偏差値20...邪心
執筆途中でながらく放置し、流れを忘れるという一大事をかみかみで何度も味わってます。
軌道修正の難しい事難しい事。気を付けます。
巴は一度ため息を吐いて、うっとりと恍惚の表情を浮かべている汐音を睨んだ。この女のせいで全てが上手くいかない。この女さえいなければ、鶴伎は少なくとも一時的には了承をするというのに。
巴からの視線に気づいて汐音は顔を上げた。巴の突き刺さるような氷柱の視線に汐音は目をそらしそうになったが、ぐっとこらえ睨み返した。
「何故気に入らない?俺に脅しまでかけて、何故会社の邪魔をする?…お前は親不孝者だよ鶴伎…」
「………まだ17にもならない人間捕まえてそういう事言う父さんが俺は信じらんないね。婚約ってさ、今すぐしなきゃいけないわけ?そうなんだとしたら絶対断固拒否するね」
鶴伎の言っていることは汐音にも尤もであることが理解できた。つい最近まで顔も知らなかった相手と今すぐ将来を約束しろだなんて無理やりだし、検討もせずに承諾する人間が何処に居るのだろう。自分が知らないだけで、長谷寺家の関係者にはそういう人もいるのかもしれないが。
巴は鶴伎の言葉の意が分かった様で、はっと切れ長な目を開いた後口元の片方を上げてにやりとした笑みを見せた。汐音は嫌な予感がして鶴伎の方を見たが、鶴伎は巴の方を見据えていた。麗雅は不安げに巴を見ていた。
「“今すぐ婚約しなければならない状態なのだとしたら断固拒否”そう言ったな鶴。」
「そうだよ」
「ではどのくらい期間が欲しい」
鶴伎は考える素振りを見せたが心の中では期間はハッキリと決まっていた。自分が受験をしなくてはならない時期…その前まで。
「1年…正しくは、来年の4月まで」
「…なるほど、それなら神宮にも通るだろう。」
汐音は胃がひやりと冷えるのを感じた。来年には鶴伎にこうして触れることも、最悪言葉を交わすこともなくなる可能性があるのだ。そんなこと…考えられない…。
しかし汐音の心配とは裏腹に、鶴伎には考えがあったのだ。あくまでこの期間は実験期間で、汐音がどれほど自分に惚れるか…そして自分を惚れさせるだけの条件をくれるのか、それを確かめるだけに必要な期間だ。
実験が失敗したならもはや恋愛などする気も失せると予想しているから(今も面倒だと思っているし)、婚約など破棄する必要もなくなる。父の思い通りに自分の人生が決まって行くのは癪に障るが、安定した一生を送れるならそれに越したことはないだろう。
それに汐音には自分がいなくとも、きっと久遠が汐音と生涯を共にするだろう。どちらに転んでも二人の人生が狂うことはない…決して。
「来年の4月…それまでに、俺が君に惚れられればの話…だけどね」
鶴伎の声音は低く抑揚のない冷淡なもので、麗雅は恐怖から目を逸らした。巴は口元に弧を描き、早く一年が過ぎるのを願った。
しかし、実験が成功した場合にはどうするのか。その場合、今度はどんな理由を付けて婚約を回避しようか…いや、そんな“もし”の状況を考えるのは好きではない。それが本当にならなかったら、酷く失望してしまうのだから。
―
久遠はやっと自分の出る競技の大半が終わり、クラス座席で水分補給をしていた。未だ汐音と、汐音の様子を見に行った鶴伎が帰ってこないことを心配しながら、ずっと放っていた携帯を取り出して汐音へのメッセージを開いた。
「汐音ちゃん、傷大丈夫?迎えに行こうか?」とだけ送る。最近汐音とのメッセージのやり取りが増えて来て、徐々に汐音と自分の距離が縮まって行くような気がして嬉しかった。前に鶴伎ともやりとりをするのかと聞いたら、自分と程ではないと言われ、鶴伎の一歩手前を行くようで愉悦に浸れた。
