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偏差値22...誤り

 運動部の朝は早い。特に久遠の所属するサッカー部は、どの部活よりも早く朝練を始めることで有名だ。毎日が4時起きな事は、所属し始めた当時は苦痛でしかなかったが、二年目を迎えたことでそれは習慣化し、特に苦痛には感じなくなった。

 早起きの苦痛よりボールと触れ合える時間を長く確保できるのと、ラッシュ前の電車に乗れるという美点により、朝練も悪くないと考えるようになったのである。

 ただサッカー部の難儀な所は、顧問が陰険で口うるさい所であった。それは自分が考えるよりも前に先輩たちが口を揃えて陰で言っていたことだ。

 しかしそんな面倒なことも、色々な嫌な出来事も、ボールを触っていれば忘れられる。どうして返事が来ないのだろうとか、昨日の一件で汐音と他人同士になってしまうだろうかとか。

 そして忘れてはいけないことを、久遠は先日の件で危うくすっぽり抜けてしまう所であった。来週は仁凛高校との試合があるため、余計な事を考えている暇はないのである。


「一之瀬!お前には期待している寧ろ、お前にしか期待しておらん!!体調を崩したりするなよ、一之瀬、聞いてるか!」


 顧問の山崎は久遠に向けて何か叫んでいたが、考え事に夢中であった久遠の耳にはその耳に痛い声も届いていなかった。山崎は自分が無視されていると勘違いし、久遠に歩み寄って「人の話を聞け一之瀬!」と怒声を上げた。久遠は驚いて足を外し、顧問の額へボールをぶつけてしまった。

 久遠は冷や汗垂らして心臓をバクバク言わせ、周りの者はわははと顧問を馬鹿にして笑った。もちろん、その後小一時間顧問の“ネチネチ説教”が続いたのは、言うまでもない。



 昨日帰ってすぐにベッドへ倒れ込み、そのまま夢の世界へいざなわれてしまっていた汐音は、朝6時に漸く目を覚ました。昨日無意識に取って適当な場所に置いた眼鏡を手探りし、枕の横から取り出すと、そのまま装着して起床する。

 パチンという音と共に携帯を開いて時刻を確認し、6時か…なんて思いながらぼうっと画面を見つめていると、メッセージが届いていることに気が付いた。

 急いで決定ボタンを押して確認するとそれは鶴伎からで、「昨日、久遠と何かあった?」という簡潔な文章であった。汐音はその時一拍遅れて肝を冷やした。


(久遠先輩と何…え、どうして長谷寺先輩がそのことを!?あ、でもあれは先輩に悪意があったわけじゃないし…ううんどうしようなんて返そう)


 汐音は一頻り悩んだ後、やはり久遠には悪気があったわけではないし良心からの厚意だと思ったので、「特に何も。どうしてですか?」とだけ返した。その返事は1分と経たず返ってきて、汐音は何だか悪いことをしている気分に陥った。

 そのメッセージを開くと「久遠がメール誤送信してきたんだよね。」とあり、汐音はきょとんとしたのち、そういうことってあるんだ…と脱力感をおぼえた。

 ベッドから降り、風呂場へ向かいながら返事の内容を考える。―昨日無理して動かしたため、膝の傷がズキズキと痛む―どんなメールですかと聞くのが妥当かもしれないが、直球に訊ねるのは少し気が引けた。

 悩みに悩んで、結局「久遠先輩には報告したんですか?」という当たり障りのない文章しか考え付かなかったので、それを送信した。風呂場に着いたので一旦携帯を閉じ、浴室へと入った。

 酷使した右ひざの血の滲んでいる渇いたガーゼをはがし、シャワーを出した。その間に携帯のバイブ音が鳴ったため、早急に洗って出ようとシャワーの湯で頭を流す。飛び散った雫が膝やほかの擦り傷に沁みたが、今はそれに気を取られている場合ではない。


 汐音が風呂から出た時、時刻は6時20分だった。我ながら早く風呂を済ますことができ、汐音は満足気に浴室から出た。そのあと母を呼んで傷の消毒や絆創膏の貼りかえやドライヤー等に時間を割かれ、ご飯を食べられたのは7時前であった。

 汐音がいちごジャムパンを口いっぱいに頬張っていると、穂香が階段を降りて「おはよう」と言った。汐音の母もそれに「おはよう」と返し、汐音も同様に朝の挨拶をした。


「しーちゃん昨日夜遊びしたってほんと?」

「夜遊びってーか、電車ン中で倒れたんだってさ。一之瀬さんって人にかくまわれてたみたいよ」

「えっそれって寝てなくて大丈夫なの!?なんか妙に傷だらけだし…」

「大ジョブだよ。多分。これはね、競技中にちょっと転んじゃって」


 その時携帯がちかちかと光っているのに気が付いた。そう言えば先ほどバイブが鳴っていたのであった…と汐音は携帯を開いて、メッセージを確認した。


「一応誤送信してるってことだけは今送っといたけど…あいつ朝練あるから気づくの昼ごろかも。」

(そっか、久遠先輩ってサッカー部だもんね。てことは、試合とかするのかな、ルールわかんないけど)


