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「やだ」


 答えるまでに1秒すらかからなかったというほどに、汐音は即答した。当然考える余地などないわけだから、寧ろ、何故鶴伎を諦めるなどという事案を考えねばならないのだ。

 前にも同じような事を長谷寺父に言われた覚えがあるなと、即答してから汐音は思い出した。鶴伎はどうも周りにこういった人々が多いようだ。それが彼にとって都合がいいか悪いかと聞かれれば、正確な答えはでないのだが。

 即答した汐音に麗雅は至極つまらなそうな冷笑を浮かべた。相変わらず、美人の冷笑やら怖い顔は、凡人にとっては脅威でしかないと汐音は思った。


「…どうしてわからないの、長谷寺家の繁栄が、結果的に鶴伎様の為になると」

「分かりたくもない、そんな、こと…どうして私が諦めなくちゃいけないの。どうしてあなたに指図されなくちゃいけないの?」

「人の話をちゃんと聞きなさいよ、(わたくし)と鶴伎様が婚姻を結べば、鶴伎様は幸せになれるって言ってるでしょう!?呆れた自己中だわ」


 麗雅はやれやれとわざとらしく肩をすくめた。汐音は靄こそはそこまで膨らみはしなかったが、普段滅多に煮えたぎることのない怒りが爆発しそうになった。

 どうして他人の神宮麗雅が鶴伎の幸せを決めるのよ!と。どいつもこいつも“鶴伎の幸せはこうである”と当然の様に持論を並べたてやがって。どうして本人の意見を聞かないのだ!


 一方その頃当の鶴伎は、学年種目まで少し時間があったため汐音の様子を見に保健室の戸の前に立っていた(久遠は競技をたくさん掛け持ちしているため、生憎時間がなかったため断念した)。しかしなんとまあ入りづらいことか、自分の元婚約者と汐音が口論しているではないか。

 まあそんなことだろうと鶴伎は校庭に堂々と置かれた違和感満載の石を見て思っていた。しかしあの婚約者、まだあきらめていなかったのか。往生際の悪い女だ。


「ねえっ、いい加減にしてよ!」


 その時、汐音の怒号が保健室に響いた。隙間から見てみると麗雅も汐音も、どちらも憤怒の恐ろしい表情を浮かべていた。見なきゃよかった。

 しかし珍しく率直な怒りを露にしている汐音には興味があった。普段は嫉妬で人を殺しかねないほどに我を失っていることが多く、こんなに冷静|(?)な怒りを表している汐音は初めて見る。


「何で鶴伎先輩の幸せをあなたが決めるの!?そんなのっておかしいよ、私は、私は鶴伎先輩が大好きで、愛してるから、だから一緒に…傍に居るだけなのに―それが鶴伎先輩の幸せならそれ以上に幸せな事ってないけど―でも、それが鶴伎先輩の幸せだなんて思ったことない!押し付けるつもりもないもん!」


 一息で言いきった汐音に麗雅も、鶴伎本人も目を丸くしていた。“鶴伎先輩”って呼ばれた…と。


「後ね、私…日本人に、そしてこの学園に通える範囲の地域に住んでてよかったと思った。先輩の話している言語と同じ言語を喋れるし、こうして先輩と出会えたんだもん…。こんなに素敵で、幸せな事ってないよね?でも先輩が幸せじゃなかったら…悲しいね。」

「はい?え、何の話をしてますの?」


 鶴伎はぞくぞくっという感覚と共に、鳥肌が立っていることに気付いた。汐音の言葉はどうしてだか自分の心にじんわり沁み込んでくる。父の言葉も自分の心を侵したが、それはもっと凍てつくようであった。

 俺の幸せってなんだろう。鶴伎はふと考えたが、しかし短時間で答えは出そうにもない。自分の幸せ―両親から離れられることだろうか。離れて、安定した平穏な日々を送ることだろうか。


「汐音ちゃん」


 鶴伎は保健室の開き戸を開け、汐音の名を呼んだ。その瞬間汐音は至極嬉しそうな、大好きな父の帰りを待っていた娘の様な表情を浮かべた。麗雅の方は、今までのことを聞かれていたらまずいと言わんばかりの苦い顔をした。

