偏差値4...後夜
抱き着いた腕が、心臓の脈打つ度に熱を帯びてきた。ドクン、ドクンと指先自体が心臓になったかの様に脈打ってくる。
鶴伎は余りに急なタックル(それほど激しいものではないが)を喰らい、若干つり目の黒い瞳を思い切り見開いた。余りにもいきなり過ぎて、状況がよく読めない。
今、何故、目の前にいる女の子は自分に抱き着いているのだろうか。
自分は彼氏ではない。保護者でもない。…いや、最寄駅まで送っている今は保護者と言ってもいいのか。
「ちょっと、汐音ちゃん…?」
「……」
汐音は眼鏡がずれても前髪が乱れても、鶴伎から離れようとはしなかった。震える手をしっかり制して、暖かな胸へと顔を擦りつけていた。
鶴伎はやれやれと言わんばかりの溜め息を吐き、汐音の背をポンポンと叩いた。汐音が自分に気があることは分かっている。
分かっていながらに相手を突き放すような真似はしないと、鶴伎は心の中で決めているのである。例外は付き合っている相手が居る時や、別れた相手に対してだが。
そうは言っても、気のない相手ならこんな真似はするはずがないのだが。いや、言うならば、慰みに使われるのは嫌と言う意味だろう。
『次は――、――。降り口変わりまして、左手になります。』
「…着いたよ、汐音ちゃん。この駅でいいんだよね?」
この人を離したくなかった、いや、放したくなかった。この手でずっとここに留めて、自分だけを見ていて欲しかった。
自分に手を焼いて、呆れながらに構って欲しかった。でも、帰らなければいけないなんて、時間っていうのは本当に残酷だ。
「…はい、」
前髪を整えながら離れるとずれにずれていた眼鏡が床に落ちて、カシャーンと言う音が鳴った。
熱かった汐音の頬が、急激に冷やされていく。ぼやける視界で眼鏡を取ろうとした、その時。
「キャッ―」
電車が止まって、よろめいた。鶴伎が支えてくれたので倒れはしなかったが、そんなことより、眼鏡である。
床に落ちている黒縁の眼鏡が、人混みに呑まれてしまった。いよいよ真っ青になった汐音の顔は、駅のドアが閉まるまで固まっていたのだという。
「あ…閉まっちゃった。汐音ちゃん、次の駅で引き返そ――どうしたの、眼鏡は?」
汐音の一部始終を見逃してしまった鶴伎は、状況がよく呑めていない様子で汐音を見つめた。汐音の眼鏡が忽然と消え、更に真っ青な表情で一点を見つめている。
鶴伎は汐音の見つめる先を辿ってみた。
そこには、何とも言えず無残な姿の黒縁眼鏡が落ちていた…。
「…合格の祈念にって、入試前に、新しく買って貰ったのに…」
どんどん視力が落ちてゆく汐音の目にはもう、前の眼鏡では度が合わなかった。だがこの間買ったばかりだろうと両親は新しいものを買ってくれなかったのだ。同居している叔母がそれを気遣って、「じゃあ合格を祈って」と今の眼鏡を買ってくれたのだ。
今の眼鏡はかなり見易く、気に入っていたのに。自分が調子に乗ったから、天罰が下ったのだろうか。
姉の様な存在である優しい叔母の、悲しみの混じる微笑みが浮かんできて、胸が苦しくなった。目頭が熱くなって、涙が零れそうになった。
鶴伎はレンズが割れ、フレームの歪んでしまった汐音の眼鏡を拾い上げると、時刻を確認した。幸い、眼鏡を作れるだけの時間はあった。
「今から作りにいく?この眼鏡と同じ奴」
「でもお金ないし…大体、8時までに帰ってこいって言われてるんです」
「じゃあ素直に怒られに行く?」
「…叔母に、素直に謝ります」
お金がないのも確かだが、汐音は自分の罪をごまかしたくはなかった。叔母が自分に似合うと思って買ってくれた眼鏡を壊して、証拠隠滅のために別の眼鏡を買ってと言う、卑怯な真似をして罪から免れたくなかった。
優しい叔母だけど、いや、だからこそ、素直に謝りたいと思った。
「そういうとこ、律義で好きだなぁ」
鶴伎にそういうことを言われて、こんなところでも胸が熱くなる自分が嫌になる汐音であった。
―
それから、家に着いたのは7時51分であった。時間ギリギリ。
それでも8時までに帰ってこれたのは、視力の悪い汐音を気遣って鶴伎が汐音を駅だけではなく汐音の家まで送ってくれたからだろう。
「それじゃ、また明日。」
「本当にありがとうございました…!また明日!」
駅に着いた時に「遅くなりました」メールをしたので怒られはしないと思うが、母がメールを見ていなければ結構に厄介なことが起きる。
汐音は恐る恐る玄関のドアを開けると、晩御飯の匂いがふわりと立ち込めた。
「ただいまー…」
「あら、おかえり。遅かったわね…あら?アンタ眼鏡は?」
「それが…」
幸い母には怒られなかった。叔母も風邪を引いて眠っているのだという。
こんな時間に晩御飯の匂いがしたのは、父の仕事がいつもより遅くなってしまったからだという。裸眼で見えないながらに温かいご飯を口いっぱいに頬張ると、眼鏡が壊れた時に感じた喪失感を思い出し、涙が出てきた。
