偏差値18...麗雅
体育祭当日、汐音は情けないことに寝坊をした。先日また珍しく元気だった穂香と夜遅くまで談笑を楽しんでいたら、まんまと起きられなかったのである。
急いで制服に着替え、いつも身に着けるベストやリボンも着けずに急いで家を出た。汐音の選択した借り物競争は、何と開会して3番目の競技なのである。汐音はやはり急ぎ足で駅まで向かう―汐音の脚力などたかが知れている―が、1つ目の種目は間違いなく見られないし、2つ目の種目にも遅刻してしまうかもしれない。
困ったものだ、汐音は今まで遅刻ギリギリになったことは何度もある(遅刻にされたと思っていた一件は奇跡的に遅刻とはカウントされていなかった)が、無遅刻無欠席を誇る健康優良児であったのに。皆勤賞を狙っているわけではないが、密かに取れたらいいと願っていたのに、涙が出そうになった。早く駅に着かなくては、その一心だった。
やっとこさ学校に着いた頃には、1種目目が終わって歓声が響いている頃であった。汐音は息せき切って校庭の見えない位置で着替えを始めた。校舎は盗難や不審者侵入防止のために鍵がかかっていたのだ。
この際誰に見られようが構わないと、こんな貧弱な身体見ても誰も喜ばないと思って大胆に着替えた。こんな時間に知り合いと出くわすこともないだろうと。
クラス色Tシャツとジャージのズボンを履き終え、運動靴を履いて担任の元へ向かおうとすると、久遠が背後から朝の挨拶をしてくれた。
「しっ、しおんちゃ、おお、お、おはよう」
「おはようございます、久遠先輩」
久遠の顔は走った後だったのか、異様に赤らんでいた。頻りに短い髪の毛を掻き、汐音の顔を罰が悪そうにあまり見ようとせず、何となく微妙な空気が漂う。
「借り物競争、久遠先輩も一緒ですよね。頑張りましょう」
「あ、ああ!うん!頑張るよ!汐音ちゃんは、な、何の競技…アッ借り物か…うん、一緒に頑張ろうね…あ、あのさ」
「?はい」
「ごめんね」
「え?」
突然謝られたことに汐音は全く心当たりがなく、そして自分が何のことだと訊く前に久遠は三角ポールを抱えてそそくさと去って行ってしまった。
一体何のことだろう、謝られる様な事したっけな…汐音は疑問符を浮かべながらも、遅刻のことを思い出して担任のもとへ急いだ。
無遅刻無欠席を誇る健康優良児だったため、教師からは大変心配されたのと、体育祭に遅刻するなんてけしからんと叱られた。体育教師はこれだから嫌なのだ、体育祭なんて任意参加で良いじゃないか。
青色の鉢巻を手渡され、汐音は鉢巻を結びながら、既に借り物競争の徴集が始まっていると聞きゲートに急いだ。ゲートからちらりと得点板の方を見ると、葩と南が居り、二人は相変わらずふざける葩に南が怒っていた。
5年生の方を見遣ると久遠が先ほどと変わらず赤い顔で何やら思いつめた表情をしていた。そんな辛辣な顔をされるとこちらも何だか罰が悪くなってくる。汐音はウーンと唸った。
『樽転がしの皆さんお疲れ様でした、白熱した競争でしたね。―次は借り物競争です、選手の皆さんは一斉に入場を開始してください』
放送が入るや否や、少人数の生徒が一斉に立ち上がり校庭の中央へ駆けて行く。入場の間に鶴伎の姿を探したかったが、思った以上に入場の駆け足が早くて走るのが精いっぱいだった。
ルールは簡単、30m先にある机の上に並べられた小さなメモ用紙を一枚取り、指定されたお題にそったものを持って来たり、人を連れたりする。その間に注意せねばならないことは、学校の敷地内の外に出ない事。人を連れてく場合は、選手は丁寧にお願いし、お願いされた側は快く引き受けよう。以上である。
「位置に着いて、用意」
パーンという弾けた音と共に、一斉に机へ猛ダッシュする。汐音も全力で走ったが、やはりビリで机に着いた。
急いでメモ用紙の文字を読む―そこには好きな人と好きな人の好きな人と書かれている―汐音は前者の記述には真っ先に鶴伎を思い付いた。眼鏡越しに鶴伎を探す、鶴伎は生徒会長だから生徒会席に居るはずだ―汐音の読みは当たり、鶴伎はそこで携帯をいじっていた。やはり猛ダッシュする。
朝から走ってばかりで、これだから体育祭は嫌いだと汐音は自分のことを棚に上げた。鶴伎が汐音の存在に気づいて顔を上げると、来ることは分かってたと言わんばかりに汐音に笑みを見せた。
「おはよう、遅刻したんだって?間に合ってよかったね」
「お、おはようござ…っ、はあ、はあ、」
汐音は普段の運動不足が祟って必死に肩で息を整えようとしている。
「押し付けられた掛け持ちしたがりがたくさんいるから、思ったよりハードでしょ」
「す、すごく…あの、あの…これ、お願いしていいですか…」
頼りなく震える手で、小さなメモ用紙を手渡した。鶴伎は内容を既に知っているかの様に大してメモに目を通さずに頷く。頷かれたは良いが、問題は“鶴伎の好きな人”である。
「勿論、いいよ。でも俺が好きな人って、誰だろうね…友達でもいいのかな」
「…あの、遠慮しなくていいです気にしません」
「そんな怖い顔で言われても説得力ないよ。…それとも、嘘でもいいから汐音ちゃんって言って欲しい?」