 ああ何て狡猾で不遜で、高慢な女。自分やその両親の様だ。ああ何て、気味が悪い―。


「…傷の具合はどう?」

「痛くて、しばらく運動は出来なさそうです…先輩はお怪我は?」

「俺は大丈夫、大したことしてないし…痛そうだね、“何で”あんなところに石があったんだろうね」

「つ、鶴伎様…いつから」


 麗雅は恐怖で体が震えていた。石の理由を想定されるのは分かっていたが、盗み聞きされるとは思っていなかったのだ。


「いつって、今来たばっかりだよ…君も見てたでしょ?」


 鶴伎は不敵に口元に弧を描かせた。麗雅への威圧はこれだけで十分だった。


「―麗雅ちゃん、」


 麗雅の肩が跳ねる。鶴伎は性格悪くも、とても愉快な気分だった。


「君はまたあの(たつみ)に説得されて、俺に婚約を破棄しないよう説得しに来たの?」

「っ違う…私は、ただ貴方を夫にと…」

「嘘は吐かなくていいよ。あいつには言わないから、全部吐き出しちゃいなよ?」

「!…。……私は…」


 麗雅はすっかり俯いてしまった。汐音は何かここに居てはいけない気がして、退室を試みようとしたが、膝が痛くて立ち上がることができなかった。

 それに鶴伎は気付いたらしく、「汐音ちゃん?」と目で話しかけてきた。汐音も目配せして「退室した方がいいですよね」と目で言った。麗雅はまだ俯いて話す様子もなかったので、汐音を支えて立ち上がらせた。

 漸く歩けるようになった汐音は、鶴伎と離れるのはとても嫌で名残惜しかったが、仕方あるまいと未練たらたらな表情で鶴伎を見つめながら退室した。汐音が退室すると、麗雅はやっと顔を上げた。


「私は、貴方と結婚しなくてはいけないの…そうしなければ、この関係は終わってしまう…!私は巴さんが欲しい。どうしても、どうしても巴さんが欲しいの!」

「なら本人にそうと言えばいいじゃない?」

「言ったわ!だけど、だけど駄目だった、彼は貴方と結婚しなければ関係などなかったことにすると…!」


 麗雅の顔は哀しみと焦りに満ちて、今にも泣きそうであった。鶴伎は冷めきった表情で、目の前で暴露するばかな女を見つめていた。見つめていながら、齢15の女をこんな風に翻弄する父のことを考えていた。


 一方、保健室を出て廊下をとぼとぼと歩いていた汐音は、行く先に一つの人影を見つけた。そのシルエットは何処かで見たことがあるような気がして、汐音は目を細めてその顔を認識しようと努力した。

 その顔にたまたま窓から差し込んだ光が当たると、その人の顔が露になった。汐音は息を呑んだ。


(先輩のお父さん…)


 タイミング悪く、噂をすればと言えばいいのか、現れたのは現に問題となっている長谷寺父―巴である。汐音は巴がきっと鶴伎のところにいくのだろうと思って、どう引き留めるかを考えた。

 巴は傷だらけの汐音を見ると、汚いものを見るような目つきを一瞬汐音に向けたが、そのあとすぐに前へ一歩歩き出してしまった。汐音は慌てて「アッ」と言った。

 巴はその声に気付き、足を止めて汐音の方を向きなおした。


「何か?」

「お、お久しぶりです、えと、藍沢です」

「藍沢?-ああ、確かに。久しぶりだ…汐音さん」


 確実に忘れ去られていた様で、だから素通りされそうになったのかと汐音は納得した。存在を忘れられるのは慣れているし構わないのだが。

 巴は汐音を見てにこりと微笑むと、「何か?」とまた言った。どうやら急いでいるようだ。


「ど、どうなさったんですか、校舎に一人で…よければ、案内、しますけど」

「案内?ふふ…そうか、うん、でも…汐音さんより俺の方がこの学園に詳しい自信があるけどね」


 汐音は言ってからあ、そうかとなり、自分の発言の軽率さを恥じた。彼は鶴伎の父親で、もう5年もここのことを知っているのだ。いや、実際は2年か…。

 巴は少し考えて、また「でも…」と呟いた。汐音は羞恥から赤らんだ顔を上げ、巴を見上げた。


「案内していただこうかな…鶴伎の居るところまで」

「ウッ…」

「…どうしたの、分からないのかい?」

「い、いえそういうわけでは。えっと…確か外の生徒会席に…」

「そこに居なかったから校舎に探しに来たのだけれど…、おかしいね、知ってるのに教えたくないみたいな…そんな顔をしているよ?」


 正に図星をつかれた汐音はぎょっと目を丸くし、何で長谷寺親子は人の考えを簡単に読み取れるのだろうと少し感心した。いやいや、感心している場合ではないのだ。彼を止めなければ。

