偏差値2...絶交
時は二時間目―国語の現代文の時間。汐音はここ最近何故か授業に集中できずにいた。
好きな科学の時も嫌いな体育の時間も、落差なくぼうっとし続けてしまう。あまり成績が良い方ではないので、このままではいけないということは十分に分かっているのだが、何故かぼうっとしてしまうのだ。
そして、今この時間も既にぼうっとしている。ノートや配られたプリントは皆、白紙である。答えを書き込む気にもなれず、このままでは中間の考査の点数がやばいことになってしまう。
特に3教科の中で、国語が二番目に苦手だというのに。
(…あ、外体育やってる)
窓の外を覗いてみると、5年生と思われる生徒が体育をしていた。この時間、体育は5年生なのか。汐音は何気なくそんなことを思った。
見たところ男子生徒はサッカー、女子生徒はハードル走をしているようだ。男子生徒は活気を溢れさせながら試合を楽しんでいるようだが、一方女子生徒たちは気だるげに授業を進めている。
大変そうだな、と思った。
(私だったら、練習時間ごまかしちゃうなぁ。練習しても同じだし。)
汐音の苦手教科の中で、一位がまさに体育であった。運動音痴なのもあるが、何よりドジで鈍臭い為に、何をしても必ず怪我をしてしまう。
痛いのは嫌だし、第一傷跡が残ってしまうので、怪我するなと思った授業は大抵サボりか見学だ。
(でも高校はそうは行かないんだよねぇ……ん?あれは―)
ふと、男子サッカーの中である人物を見つけた。少し長めの黒髪で、笑顔の素敵なあの人は…汐音の想い人、生徒会会長の長谷寺 鶴伎だ。
嗚呼、何て偶然!こんな時に長谷寺先輩に会えちゃうなんて…ああ、今日も素敵。
何てことを考えている間に、当てられた。
「藍沢さん、この答えは?」
「えっ!えー…っと…」
「…もう、ぼーっとしないでちゃんと授業聞かなきゃ駄目よ。欠席つけちゃいますよ。」
「はい…すみません。」
くすくす、くすくすと笑いが起こる。
ああこれだから普段目立たない奴はこういう時に無駄な恥を掻く。普段から笑いをとるギャグキャラならこういう時笑われてもそんなに恥ずかしくないのに。
…でも、先輩を見ていればそんな恥ずかしかった出来事も忘れられる。
(先輩…私は、貴方に会うためだけにこの学園に入学してきたの。先輩…ああ、せんぱい!好きよ、大好き。)
いつの間にか白紙だった国語のノートは“先輩”と言う文字に浸食されていき、段々黒く埋まっていくのだった。
果たしてこれは本当に国語のノートだったのだろうかと思わせるほど。
先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩長谷寺先輩先輩先輩長谷寺先輩先輩先輩先輩鶴伎先輩せんぱい先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩はせでら先輩先輩先輩先輩先輩せんぱい先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩つるぎ先輩先輩先輩先輩先輩長谷寺鶴伎先輩先輩先輩先輩先輩先輩長谷寺先輩先輩先輩先輩先輩長谷寺先輩大好きです。
彼女のこの異常なまでの狂愛心は、誰にも語られずそして自分自身気づけないという恐ろしいものである。
そして彼女の狂愛心を綴った国語であったはずのノートは終わりのチャイムと共に閉じられ、次の国語がある授業の時まで開かれなかったと言う…。
―
昼休み。
鶴伎は裏庭にあるベンチで弁当を広げ、親友の一之瀬 久遠と一緒に昼食をとっていた。
4月の初めと言えど教室の中は異様に暑いので、火照った体を冷やすために二人はよく外で食べているのだ。両者とも虫は苦手なので、暑い季節になってからは教室で食べたり食堂で食べたりするのだが。
何より、ここは人通りが少ない。人ごみが苦手な鶴伎達にとって、それが一番の良い点である。
まぁ毎朝の通学ラッシュで人ごみに慣れていると言えばそうなのだが。
「なー鶴ー、今回の彼女はどうなのよ?上手く行ってんの?」
「え…ああ、うん。いつも通りだけど」
「いつも通りって!お前また別れんのかよ~どんだけ理想高ぇんだよ~。今回の彼女結構かわいかったじゃん!」
「そうだね、まぁ体はいいんじゃない?」
天上を見上げ、鶴伎はため息を吐いた。そろそろ今の彼女とも潮時かな、と。