 汐音は最後の一欠けを口に放り込んで、母に行儀が悪いと怒られながら「サッカー部ってやっぱり、試合とかあるんですか?」と送った。そのあと、暫くバイブ音が鳴らなくて、汐音は心なしか心配になった。

 返事を返すのが遅かっただろうかとか、話の転換に違和感を感じさせただろうかとか。今悩んでも仕方のない事ばかり。

 それにうんうん唸る汐音を見て、穂香は「青春してるね~」と嬉しそうににこにこしながら、汐音に言った。汐音は自分の顔が赤くなるのを感じつつ、首を横に振って否定した。


「先輩が何を考えてるのか、最近皆目見当もつかなくて…」

「先輩って、イチノセさん?」

「違うよ!長谷寺先輩。すっごくかっこよくて、ちょっと意地悪で…だけどとっても優しい人」


 今日は日曜日だ。そして明日は、体育祭の振り替え休日で休みなのだ。ああ、早く鶴伎に会いたい。体育祭の後も、一緒に帰りたかったのだが生憎の精神的体調不良だったため、おぶられて以来あっていないのだ。

 休日は休めていいが、鶴伎と会えないのは苦しい。この膝の痛みよりも、ずっと激しく心が苦しめられる。


「嫉妬しちゃうなぁ~。しーちゃんが男の人に夢中になるなんて、珍しいんだもの」

「私だって、穂姉がお兄ちゃん連れて来たとき、嫉妬したよ!」

「あらま、可愛いこという姪だこと!」


 穂香は土曜日だが授業があるので、朝ごはんを食べ終えるとすぐに家を出て行ってしまった。汐音はまた少しだけ寂しくなって、ご馳走様と言って自分の部屋に戻った。

 あれだけ寝たのにまだ寝たりないのか、汐音はベッドへ寝転ぶと瞼が重くなってきた。7月の初めには定期考査があるため、勉強しなくてはいけないのだが、なんだか気が進まない。それに、やったところで理解できない。

 何となく暇を持て余して、汐音は葩へのメッセージを開いた。葩は体育祭で女子騎馬を選択していて、あの時何人もの騎手を打ち負かしていた。その時の葩の笑顔と言ったら、誰もがつられてしまいそうな素敵な笑顔であった。汐音自身、語彙力がなくて表現しきれないのだが。


「葩ちゃん体育祭お疲れさま!女子騎馬かっこよかったよ!」


 一方まだ夢の世界で遊んでいる葩は、汐音からのメッセージに気付くはずもなく、今から3時間ほど後に目をさまし、更に1時間経ってからメッセージに気付くのであった。



 鶴伎はサッカー部の練習場に足を運び、その練習風景を見ていた。久遠は相変わらずボールの扱いが上手くて、中々敵チームにボールを渡さないし、味方へのパスも完璧であった。

 サッカーにそれほど興味ない鶴伎だが、今日は久遠に対して一件があったため木陰のベンチで練習試合を見物しているのだ。

 先ほど試合が始まる前に「昼ごろには終わる」と言っていたので、茶でも飲みつつ端末をいじっていればあっという間に過ぎ去るだろう。

 それにしても汐音に謝罪メールを送ろうとして何故自分に誤送信するのだ。意味が分からないし、久遠の間抜けさに溜め息しか出てこない。


(でも、大方想像はできるけどね)


 大体告白じみた何かをして汐音から拒絶され、仲を取り持とうとしてあの謝罪メールだ。しかし汐音の反応からすると、どうやら告白はしていないらしかった。

 汐音の返事の遅さから考えて、“何もなかった”訳ではないことは一目瞭然だが。…しかしどうして、ほっとけばいいものを自分はこんな風に気にかけて、興味もないサッカーの観戦までしているのだろう。

 汐音から返事が来た。「サッカー部って試合はあるんですか?」という、至極当然のことを…いや、汐音の運動能力の低さから考えて、運動部への興味は皆無だ。知らなくても仕方のないことかもしれない。