 巴は汐音が何も言いださないのをいいことに、「お手上げかな?」とにこり笑んで踵を返した。汐音は慌てて巴の手を掴み、進行を阻止した。


「駄目です、駄目!あの、私、足痛くて歩けなくて。あの、席まで支えて行ってくれませんか!」

「はあ?いや、俺は鶴伎を探して…足が痛いのなら保健室に行くべきじゃないの…?」

「…じゃ、じゃあ連れて行ってください、あんまり早く歩けないですけど」


 汐音は押して駄目なら引く要領で、もう仕方ないと保健室に行くことを決めた。さっきから膝が痛いのは本当だし、ちらと見たら血がにじんでいた。

 だからといって、さっさと行かせるわけにはいかないので、時折(というか頻繁に)足が痛んだふりをして足止めをした。


 そして15分かけて保健室に向かわせ、汐音は「どうか先輩と女の子の話が終わってますように」と必死に祈った。

 巴がドアノブに手をかけた刹那、中から声が聞こえてきた。正確に聞き取れないほどの小さな声であったため、巴は聞き耳を立てようとしたが、断念した。

 一瞬間をおいてからノブを捻り、戸を開けた。その瞬間、汐音は今まで抑えていた黒煙が、物質となって口から吐き出されそうなほどに、吐きだしても止まらぬほどに膨張した。汐音は思わず苦悶に顔を顰めた。

 と言うのも、先ほどまで話し合いをしていた鶴伎と麗雅が抱き合って――いや、麗雅が抱き着いていたのだ。鶴伎は呆れかえっている様子だが、黒煙を胸いっぱいに溜めた汐音の判断力は欠けている。

 そこで初めて口を開いたのは巴であった。


「おっと、お楽しみの所だったかな…ごめんね麗、邪魔して」

「た…ッ」


 愛しの人の姿を見た麗雅は至極嬉しそうな、しかし鶴伎に抱き着いているところを見られて苦虫を噛み潰したような顔をした。巴はいたって冷静に、それも確実に麗雅の心を抉った。

 汐音と言えばそれどころでなく、鶴伎が汐音の様子に気が付いた時には、既に汐音の手には(どこから持ってきたのか)鋏が握られていた。幸いなことに、それに気づいていたのはまだ鶴伎だけであった。


(いけない…汐音ちゃんを抑えないと…)


 “こんな”状況で汐音の“あんな”姿を見られては、確実に汐音が退学になる。父は自分絡みの不正を正すことや、気に入らない者の排除が大好きだ。

 汐音がゆっくり臨戦態勢に入る。鶴伎は思わず麗雅を突き離し、汐音の腕へ手を伸ばした。汐音はそれに気づき、狂気に満ちる目で鶴伎を睨みつけた。巴と麗雅は何事かと鶴伎を見遣った。鶴伎も必死であった。

 ぱっと鋏を取り上げ、とっさに懐に隠す。得物がなくなったため、汐音はむきーっと子供の様に暴れようとした。そうはさせまいと、鶴伎は汐音の顔を自分の胸に埋めさせ、それを阻止した。


「むぐッ!」


 とりあえず血を見る惨事は免れることができたが、さて、この状況をどう説明するかが今後の鶴伎の問題である。自分も汐音に侵されて変な行動を取るようになったなぁなど考えている場合ではない。


「…何をしているんだ鶴、婚約者の前だぞ」

「父さん、これにはとっても複雑なわけがあってね。でも説明するのは面倒だから、婚約を破棄させてもらってもいい?」


 麗雅はいよいよ青ざめて、巴は怒りの笑みを零し、その間汐音は幸せに入り浸っていて、鶴伎は絶妙に重たい空気をどうするか、必死に考えていた。

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