大体保って一か月だが、最短は三日。決まって向こうから告白してきて、大抵自分が「何か違う」と向こうを振る。
振る方も気が楽ではない、どういって振ろうか、どうやって振ろうか等々いろいろ考えなくてはならないのだから。それに、後味も悪い。泣くわ怒るわ…女の子っていうのは可愛い存在ではあるけれど、とても怖い存在だと身を以て知った。
中等部時代に付き合って振った女の子はどうやら振り方が悪かったらしく、何があったのかストーカーと化してしまった。振ったその次の日、ポストの前に誰かいたなと思いきや実は先日振ったその子で、ポストには何十枚と言う手紙が寄越されていた。
中身は殴り書きの様な文章もあれば虫がたっぷり詰め込まれた封筒もあって…今はもう思い出したくもない。
「今回の子…陽子ちゃんか。振り方間違えたらヤバいことになりそう。」
「え、ナニソレ意味深。」
「いや、経験上…ね。」
「え、何ソレも意味深。つーか振り方とか考えてんじゃねーよバカヅル!非リア充への宛てつけだろ!」
久遠は拗ねたように唇を尖らせ、わざとらしくぶーと豚の鳴き声のような声を上げた。オレなんて人生で2度しか彼女作ったことないんだぜーとブツブツ愚痴を言いながら。
鶴伎はそれを無視して白米を口へ運んだ。白米を見ながら、ある女の子のことを考えながら。
先日の生徒会委員活動日に、入会してくれた銀髪の女の子…自己紹介の時、自分のことを好きだと言ってくれた女の子だ。あの様な場で言った「好き」なんて、(斧原の様に)冗談として受け取ることもできたのだが、ただひたすらに真っ直ぐな瞳であったから。
彼女の眼鏡のレンズの向こう側にある赤茶色の瞳が、とても真っ直ぐに「好き」と言っていたから、信じざるを得なかった。
「久遠。」
「なんだよぅ。」
唇を尖らせたままの久遠を見て、鶴伎はふっと笑った。
「…お前は、姿かたちまで本当お前らしいよな。」
「は?どういうことだよ?」
鶴伎は敢えて答えは言わなかった。久遠の如何にも明るくてクラスのムードメーカーですと言ったような容姿を見て、またふっと笑う。
この短く切られた金髪も、頼りがいのあるスポーツマンな体つきも、人を元気にさせるしゃべり方も、全てを羨ましいと感じたことがある。嗚呼、自分もこんな風になりたい、と。
こんな風に生まれていたら、自分はこんなにも我儘にはならなかったろうとも思う。
顔だけでも自分を好きでいてくれるなら、それでいいじゃないか。そう自分に言い聞かせても、どんどん自分自身の顔が嫌いになっていく。
顔相応の態度を取るのに、疲れてしまうのだ。
「俺、今日別れてくるから。あの子が気に入ったんなら、アタックすれば。」
だから俺は、顔だけじゃなくて“俺”を好きになってくれる人を探している。
「…お前ってさ、ホント鬼畜だよなぁ…血も涙もないってかんじ。」
「そうかな、優しくしてきたつもりでは居るけど…あ、あと五分でもう始業の鐘が鳴るよ。早く行こ」
鶴伎は早急に弁当をしまい、教室へと急いだ。
――俺は確かに血も涙もない人間かもしれない。別れた後は他人行儀だし、名前さえ呼ばないこともある。
でも逆に言えば、久遠の様な血と涙と優しさの塊の様な人間は、逆に女の子を傷つけるかもしれない。別れた後も優しくして、期待されて、そして傷つける。俺が女の子だったら、絶対に久遠みたいなやつとは付き合いたくないと思う。
まぁ感性は人それぞれだけれど…ね。
―
放課後、時刻は3時59分。鶴伎は元彼女だった花田陽子と言う女生徒を連れて裏庭へと足を運んだ。
陽子はこれから何を言われるのか悟ったように何も言わず、ただ泣きじゃくっていた。鶴伎は陽子をベンチへ座らせると、ハンカチを差し出した。
陽子は泣きながらそのハンカチを受け取ると、嗚咽混じりに悟った事を口にした。
「あたしと…っ別れる気、なんでしょ」
「うん、ごめんね」
「っ―謝らないでよぉ、あたしが惨めになる!」
艶のあるさらさらだった黒髪を、今は涙でぐしゃぐしゃにして鶴伎を見た。鶴伎は眉を下げて、申し訳ないと言った顔で陽子を見る。
鶴伎の顔が綺麗であるように見えれば見えるほど、別れるのが惜しかった。それに付き合ってる最中の鶴伎はとても優しくて王子様の様だったし、抱くときは少し乱暴だったけれど、それでも気持ちが良かった。
この綺麗な学園の王子様を自分のものにしたと言う事実だけで、自分に自信が持てた。
噂には聞いていたけれど、彼が持ち出す別れ話って、こんなに唐突なの!?