“嘘でもいいから”。その言葉にチクリと胸が刺された。嘘でもいいからということは、自分のことを好きだと言ったら嘘になるということだ。自惚れていたわけじゃないのに、胸がズキズキする…汐音は思わず俯いた。
「好きな人ねえ…、久遠で良いんじゃないかな」
鶴伎の言葉をスルーして、汐音はゴールの方を見遣った。既に彼女を抱えてゴールした6年生が、にんまり笑顔で完成を浴びていた。何だこれリア充の為の競技じゃないか…。もしかして課題を作ってるのって生徒会?だとしたら仕方ないが。
自分のことを珍しく無視する汐音に、鶴伎は面白くなさそうに汐音の額を小突いた。汐音は小さく呻きながら鶴伎を見上げる。鶴伎の笑顔には、威圧が含まれていた。
「この際久遠でもいいんじゃない?って言ったんだけどな…ちゃんと聞いてた?」
「ご、ごめんなさい…そ、うですよね。…」
鶴伎はそうは言ったが、汐音からしてみると先ほど微妙な謝罪をされたため、顔を合わせるのが少しだけ気まずかった。自分が無意識に彼に罪悪感を味わわせていたのならそれは申し訳ないし、彼が何も言わないものだから自分には皆目見当もつかないのだ。
表情の曇る汐音を見遣り、鶴伎は怪訝そうに首を傾げた。汐音はうんうん唸りながらも頷いて、「久遠先輩を探しに行きましょうか」と言った。
鶴伎は何かあったのかと問うたが、汐音が曖昧な回答しかしなかったため、それ以上は何も追及しなかった。
「あ、い、はぁっ、はぁっ、居ました!はぁっ」
久遠は校庭の端っこでメモ用紙を握りながら、先ほどの汐音と同様にうんうん唸って立ち尽くしていた。汐音たちは久遠を見つけるや否やお願いしようと駆け足で近づきに行った。―しかし、それは汐音の足元に置かれた大きな小石によって汐音が大転倒を披露することで阻止された。
「んぎぇっ!!」
急にバランスを崩して派手に転んだ汐音はあちこちに擦り傷をつくり、走り回った事での体力消耗と、転倒の衝撃による気力滅亡と、単純な傷の痛みで身動きを取ることができなかった。
目の前でそれを見ていた久遠は口をあんぐり開けてメモ用紙などどうでも良いように、一目散に駆け寄った。汐音は羞恥心から泣きそうになった。寧ろ、泣いた。
「汐音ちゃん、大丈夫!?」
「…こんなとこに石って、普通に考えればあり得ないね」
「何悠長なこと言ってんだよ、汐音ちゃんむっちゃ擦りむいて…保健室に連れて行かなきゃ」
「う~~…長谷寺せんぱいぃ~~っ…痛いよぉ~~…」
汐音は痛みに呻き、愛しの鶴伎の名を呼んで子供の様に泣きべそをかいた。鶴伎は一応汐音の声に従って汐音の傍にしゃがみ込んだが、設置された石のことが気がかりで今の保険担当の生徒は誰だろうと委員会席を見遣った。
-ああやっぱり…鶴伎がそううなだれると共に、汐音の担任の小清水とその保険担当の生徒が現れた…。そう、神宮 麗雅が。汐音も久遠も、はては鶴伎でさえ青ざめた。
―
自分より半年ほど年下の神宮麗雅におんぶされながら保健室へ連れて行かれ、汐音は借り物競争を棄権した。ああやっぱり点数の高い種目を選んでおいてよかったと、汐音は心底安堵した。
麗雅は神宮家のご令嬢だと言うが、汐音より遥かに運動神経が良く力もあるみたいであった。汐音は背負われている自分が何だか情けなくなり、しゅんと眉を下げた。自分のドジ加減にもそうだが、恋のライバルに背負われるなんて。
「…最初に謝っておきますが、あの石を置いたのは私ですわ。貴女を転ばせようと思って置いたのですけれど、本当に転ぶなんて思ってもみませんでした」
麗雅は汐音を丸椅子に座らせ、患部の具合を見つつ濡らしたハンカチと消毒液を取り出した。汐音は衝撃の告白に目を丸くし、何でそんなことをと言わんばかりの訝しげな表情を浮かべた。麗雅は悪びれる様子もなく汐音と目を合わせると、艶美な微笑を魅せる。
傷の刺すような痛みと麗雅の刺すような眼光に、汐音は蛇に睨まれた蛙の様な気分になり、思わず目をそらした。患部を手際よく治療してくれてはいるが、なんだか荒っぽい。
「何で、とお思いでしょう?貴女とお話がしたかったのですわ。二人きりでお話すると言っても、鶴伎様に感づかれたくはなかったのです…尤も、彼は私の仕業だと感づいたみたいですが」
「今更あなたと話すことは何もないと思うんだけど…長谷寺先輩にだって、丁重にお断りされていたじゃな…痛ッ」
「…見てたのね、卑しい豚」
ぶっ、豚…!?汐音は痛みでそれどころではなかったが、豚と言われぎょっと目を見開いた。豚なんて誰からも言われたことのない暴言だし、そもそも豚に失礼だと思う。自分は肉があんまりなくてまずそうだもの。
「み、見てたって言うか、たまたま居合わせちゃったって言うか…。その、呼び出されてて。だから悪気はなかったんだけど」
「…まあいいわ。ねえ貴女、単刀直入に申し上げるわ」
擦りむいた腕や顔は大した傷ではなかったので絆創膏を貼られた。深く抉れている膝こぞうはガーゼを当てられている。しばらく体育は痛くて出来なさそうだ。
獲物を狙う鴉の様な真紅の瞳と目を合わせる。何を言われるんだろうか、とかは考えなくても分かった。―長谷寺 鶴伎の話だ。
「鶴伎様のために、鶴伎様を諦めてくださいませんか?」