しかし今朝のアレは痛手だったと、思い出しては後悔に唸る。まさか校舎が閉まっているからと言って、汐音がたかが校舎の影にいるだけで隠れたつもりになり着替えを始めるとは。汐音は見られていたことに気付いていなかったようだが、久遠はその衝撃に眩暈を起こしそうになった勢いだ。
いや、女の子の下着姿は、妹がいる自分にとって見慣れたも同然だが、妹の下着姿と好意を寄せる相手の下着姿を同格にしてはいけない。
それなのに今日の汐音ちゃんの下着の色は…とか考える阿呆な思春期男子高校生が自分の内面にいることが、久遠は堪らなく恥ずかしい。こんな風によこしまな目で汐音を見つめていることが鶴伎にバレたら、恰好の笑いものにされる他、汐音にも伝わってしまうかもしれない。それはどうしても避けねばならない。
「うおおぉぉ静まれオレの邪心んん…」
「何してんの」
「いや今朝とんでもないものを見てしまっ…って鶴!?」
背後から現れたのは、膝に派手な傷を抱えた汐音を負ぶさっている鶴伎であった。久遠は驚きに座席から飛び上がり、汐音の傷と鶴伎をまじまじと見つめた。
不審な態度を取る久遠に、鶴伎は「何?」と首を傾げたが、久遠は慌てて首を横に振った。目のやり場に困ったので、何となく時計を見ると、間もなく鶴伎が得点板の当番になる時刻だった。
「あ、鶴。そろそろ時間じゃね?」
「もうそんな?汐音ちゃんを席まで連れてってあげたかったんだけど…」
「私は大丈夫です!ちょっと痛いですけど歩けますから…」
「そう?じゃあ、下ろすよ」
鶴伎の背から降ろされた汐音は鶴伎の香の余韻に浸りながら、うっとりした表情で地面に足をつけた。そのとき膝に鈍痛が走ったが、心配させるまいと平生を装った。
しかし久遠だけはその汐音の微かな表情の変化に気づき、支えようととっさに腕を伸ばした。汐音が驚いて後方に一歩後ずさったため、その腕が汐音に届くことはなかったが。
そんな二人の微妙な空気をまた濁すかのように鶴伎はふっと鼻で笑い、そして「じゃあね」と足早に去って行った。汐音は名残惜しそうに鶴伎の後ろ姿を見つめていたが、久遠は納得いかんという表情で鶴伎を睨んだ。
「じゃあ私は生徒会席に戻ります」
「待って、送ってく。足痛いんでしょ?」
「えっ…でも、」
「いいから!オレが送りたいの!!」
汐音は半ば強引に久遠の腕に引かれ、支えられながらゆっくりと砂利の上を歩いた。久遠の表情は何故だか曇っていて、何か怒らせることをしただろうかと汐音は不安になった。
しかし自分の些細な変化も気づいてくれる久遠は、紛れもなく学園の人気者たる器の人間だと汐音は思った。優しくて気が利いてスポーツ万能、そんな彼に恋人がいないとは、にわかに信じがたい。
「汐音ちゃん、足大丈夫?」
「はい、大丈夫…です」
「さっき痛そうにしてたから。鶴はさっさと行っちゃったけどさ。」
いつもと違い、言葉にとげのある久遠は、汐音を怖がらせる。それは久遠にとっては自覚のないことであった。彼は心底では嫉妬に似た怒りを燃やしているだろうが、汐音を怖がらせようとは思っていない。
生徒会席に着くや否や、久遠は汐音を自分の席に座らせそしてその必然的に空いている隣席に腰かけた。定刻に至るまでその席の主は帰ってこないと久遠は知っていたのである。
「隣、座っててもいいよね?」
