偏差値21...横領
汐音が手放した意識をようやく取り戻すと、自分がいたのは見慣れぬ部屋であった。知らないにおい、知らない天井、知らないベッド。
寒かった心はつかの間の無を味わったことで感覚が麻痺していた。自分は電車に乗って、それで家に帰ろうとしていたはずなのに、ここは何処なのだろう。
カチャリと、ドアの開く音が聞こえた。汐音は見慣れぬドアの方を見遣り、その隙間から自分を見ている者を見つめ返した。
そこには女の子らしき、中学生らしき子が立っていた。髪は短く、肌は小麦色だ。見覚えのある顔立ちで、ぐっと口を固く閉ざしている。
「あの…」
「兄ちゃん、ご飯作ってる」
「あんちゃん…?」
女の子はぐっと頷いた。その子には兄がいるらしい。自分に警戒しているらしく、中々室内に入ろうとしない。
「一ノ瀬久遠。エット、飛香のお兄ちゃん。」
「…久遠先輩!?」
汐音はようやく我に返って、寝かされていたベッドから飛び降りた。ぎこちなく敬語を使う久遠の妹らしい一ノ瀬飛香は、汐音がベッドから飛び降りると驚いてドアを閉めた。
なんで自分は久遠の家にいるのだろう。そして、今は何時なんだろう。汐音はその二つを交互に考え、そしてどちらにも頭を抱えた。お母さんに怒られるのではないか、と。
「あ、あ、兄ちゃん!シオンさん起きたよ!」
階段の下へ降りていった飛香の声が響いて聞こえる。その母の声か、大人の女性の声と聞き慣れた久遠の声が聞こえてきた。汐音はゆっくりと階段を下りて、そっと顔を覗かせた。
久遠は汐音の顔を見るとほっと息を吐いて頬を緩ませ、「おはよ!」と人懐っこい笑みを浮かべた。その母らしき若い女の人も微笑んで「初めまして」と汐音に挨拶をした。
「は、はじめまして。藍沢汐音です」
「ふふ、久遠の母です。この子は久遠の妹の飛香…息子がいつもお世話になってます」
「いえっ、お世話になってるのは私の方で…あの、私、どうしてここに?」
「汐音ちゃん、電車ん中で気ぃ失って倒れたんだよ。覚えてない?」
驚きの事実に汐音は目を丸くし、久遠に覚えていないと頷いた。それにしても、入学してから半年も経っていないというのに電車の中で色んなことが起きた。
いい加減電車恐怖心になりそうな勢いである。葩にでもお願いして、朝共に登校してもらおうか。彼女なら喜んで承諾してくれるはずだ。
「…そっか。顔が真っ白で汗だくだったから、死んじゃうかと思ったけど…ただの貧血だったみたいだね。よかった!」
「貧血…そうだ、私、少し体調崩してて。それで」
「あんま無理すんなよ?汐音ちゃん、体力ないんだからさ」
自分の体力がないことが久遠に筒抜けで、汐音は顔が火照るのを感じ、誰にも見られぬ様頬を押えた。そして感覚が戻ってきた頃、膝がズキンと痛み、胸も同様に針が刺されたようになった。
どうやら今日は一喜一憂の日らしい。ああ、先輩に会いたい。鶴伎先輩に会いたい。
「あのさ、勝手にで悪いんだけど汐音ちゃんの携帯、鳴ってたから出ちゃった。」
「えっ?」
「や、お母さんからだったから安心してよ!心配してたから、事情説明しといたよ」
久遠は何も無いようにそう言ったが、何やら母は誤解を受けてそうだ、帰ったら彼氏かと聞かれるかもしれない。なんと弁解すれば分かってもらえるだろうか。
ビーフシチューのいい香りがキッチンを包み、汐音の腹の虫が鳴いた。久遠と久遠の母はそれをクスクスと笑い、「よかったら食べてって」と母も人懐こい笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
汐音は、また頬を火照らせながら頷いた。既に温まった手のひらを返し、冷たい甲を冷やすのに使った。
