劇場やホール全体を見渡せる特等席に設けられるもので、この作品では「招待席」のチケットとしては誤った記述をしております。お気付きになられ、不快に思われました皆様には深くお詫び申し上げます。(丁寧にご教授くださいました方には本当に感謝しております。ありがとうございました)