 第一試合終了のブザーが鳴る。サッカー部マネージャーの女子からタオルをもらい、汗を拭いながら久遠がこちらへ息を切らしてやってきた。

 鶴伎はあらかじめ買っておいたスポーツドリンクを久遠に手渡し、「お疲れ」と言った。久遠はにかっと軽快な笑みを見せて鶴伎の隣に座った。


「あーつっかれた!でも汗かくのってやっぱ気持ちいいな!」

「まあね。…昨日汐音ちゃんと何があったの?」

「おま、そのタイミングで聞くのかよ…。確かに誤送信して申し訳ねえけど、お前に話すような内容じゃねえ!」

「ふーん…ま、いいんだけどさ。汐音ちゃんも何もないって言ってるし」


 鶴伎のその言葉を聞いた途端、久遠は一瞬目を丸くした後項垂れ、頭からキノコが生えそうなじめじめオーラを発した。


「……んんん~~…ならいいのかなぁ…大丈夫かな…汐音ちゃん…でも昨日泣いてたんだよなあ…」

「…女の子泣かすなんてサイテー」

「お前に言われたかねえよ!…昨日の、汐音ちゃん…どうしても、なんていうか、ほっとけなくて…」

「だからサイテーって、言ったんだよ。…そんで?どうしたの」

「…抱きしめた。そしたら、泣かしちゃった」


 久遠はスポーツドリンクを仰ぎ、額をタオルで拭い大きくため息を吐いた。鶴伎も同様、自然とため息が出て、呆れたように鼻でせせら笑った。

 久遠はむっとして「何だよ」と鶴伎を睨みつけたが、鶴伎は咳払いをして「いやなんでも」と返した。汐音に見込みがないことなんてよく分かるはずなのに…久遠もどうしてそう愚かになれるのだろう。


「可哀そうにねえ、善意でやった事なのに」

「…ゼッテー馬鹿にしてんだろ、お前」

「でも解ってたろ、今抱きしめても汐音ちゃんは絶対拒絶するって。汐音ちゃんはそういう子だよ…久遠。頑張って心丸ごと自分の方に傾けなきゃお前はまた汐音ちゃんを泣かせることになる」


 ふつふつと理解しがたい怒りが、久遠の内で煮えたぎる。鶴伎は余裕の表情でそう言うけれど、絶対にそうならないことを解っているからわざわざ自分に忠告紛いなことをしてくるのだ。

 第二試合開始5分前の笛が鳴る。久遠は立ち上がって鶴伎の厭な笑みを睨んだ。…だからといって、お前は彼女に愛を返す気などないのだろう。


「お前は全く誠実じゃないのに、あんな誠実で可愛い女の子を弄ぶ卑劣な男だ」

「…なら、久遠は誠実で気が利くけど、相手の気持ちを汲み過ぎて自分が惑わされる可哀そうな男だね」

「…汐音ちゃんに気がないなら、期待させるのはやめろよ。不愉快だ」

「………」


 開始3分前、久遠は足早に去って行った。鶴伎は端末を取り出して汐音への返信に「試合あるよ。来週仁凛高校との試合があるけど、行く?」と送った。

 自分が不誠実であることも卑劣であることも弁えているつもりではある。そして、汐音に気があるのかと問われれば、否定してやるつもりでもあった。

 しかしどうしてか声が詰まり、そしてどうこたえるつもりだったか忘れ…いや、言葉が絡まって答えを出しそびれたのだ。


 汐音ちゃんに気がないなら、期待させるのはやめろよ。


 その意見は正しい。自分は汐音に気がないのだからあっさりと振って、汐音に期待を持たせることも実験もやめてしまえばいい。

 しかし汐音の顔を思い出すたびにその言葉は黒く細い糸となって絡まり、その一案は消えてなくなってしまう。汐音は誠実で時にその誠実さと愚直さが仇となるも、自分にひたむきな愛情を向けてくる、可愛い女の子だ。

 汐音との約束も汐音と交わした言葉も汐音が自分に見せた表情も全て思い出そうと思えばすぐに思い出すことができる。それを思い出すたび、軋むような鈍い痛みと熱に胸を支配される。それは今まで覚えたことのない感覚で、その慣れなさがとても不快だ。


「期待させるのをやめる」


 鶴伎は言葉に出してみた。


「汐音ちゃんのこと、好きになれる気が、全くしない…だからもう諦めて」


 ―自分でも驚くほど棒読みだ―呆れたその時、汐音の絶望とも悲哀ともとれるかなしい顔が頭に浮かんだ。ああ、まただ…鶴伎は不快な痛みに表情を歪ませた。

 麗雅を抱いた時にも覚えた感覚。心臓に針を刺されたような痛みと、喉奥が冷えてひりつく感覚。この感覚がこの上なく不快だ。


(そう、だよ…だから、俺は汐音ちゃんを振らない。振れないんだ 実験が終わるまで)


 端末のバイブレーションが鳴った。


『来週ですね、空いてます!是非、連れて行ってください!』


(どうしてこの子は…俺なんかを好きになっちゃったんだろう)


 まだ余韻の残る胸の痛みに舌打ちし、端末の電源を落とした。今日一日はどんな女とも顔を合わせたくない、そんな気分だった。

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