久遠の妹の飛香は、どうやら中等部の学生らしい。来年は繰り上がりせず、公立の高校に入学するのだそうだ。
3年か…と汐音はため息をついて、自分の体調不良の原因とも言えるその人を思い浮かべた。思い出せば思い出すほど腹の立つそれがまさか久遠の妹と同い年だなんて思いも寄らない。
久遠は時折表情を曇らせる汐音を心配そうに見ながらも、ビーフシチューを3杯お代わりした。飛香も同様に、2杯半お代わりをしていた。似たもの兄妹だと、汐音は微笑ましくなった。
「お父さんはお仕事で忙しくて月に何回かしか帰って来れないのよね…せっかく来てくれたのにごめんね汐音ちゃん。」
「い、いえ!初対面なのにこんなご馳走になっちゃって、すみません。とっても美味しいです」
「それね、久遠も手伝ってくれたのよ。愛情たっぷり!」
「待って待って母さん。汐音ちゃんは恋人じゃないから!」
「そーだよ、兄ちゃんはカノジョいないもん」
一ノ瀬家は優しくてあったかくて、素敵な空間だと思った。久遠には好きな人がいると聞いた。その人と両想いになって、この優しい空間で共に時代を過ごせたなら、幸せなことこの上ないだろう。
(そうなれたらいいね、先輩…)
しばらく談笑を楽しんで、時計が8時半を回ると、汐音は漸く帰る準備を始めた。久遠の母―一ノ瀬百合子は久遠に見送りを言いつけると、二人は玄関から外に出て並んで歩いた。
久遠は少し照れながら、汐音はひたすらペコペコしながら外の空気に触れる。そしてゆっくり歩き出すと、久遠から話題を振った。
「腕貸そっか?」
「えっ?」
「足辛いかなって。なんならおんぶもするけど」
「や、大丈夫です。それにこれ以上お世話になったら申し訳ないですし…」
やはり遠慮する汐音へもどかしそうに、小さくため息をつく久遠。遠慮なんてしなくていいのに、気を使われるのは苦手なのに。
そう言っても汐音はおんぶさせてくれないだろう。尤も、連れ帰るときにはおんぶせざるを得なかったのだが。
久遠は汐音を受け止めた時のことを思い返し、切なげに眉を垂らした。汐音は閉会式が終わってから、明らかに何か事があったのだ。閉会式の前と後では一目瞭然の差があったし、今に泣きそうな顔をしていた。
自分は役員の仕事があったため声をかけられずにいたのだが、まさか、自分よりも随分前に学校を出た汐音が自分のいる電車に乗り合わせるなんて。
それも、顔面蒼白に、今にも死にそうな表情で、ハンカチで涙をぬぐいながら。
しかしそれを聞いてもその事柄を解決できるか、自分には自信がない。久遠は己の無念さを呪った。
「あのさ、汐音ちゃん」
久遠が足を止める。汐音は止まれずに一歩踏み出してから、久遠の方に向き直って静止した。
「汐音ちゃんはもっと、オレを頼っていいんだからね。オレさ、汐音ちゃんのこと…好き、だし…だから、中途半端に遠慮しないで欲しいって言うか…うん、遠慮すんな!」
顔がどんどん熱くなって行ってるのが自分でもわかる。耳がジンジンとしびれて、汗が滲み出てきそうだ。こんな時に「好き」と言ってもこの鈍感な女の子には伝わらないことなんて、よくわかっているのに。
汐音はきょとんと赤面した久遠を見つめていたが、やがてふにゃりと表情を緩ませ、今にも泣きそうな顔で「ありがとうございます」と礼を言った。久遠はまた顔が赤くなるのを感じた。
今ここで抱きしめるのは反則だろうか。今ここで告白するのは反則だろうか。鶴伎の見ていない所で、この儚げな愛しい人を包み込むのは。
「先輩がそういう事言うから、何でも愚痴っちゃいそうになりますよ。あは。でも、本当に大丈夫なんです。」