「やだぁっ…別れたくないよぉ…!」
「君が別れたくないと思っていても、俺はもうこのまま付き合い続けることはできないと思ってる」
「何で…あんなに優しかったじゃない!好きだって…言ってくれたじゃないのよぉっ…!」
「ねぇ、花田さん。君は一体俺の何処に惚れたの?…俺の、顔だよね?
この俺の顔をものにしたつもりになって、一体何人に自慢したの?…君は俺を好きなんじゃなくて…俺の容姿が好みなだけなんだよ…」
怒っているのか、いつもと様子の違う鶴伎が恐ろしく怖かった。声音は低く、早口で、目つきがとてつもなく冷たい。
怒っているの?それとも…いつもは優しさを演じていただけ…?段々鶴伎のことが分からなくなってきて、今までの鶴伎が嘘の様で、陽子は果てしない恐怖を覚えた。
彼の本性は、これなのだ。
だが、陽子は自分が間違っていたのかもしれない、と思った。美しい顔の彼氏が居るという肩書が欲しくて、彼を欲していただけなのだと。
全ては己の邪欲の為に彼を利用していただけなのだ、と。
「…ごめんなさい、別れ、ましょ…。」
この日で陽子と鶴伎の関係は、ばっさりと断たれた。
―
生徒会室では、生徒会長がまだ来ないために皆やることがなく、とりあえず机の上で突っ伏しながらレジュメ作りをしていた。
生徒会長に頼りっきりな居る意味のない顧問斧原は、教卓に足を引っ掛けて行儀の悪い座り方をしながら自宅から持ってきた漫画本を読み漁っていた。やることのない4年生も同様だ。
だがそこには大人コミックスしかなく、葩のご所望の少女漫画は何一つなかった。ごつい親仁しか出てこない漫画や、劇画調の漫画しかなく、暇で潰れそうになっている。
「もおお~~何??まーじゃんとかヤクザとか闇金とか!そーゆーの葩興味ない~~!!あと絵可愛くな~い!」
「うるせえ!少女漫画みてぇなグロテスクな絵柄より100倍はましだろうがよ!」
「ちょっと、グロテスクって何ですかぁ!?少女漫画を馬鹿にしないでください、このキモチワルイ絵のほうがグロテスクですぅ~!」
隣でぎゃあぎゃあ喚いている葩と斧原を尻目に、南は勉強を、汐音は小説を読んでいた。
正直汐音もああいった絵は得意ではなく、見ていると段々頭が痛くなってくるので遠慮したのだ。小説を読むのも正直言って苦手なのだが…。
大体、眼鏡になってから小説が更に読みづらくなった。中三で勉強しすぎて、一気に視力を落としたのだ。お蔭で不便で敵わない。
「それにしても…暇だなぁ」
眼鏡を外し、眉間を揉み解しながら辺りを見渡した。嗚呼、本当に視力が急激に落ちたのだな、と感じる。
そこに何かがあるとまでは分かるのだが、細かな形までは分からない。辛うじてこの人は誰か分かる感じだ。夜景が綺麗に映ると誰かが言っていたけれど、本当にそうだった。
目が悪くなってから裸眼で夜景を見たときは、綺麗すぎて笑った。
「…長谷寺先輩、何処いったんですかね?」
「ぁあ?あいつのことだから、こんな日にゃあ彼女振りに行ってんだろ…あ、すまん藍沢、気ィ落とすなって。な!」
「気は落としてないですけど」
裸眼だと斧原がこっちを向いて喋っているのか、それとも漫画を読みながら喋っているのかいまいち分からない。まぁ斧原のことだから、漫画本を読みながらなのだろうが。
そうか、今日彼女と別れるのか。彼女にどうしようもなくチリチリと焼け付く嫉妬を感じたことはあるけれど、何故かそんなには感じなかった。
鶴伎の“彼女”の言い方が軽かったせいだろうか、どちらにせよ、理由は自分でもよく分からない。
すると、生徒会室のたてつけの悪い引き戸が開いて、人が入ってきた。
汐音は急いで眼鏡を手に取ると、かけずにレンズを覗く感じでその人を見た。そして黒い瞳が目いっぱい開き、相手に抱き着きそうな衝動に駆られたが、何とか自分を留めた。
「おはようございます」
「おはようございます!」
「おっはよ~ございまぁ~っす!」
「はよーざいまーす」
『はよー』
一番に挨拶をしたのは汐音であった。眼鏡を掛けていないのでいまいち汐音とは分かり辛かったが、やはり汐音である。
汐音はきらきらした瞳で鶴伎を見つめている様子は、裸眼の癖に鶴伎の姿だけは見えている様であった。
「おはよう、汐音ちゃん。今日も元気だね」
(………!?いmsなんt…!!?)