久遠が強い口調でそう言ったため、汐音はうなずかざるを得なかったが、汐音的には周りの女の子たちからの視線が気になるので正直に言うとお断りしたかった。
が、今断ったら久遠の機嫌が最低値に達すると思ってこくこくと頷く他なかった。
「そいやさ、汐音ちゃんていつから鶴のこと好きなの?」
「え!…えっと、中三、からです。学園祭の時に、先輩に会って…それで。半ば一目惚れみたいな感じで」
「フーン…あいつ、学祭で何かやってたっけ…。あ、そだ。学園内の見回りして、体調悪い子が居たら保健室に連れてく係やってたわ。」
「そう、それで長谷寺先輩と出会ったんです!人に酔っちゃって、気持ち悪くてうずくまってたら先輩が助けてくれて。」
あの時のことを思い浮かべてふふ、と汐音は思わず頬を緩ませた。あの時自分を助けてくれた王子様を、今でも鮮明に思い出すことができる。
綺麗でかっこよくて、素敵な王子様は、今や自分の憧れの、愛しの先輩となった。それはかつての自分の夢であり生きる希望でもある。今も尚、彼は自分の生きる希望として存在しているが。
「アイツに惚れて入学か…」
少しの敗北感と嫉妬。久遠はこんな風な感情をもう一度体験するなど思ってもみなかった。一度目は…言わずもがな初恋のあの子に対してだが、今度はこんな…勝ち目のない条件の子に対してだなんて。
鶴伎がかっこよくて、美形で、優しくて、女の喜ばせ方を知っているなんてことは、自分だって熟知しているのだ。だからこそ悔しくて仕方がないのである。
そして今度こそ勝ってやるという闘争心に駆られるのだ。
「久遠先輩は…その、好きな人、とか…居ないんですか?」
「オレ!?オレはまぁ~~~…その、うん…えっと、い、」
正直者な久遠はどうしても「いない」とは答えたくないのだが、「いる」と言っても変な誤解を生むだろうし、かといって「オレは汐音ちゃんが好きSA☆」という訳にも、こんな体育祭のしかも生徒のいる前で告白なんてナンセンスだ。
汐音の純粋な赤茶の瞳が自分を捉えて離さず、久遠は自分の心臓がばくばくと音を立てているのを感じた。いや、この質問が飛んでくるのはなんとなく予想はできていたのだが。
「オレは、い、居るよ」
「そうなんですね!…その、先輩は優しくて、頼りがいがあるのできっと、うまくいきますよ。頑張ってください」
ああやっぱり、自分のことだとは思わないんだね。こんなときこそ「君が好きなんだよ」って言える勇気があったなら、少しでも彼女の心を揺らがすことができるのだろうか。
久遠は堅い笑みを浮かべて、あは、と渇いた笑いを零した。心の中に住む嫌な鶴伎が自分に向かって冷笑を浮かべている。「ほら、俺を負かしてみなよ」と挑発してくる。
大体鶴伎は汐音のことを好きだとかそういう感情はないという癖に、自分が汐音への好意を暴露(と言うよりは気付かれただけだが)した時、あいつは自分を挑発するような口ぶりで言った。
『できるものならやってみたらどう?』
今思い出しても腹が立つ。あの時本気で汐音ちゃんを惚れさせると言った。そう宣言した。しかし、今もうすでに鶴伎しか見えていない彼女をどうやって惚れさせればよいのだろう。
「でもオレの好きな子ね、メッチャ近くに居るのに気付いてくれないんだよね…。」
「ええっ、そんな…それは悲しいです。先輩からの好意に気づけないなんて、罪な人ですね」
君自身のことなんだけどね、と悪態を吐いてみたり。
「…すっごい真っ直ぐな子で、ちょっと地味かと思いきや他にはない個性を持ってて―で、かなりの鈍感かな。」
「そんな人が先輩の同級生に?ある意味、楽しそうです」
「ううん、年下のコ」