「うっそだ!今に泣きそうなくせにィ」
「……内緒!」
溢れそうになった涙をこらえ、汐音はまた前へ一歩踏み出した。今この優しい人に愚痴るのは、卑怯者のすることだと思ったから。
どんなに麗雅がひどいことを言ってきたからといって、これは自分の問題なのだ。久遠を巻き込んではいけないし、それに、鶴伎にもいうまいと決めたのだから、久遠には尚更いうわけにはいかない。
汐音が久遠の5歩先を行き、まだ静止している久遠の方へ向き直ろうとターンステップを踏んだ。ちょっと足がもつれかけたが、自分にしては上出来かもしれない。
そう思っていた刹那、汐音は温もりと安心する香りに包まれ、時が止まった様に硬直した。
沈黙が暗い路地を占める。汐音は自分の置かれている状況を上手く呑みこむことができなかった。
「……」
「……」
「く…せん、ぱ…?」
久遠は返事をしなかった。自分の心臓の音に掻き消されて、汐音の声が聞こえていなかったのだ。つい衝動的に抱きしめてしまった。
ああどうしよう、嫌われてしまったら、気まずい関係になってしまったら。そんな事案は避けたいが、だけどどうしても、この腕が汐音を離さないのだ。
一方抱きしめられている汐音の脳裏には走馬灯の如く鶴伎の顔が浮かんだ。鶴伎以外の男性、必要あらば女性にも、この体は許してはいけない。許してはいけないのだ。本能が叫ぶ。そいつは愛する人ではない!
どんっと久遠の体を自らから突き離す。突き離された体が汐音から離れる。
―ああ、悲しい顔をさせてしまった
「ごめんなさ、先輩、あの…抱きしめられるのは、慣れてなく、って…」
「…っそ、そうだよね!ごめん!あはは、こうしたら…心を許して泣いてくれるかなって思って…だから、そんなやましい気持ちは…!…うん、ごめんね汐音ちゃん…泣かせる気はなかったんだ」
「び、びっくりしただけです…あの、もう見送りはいいですから。ありがとう、ご馳走様でした…さよなら」
汐音は驚きと悲しみと裏切りでぐちゃぐちゃになった感情を目から溢れさせ、小走りで駅へ行った。駅までの道のりは家を出る時に聞いていたので(それでも案内なしに着いたのは奇跡だが)迷わず着くことができた。
久遠は自分に恋愛感情を抱いているわけではないと、そう思っていた。実際今日も「好きな人がいる」と言っていたし、それが自分だとは聞いていない。それとも、先ほどのは妹を慰めるようなそんな行動だったのだろうか。
きっと、きっとそうだ。自分は彼を「兄の様だ」と思うことが多々あったし、それと恐らく同等なのだ。だから泣くことはない、自分は被害者でもなければ、彼の想い人でもないのだから。
―
そんなやましい気持ちはなかった、というのは嘘だ。あわよくば彼女に自分を想わせようと浅知恵を働かせて行動したのだ。
汐音と話せば話すほど、笑い合えば笑い合うほど汐音に惹かれて行く自分を止められない。自分はもう一つ汐音に嘘を吐いた。「汐音ちゃんのこと応援することにする」という、過去に彼女へ向けて言った言葉を嘘にしてしまった。
恋をするというのは、どうしてこんなにも苦しいんだろう。恋をしている女の子と言うのは、どうしてあんなにも魅力的なんだろう。
「泣かせるつもりがなかったのも…半分嘘かな…」
彼女を傷付けて、嫌でも自分を意識させようなんて、オレは、正真正銘のばかだね。
久遠はスマホを開き、汐音へメッセージを送った。「今日はごめんね。」とだけ。
汐音からの返信は返ってこなかった。次の日、これほどまでに学校へ行くのが憂鬱だと思ったのは、恐らく人生で初めてだろう。
T「久遠は何でもわかってる気になりすぎだと思うね」
H「会長にいわれたくなぁいで~す」




