偏差値3...初会
それは、半年前のこの学園での学園祭の話である。
友人に半ば強引に連れ出された中三の汐音は、如何にも気怠そうに学園を見て回っていた。お化け屋敷回りをしたり、食べ物巡りをしたり。気怠げと言えど、それなりに楽しかったのだが。
一方友人は汐音だけでなく彼氏を連れて学園祭に来ていたので、汐音の数倍も楽しそうであった(何故わざわざ汐音を連れてきたのかは謎)。
友人は彼氏とばかり話していて、汐音のことはそっちのけでキャッキャウフフと楽しんでいた。だが突然、人ごみに襲われ、汐音は二人と離れ離れになってしまう。
「うわっ!何よもー…」
眼鏡はまだ掛ける必要がなかったと言えど決して目が良かったわけではない汐音は、当然の如く二人を見失ってしまった。人の波に揉まれて気持ち悪くなりながら、何とか脱出したころにはもう二人とも忽然と消えてしまっていた。
携帯を開いて見てみると、一通のメールが…。
『ごっめーん☆二人きりになりたいから好きに見て回ってていいよ(^∀^)♪』
回ってていいよ(^∀^)♪じゃねーよ。あんたの付き合いで来てやってんだろうがああ。
この時、汐音ははっきり言って友人に殺意を覚えたらしい。うっかり新品のガラパゴスケータイを真っ二つにイってしまうところであった。
仕方がないと思って見て回って行くも、行く先々に食べ物、食べ物、食べ物。もう満腹ですと叫びたいくらいであった。
それに先ほどの人ごみで既に酔ってしまっていた汐音は、段々と気分が悪くなってきてしまい、広場の端っこで蹲っている他なかった。
「うう、気持ち悪い…チュロスとかワッフルとかかき氷とか全部出てきそう…。」
とりあえず気を紛らわす為に体育館へ行って演劇やらダンスやらを見ていたのだが…、波は一向に収まることがなかった。
仕方がないので定位置へ戻り、収まるまで全てを遮断することに決めた汐音は明らかに怪しいが広場の隅で蹲っていたのであった。
「…大丈夫ですか?」
誰かが呼びかけてくれたのも気づかずに。
「あの…大丈夫じゃないですか?」
「はい…?」
明らかにおかしい具合の聞き方にやっと気が付いた汐音。顔を上げるとそこには、綺麗な顔をした“生徒会”という文字を腕に巻きつけている男子生徒がいた。
漫画か何かから出てきましたか?と問いたくなるような相手の綺麗な顔に、汐音は口を開けたまま呆然としていた。
「顔色が悪いですよ、医務室までお連れしましょうか?」
「え、いえそんな…」
「大丈夫、仕事ですから。ご案内しますね」
汐音は連れられている間、その男子生徒の顔に見惚れてしまっていた。何て綺麗なのだろう、こんな人、今まで見たことがない、と。
その内気持ち悪さも忘れ、逆に胸がとくん、とくんと高鳴ってきて、頬が熱くなり始めた。でもまだ安静にしてなくてはと、医務室のベッドでお茶を飲みながらその男子生徒は話し相手までしてくれたのだ。
高校生とは、こんなにも人種が違うのか。たかが1歳か2歳年が違うだけなのに。これが高校生と言うものなのか。汐音は自身の中学の男子と相手を比べて、ため息しか出なかったと言う。
「ごめんなさい、こんなに長々と。」
「いや、大丈夫。中学の頃を思い出せて楽しかったし。あ、名前聞いてもいい?」
「シオンです、藍沢汐音。さんずいに夕日の夕、音と書いてシオンと読みます。」
「汐音ちゃんか、俺は――」
自己紹介をしている間に、突然医務室のドアが勢いよく開いた。
外から見知らぬ男子生徒が入ってきて、汐音は困惑した。相手は誰だか分かったようだ。
「“つる”!何やってんだ当番の時間だぞ!早く来い!」
「え、もう?…ごめん汐音ちゃん、行かなきゃ。
あ、良かったら是非、この学園においでね!俺、来年は生徒会長になるつもりだから!」
その一言だけを残して、彼は、嵐のように去って行ってしまった。
“つる”って何かなとか、この学園偏差値高かった気がするなとか、そんなことは後から考えたが汐音の頭の中に残ったのはあの生徒会委員に対しての強いときめきのみであった。
そして汐音は鶴伎に会いたい一心でこの学園に入学したのであった。
―
例え先輩が覚えて居なくとも、私はちゃんと覚えてた。貴方に会うために、貴方に会うためだけに、この学園に頑張って入った。
これをイカレていると言うのなら、きっとあなたは本当の恋を知らないのよ。
汐音はいつの間にか、鶴伎の手を取っていた。鶴伎は抵抗はせず、困惑した様子も見せず、ただ汐音の目を見つめていた。
「…思い出した、汐音ちゃん…髪切って眼鏡かけてたから、気づかなかったよ」
そう言えば汐音は、中三が終わるまでずっとロングヘアであった。高校デビューしようと言うことで、今までしたことのない髪型にしたのであった。
この半年、色々なことが変わった気がする。髪型や視力、制服、学校、友人…。だけど不思議に寂しくなかったのは、やはり鶴伎のことしか考えていなかったせいか。
「好きです、先輩。この半年、貴方を焦がれて焦がれてこの学園に来ました…。好きです、大好きです!」
「…汐音ちゃん、それは…」