「起こしちゃ悪いから、穂香(叔母のこと)に手紙書いておきなさい。」
母より10も歳の離れた叔母は、汐音の姉のような存在であった。ずっと妹を欲しがっていた叔母もまた、汐音を妹のように扱った。
優しい優しい、汐音の姉。生まれつき体が弱いけれど、汐音とよく遊んでくれた、美人な姉。
次の日、そんな優しい姉からプレゼントが届くことを汐音はまだ知らない。
―
鶴伎は再度電車に乗り、揺られながら今日の出来事を思い返していた。
今日は精神的に疲れる日であった。肉体的に疲れるのも怠いので嫌だが、精神的にも中々怠い。
いつまでも人の減らないこの電車にも、疲れさせられる。何故こんな疲れることをしてまであの学校に行っているのかとたまに疑問に思う時もあるのだが、あの学園は何故か知らないがとても楽しい場所なのだ。
久遠も居り、自然もあり、静かな裏庭もある。昼寝をしたい時とかは打ってつけの場所だ。
(あの場所、汐音ちゃんも好きそうだよな)
ふと、汐音のことを思い出した。髪を切って眼鏡を掛けて、最初は本当に誰だか分らなかった。
名前もうろ覚えだったので、どこかで聞いたことあるなー程度で済ませてしまったのだ。まさか、生徒会で再会することになろうとは。
いや、自分が居るから生徒会に来たのだろうが。…これは自惚れかもしれないが。
(…コンタクトにはしないのかな)
思えば最近の子は視力の悪い人でも、コンタクトレンズにしている人が多い。汐音も眼鏡ではなく、コンタクトレンズにはしないのだろうか。
そういう鶴伎もコンタクトなのだが。本人曰く、眼鏡が似合わないかららしい。
眼鏡が良く似合う人は、羨ましいと思った。コンタクトにすると、迂闊に眠れない。眼鏡なら外せばいいものの、コンタクトは外してまたつけるとなると、面倒くさくなってしまうのだ。
コンタクトをつけたまま寝てしまうと目に張り付いてしまうので、とても怖い。痛いのは嫌いだ、例えどんな痛さであったとしても。
(うーん…寝そう)
今も気を抜けば、眠ってしまうかもしれない。気を張らないと…面倒だし、疲れてしまうが。
漸く自宅の最寄り駅に着いた時は、既に8時30分を回りそうであった。両親は仕事でいつも遅いから誰も何も言わなくて楽なのだが、このままでは布団に直行してそのまま寝てしまいそうである。
ラップに包まれた、冷蔵庫で冷めている料理が目に浮かんで、鶴伎は更に食欲を無くすのであった。
「…ただいま」
返事が帰ってこないのにただいまを言うのは、昔からの習慣だからである。因みに行ってきますも、返事がなくても言う。
ローファーを靴箱に突っ込んで、ブレザーをクローゼットの中に突っ込むと自室のベッドへ倒れるように飛び込んだ。これをしてコンタクトを外しに行くのが面倒くさくなるので、ベッドの脇に鏡とごみ箱が設置されているのだ。
寝転がったまま行儀悪くコンタクトを外せば、漸く気を張らずにのんびりすることができる。鶴伎の至福の時間だ。
(…あ…汐音ちゃんに、アド聞けばよかったな)
枕に顔を埋めながら、再度汐音のことを思い浮かべる。今日だけでどれだけの汐音を見ただろうか。いや、どれだけの汐音の表情を見ただろうか。
普段はポーカーフェイスの癖に、鶴伎を相手にしているときは、面白いくらいに表情がコロコロと変わる。二時間目の話をした時も、焦っていたのか目が面白いくらいに泳いでいた。
名前を呼んだだけで目を丸くしたり、顔を赤くしたり、今までそんな面白い女の子とは出会ったことがない。正直ギャグキャラクターな葩より面白いと思った。
(あんな反応するなんて、そんなに俺のことが好きなわけ…?)
そんな汐音を、愚かだと感じた。何故自分の顔だけで、そんな好きと言う気持ちが生まれるのか。鶴伎には到底理解できなかった。
あの子に俺を「お飾りにしたい」と言う願望は感じられないけれど…「お飾りにしたい」訳じゃないんなら、なんなんだ。と鶴伎は棚にある母親の写真を見つめた。
父親の美貌に魅了され、学生の頃に父に告白して「イケメン社長の婦人」という肩書を手に入れた鶴伎の母。鶴伎はそんな愚かな母親が大嫌いであった。
愚かで、浅はかで、可愛らしい生き物。そんな鶴伎の女性への偏見が生まれたのは、この母親が原因でもある。実際両親の間には何処か距離があり、家族というものを味わったことが鶴伎にはなかった。
だから物心ついた頃から鶴伎は、結婚するなら本当に自分を好きでいてくれる人と結婚しようと思っていたのだ。
「父親似の綺麗な容姿」が好きな母親の様な女ではなく、「鶴伎自身」を好きになってくれる人と結婚しよう、と。
そんなことを考えている内に、電気を点けたまま、制服のまま眠ってしまった鶴伎であった。その日見た夢はとても、最悪なものであったという。
だがこの日に鶴伎が見た夢を同じく汐音も見ていた事を、周りの人間はおろかお互いさえ知らない。そしてこれからも、知ることはないのだいう――。