今、確かに「汐音ちゃん」と呼んだか、汐音のことを。聞き間違いではあるまい、汐音は、耳だけはやけに良いのだから。
だが、今本当に「汐音ちゃん」と呼んだのだろうか。
「おいおい…新入会員減らすんじゃねえぞ?」
「何のことです、斧原先生。それよりも生徒会室でだらけるなら出て行っていただきたいのですが。」
鶴伎が苛立っていることは、生徒会室に居る大半の生徒が分かった。大抵、女生徒を振ってきた後はいつもこうだ。
うちの生徒会長は出来る奴だけど、気紛れだから怖いんだよな…と、その大半の生徒が胸の内で思った。
そして更に斧原も腹を立てて帰ってしまうので、大抵そういう日の生徒会はグダグダで終わってしまう。生徒会委員の内ではこういった日を「困った活動日」と呼んでいるらしい。
因みにその日は遅くて一か月置きにやってくるらしい。
「へいへい、わーったよ。出てきゃいいんだろ、出てきゃ?」
「あ、オノ原先生!漫画忘れてるー!置いてっても誰も読みませんよぉ?」
「お前らが帰った後に取りに来る。そんじゃあなぁ、しろいしー」
「むっ!白石ちゃんはしろいしじゃないぞ!先生のバカ!!」
完璧に空気の読めない人種の葩がこの重たい空気を壊してゆく。ある意味、この生徒会には必要な人種かもしれないと斧原や会員たちは思った。
思わず笑みの零れる葩の行動は、見ていて滑稽だった。皆が笑みをこぼすと、葩も笑顔になる。
(ああ、いい子だなぁ…白石さん)
自然と、汐音も笑顔になっていることに気が付いた。汐音は改めて、葩のことを凄いと感じた。第一印象とはかけ離れたものを、葩は持っていた。
「さて、遅れてすみませんでした。遅れた分を取り返すために、早急に今日やることを説明します。
まずは新入生呼び込みのチラシ配りの抑制の呼びかけのプリント作り。これはごみが増えますし、この間美化委員から悲鳴が聞こえてきました。更に――」
“生徒会長”をしている鶴伎はとてもかっこよくて、「格好良い」の一言では表せないほど格好良かった。
うっとりと鶴伎の話を聞いている内にいつの間にかペンを持ってプリント用の絵を描いていたし、いつの間にか活動時間が終わっていて、皆各々帰ってしまっていた。
残るは汐音と、鶴伎のみ…二人きりである。
「汐音ちゃん。」
「はい…っ」
やはりあの呼び方は、聞き間違いではなかったのだ。名前を呼ばれてドキッとするも、そんなことを考えていた。
「今日、二時間目こっち見てたでしょ?」
「えっ…!」
また心臓がドキッと音を立て、同時に心臓の奥がひやりと冷えた。
見ていたのが気づかれていたなんて、信じられない。一度も目は合わなかったのに。それに、先輩目良すぎ。等様々な思念が汐音の脳裏をよぎった。
だが否定できない事なので、汐音はまっすぐ鶴伎の目を見つめた。鶴伎は柔らかい笑みを湛えていた。
「そんなに俺のこと、好きなの?」
「何度も言いますが、好きですよ、」
「ふぅん…俺と汐音ちゃん、どっかで会ったっけ?」
初めて会った文化祭の、あの日を思い出す。
「会いましたよ、あの日―先輩は私を助けてくださいました。」
半年前の学園祭の記憶が、鮮明に蘇ってくる――。