「非常識でしょうか、一目惚れにも近い形で貴方を好きになり、貴方に会いたい一心で学園に入った。でも私は自分の気持ちに嘘を吐いた覚えはありません、好きなんです。貴方が好きなんです!」
鶴伎はよく分からないものを見るような目で、汐音を見つめた。汐音の心臓は大告白でばくんばくんと音を立てて、目は潤み頬は熱かった。きっと鶴伎の手を握っている自分の手は、びしょびしょに汗ばんでいる。
足が笑い、手も笑う。立っていられるのがやっとであった。
「何でそんなに…どうせ俺の、顔だろ…?」
「…確かに先輩の顔は綺麗です、でも私は先輩の全部が―」
生徒会室のたてつけの悪い扉が、唐突に開いた。何故か大事な時はいつも遮られてしまうなと、真っ赤な顔で扉を見つめた。
もうとっくのとうに活動が終えられていたと思って入ってきた斧原は、二人を見て至極気まずそうな表情を浮かべた。マジかよと呟かなくとも、その褐色の肌には確かにマジかよと書いてあった。
「ええっ、え、ええ~…お前ら…ええ~っ、ごめんスマン…特に藍沢」
「…そう思うなら…」
「お、おう!出てく出てく!!」
あんなに動揺した斧原を初めて見た鶴伎は、何とも興味深そうに斧原の出て行った扉を見つめていた。汐音の言葉の続きも気になったが、この光景を見て斧原がどう思ったのかが一番興味深かった。
汐音は雰囲気をぶち壊されて、静かに怒っていた。それと同時に悲しみも襲ってきたのだが。
痛い、痛い。先まで高鳴っていた心臓がとても痛い。汐音は涙を引っ込めるために、自身の手の甲に爪を立ててガリガリと引っ掻いた。
「……」
「汐音ちゃん、帰ろうか?送るよ」
「ちょっと待ってください…私ばっかり…酷いです。先輩の気持ちも教えて…ください」
そう言うといよいよ涙が出てきそうになって、汐音はぎゅっと目を瞑った。
この人は狡い。自分に言わせるだけ言わせておいて、満足したら解放するだなんて。本当に気紛れだ、この人は。
先ほどまで元彼女を振ってきた反動で最悪なまでに機嫌が悪かった癖に、余り見ることのできないレアな困惑した姿の斧原を見たからといって一気に機嫌が良くなった。
きっとこの人が女性であったなら、様々な男がこの人に翻弄されるのだろう。弄ぶだけ弄んで、飽きたら捨てる…まるで鼠で遊ぶ、猫の様だ。
そして自分が男だったなら、この人に玩具にされるのだろう。心臓を掴まれて絆されて、弄ばれて…遊ばれているということをズタボロになるまで気づけないのだ。そして気づいたとしても、好きだから遊ばれに行く。
何て馬鹿な人間だろう、汐音は。恋愛では押し続けることしか知らない、と言うよりは引くことが怖いのだ。
もし引いた時に、好きな人に見放されてしまったら…そう思うととても怖くなるのだ。好きな人から離れられてしまえば、汐音と言う人間は生きていけないのだから。
「…それはまた今度、お楽しみにとっておきなよ。…ね?」
悩ましげな表情で鶴伎の目に見つめられると、汐音は何も言えなくなってしまった。
涙が視界を塞ぎ、眼鏡のレンズに零れそうになる。染みがついたら厄介だと、汐音は眼鏡を外した。
「泣かないで、汐音ちゃん。別に君のことを嫌ったわけじゃないんだから」
本当にそうだ、何被害者みたいな顔をしているのだろう。早急に涙を拭き、眼鏡を掛けなおす。
「…はい」
「いいこだね」
にっこりと微笑む鶴伎の顔が、一瞬ではあるが汐音の痛んだ心臓を和らげた。
―
下りの電車に乗った時刻は午後7時であった。生徒会で遅くなったと、母に連絡しなければ怒られてしまう。だがこの状況でメールするのは、おそらく無理だろう。
何故なら今は電車の中…ただ単に電車の中ならまだよかったのだが、生憎満員電車の中なのである。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた車両は汗を掻きそうなほどに暑かった。そして人に酔いそうであった。
いや、それだけならまだまだいい。問題は汐音だ。このぎゅうぎゅうの電車の中、鶴伎と密着しない訳がない。
こういう時ばかりは胸が小さくてよかったと思った。この間生徒会で鶴伎を誘惑していた4年生の阿達ぐらいに胸が大きかったら、きっと今頃鶴伎の腹の辺りでつぶれていただろう。
考えただけで恐ろしかった。だがこれ以上密着すれば―
(あううっ…心臓よ静まれ、静まれぇぇっ。)
早鐘の様に脈打っているうるさいくらいの心臓の音が、鶴伎に聞こえてしまうだろう。
汐音の頭の中で聞こえてしまえばいいと言う汐音と、聞こえないで欲しいと言う汐音がいた。つまりどちらでも良くて、どちらでも悪い。
だが聞かれないに越したことはないので、相手の反応を伺うためにちらりと鶴伎の顔を見つめた。すると不運にも、目が合ってしまうのだった。
「!」
「ふっ…顔真っ赤。」
(せんぱい……!!)
その時、嬉しいような悔しいような愛しいようなぐちゃぐちゃになった激情が、汐音の胸から溢れ出た。
その激情に駆られ―汐音は思わず、鶴伎に抱き着いてしまうのだった。
せんぱい、あなたを わたしだけの もの に したい … 、