汐音はなおも気づく様子なくへえ~と久遠の話に相槌を打っている。久遠は深くため息を吐きながらも、鈍感な汐音さえ可愛く思えてきて、自然と微笑みが浮かんできた。
「先輩も…両想いになれたら…いいですね」
―
来年の4月までに鶴伎は神宮麗雅と婚約を交わしてしまう。来年の4月までに神宮麗雅が鶴伎を惚れさせてしまったら、鶴伎は神宮麗雅の物になってしまう。
そんなの嫌だ、堪えられない。神宮麗雅は鶴伎のことを愛しているわけじゃないのに、鶴伎の父親を愛し、彼と生涯を共にしたいがために利用しているにすぎないというのに。
そんな醜悪な女と鶴伎が婚礼を交わしてしまう…何としてでも阻止しなければ。そう思うのに、阻止の仕方が分からない。あの女を殺すのは鶴伎との約束に反するし、かといって自分にはなんの権力もなく、鶴伎と愛し合っているわけでもない。
汐音は一人頬を濡らすしかないのか。ハンカチを噛みしめてその様を見届けるしかないのか…。
ああ、先輩。先輩。先輩。貴方が愛しい、貴方が愛しい。貴方が、愛しい。貴方を独占できるなら、貴方と愛し合えたなら、もう何もいらない。
それなのに、それなのに。神は私に死ねと言うのか。
―体育祭が閉会し、汐音はまたもや神宮麗雅に呼び止められた。汐音は何事かと嫌悪感をあらわにした、その後の記憶があまりない。
麗雅は鶴伎にも盗み聞きされないよう、運動部の女子更衣室に汐音を連れ込み言い放った。「正直に言うわ。私は鶴伎様のお父様を愛しているの」
汐音はそれだけで麗雅の襟首を掴みそうになったが、麗雅が鶴伎を愛していないと知った瞬間の冷めた感情によってそれは阻止された。
ここから、何を言われたのか、汐音の記憶にはあまり残っていない。
「それなのに貴女の恋路を邪魔して、ごめんなさいね」
それが鮮明に頭に残っている。ああ何て憎たらしい、醜い言葉だろう。その言葉になんの反論もできなかった自分に腹が立つ。
汐音は駅のホームに立っていた時急に吐き気を催し、トイレであの女への黒い感情と共に胃の中のモノを便器へ吐き出してしまった。胃がむかむかする。じんわりと涙が目元に滲む。
鶴伎の本心が分からない。鶴伎の本心が…どうして4月に婚約を決めると言ったのだろう。しかし、それは自分の自惚れでもあったのだ。鶴伎が自分に少しでも好意をくれていると信じてやまなかった。その現実を叩きつけられた気分だ。
(こんなに。こんなに好きなのに。こんなに愛しているのに…どうしてだろう。)
咳き込みながら公衆トイレを出、ハンカチで口を押えながらベンチで電車を待つ。視界が涙でかすむ。こうしてぼやけた世界を見ていると、不思議な気分になる。
視界が現実であって現実でないような、そんなふわふわとした気分に包まれ、その時ばかりは心を無にできるのだ。暖かな温もりに包まれたり、また鋭い針で刺されたり、残酷な現実に押しつぶされたり。そんな汐音の心は、今は何にも包まれていない。
寒い…
定刻、電車がホームに着き大量の人が鉄の箱から出てくる。汐音はベンチから腰を擡げ、その鉄の箱へ足を運んだ。
人がぎゅうぎゅうに詰まるこの鉄の箱に汐音は身をうずめ、そして目を瞑った。人がこれだけいようがいるまいが汐音にとっては変わらない。
嗚呼、寒い。心が独り寒いと嘆いている。その寒さに、あの女の言葉に、胃の不快感に堪えきれず、意識が汐音の体躯から遠のいてゆく。
汐音が意識を手放そうとしたその時、見覚えのある腕が汐音の視界をかすめたことは、寒がりな心にとってはどうでもいいことであった。




