偏差値15...約束
約一週間ぶりの朝のHRで、汐音は目を見開いて絶句した。新しく買った黒縁の眼鏡から目玉が飛び出しそうなほど、汐音の目はひん剥かれていたのだった。
その理由は、GWが終わって現実を見せられたことにある。そう、GWが終わり五月も中旬に入る。そこで何があるだろうか?-中間考査である。
「どっ、どどどどうしよう…私ぜんっぜんノート取ってないよ…(特に鶴伎が体育の時間の時の国語)」
「えぇー意外!藍沢ちゃんマメっぽいのにー。あ、あの子に借りれば?…白石、だっけ」
「うん…そうする…」
叫んだ時に偶然通りかかったクラスメイトに声を掛けられたのだが、当然の如くノート貸そうか?などという言葉を掛けてもらうことはできなかった。
それもこれも、汐音には葩以外に友と呼べる人物が居ないことが問題なのである。当の本人も作る気はさらさらないようすであったが。
そんなわけで、休み時間にノートを借りに、葩の許へ行くのであった。幸いにも4組と9組は体育以外は全て同じ教員の授業であった。
「葩ちゃんーっ助けてー…」
「汐音♪どうしたのぉぉ?あ、まさかテスト関連だなぁ!白石ちゃんにはぁ、すべてお見通しなのだよぉぉ!!」
「うん、そうなの。古典のノート貸して…私全然ノート取ってなくて…」
汐音の国語(古典)の授業ノートは最早授業ノートというより、鶴伎観察日記と化している。“先輩”という字でいつか埋め尽くされてしまうのではないかと思うほど、そこには鶴伎関連のことしか書かれていなかった。
流石に恥ずかしいので、葩に見せることはできない。汐音は葩に授業ノートを借りてもその場では写さずに、ちょっとした談笑を楽しんだ。
「…そんなに勉強危ういなら、一緒に勉強するぅ?汐音なら大★歓★迎★だよぉ~」
「いいの??嬉しいなぁ、これで平均点は取れるね!」
「あ、でも…会長に見てもらうって手もあるよ?あのバ会長、むっかつくことに成績優秀だからねぇ」
それは葩にも言えることではないのか…と汐音は心の中で苦笑した。約360人いるこの4年生の中で上位30位にすべての教科が入るのだから、相当頭がいいのではないかと思う。
葩は中の下だよぉ~と自分を謙遜するが、中の下と言うのは学年順位190位くらいの成績だと言うものだ。何を言っているのだ。その時汐音は軽く殺意が芽生えたと言う。
「あたしなんか足元にも及ばないよぉ、だってあの人上位5位には入ってるもん。白石ちゃんとは比べものにならないわよぉっ、汐音のバカッ!☆」
「えぇっ、スゴイ!!…お願いしたら、教えてくれるかなぁ…センパイ」
「お?お?乙女の顔になっとりますぞい?え?このこのぉぉ~~☆」
「そういう葩ちゃんはオジサンの顔になってるよ…」
授業開始5分前のチャイムが鳴り、汐音は9組の教室に戻った。そして自席に座り、一限目は数学だったので、数学の準備をしながら鶴伎にメールを打った。
『件名:おはようございます。本文:今朝気が付きましたがもうすぐテストなんですね(;ω;)先輩は勉強ができると聞いたので、放課後でも休み時間でも時間あるときでいいので、私に勉強教えてください~~泣』
送信ボタンを押した後、ジャストタイミングで先生が教室に入ってきた。汐音は携帯をマナーモードに設定し、Yシャツの胸ポケットにしまうと、号令の合図とともに規律した。
授業中に着信が来て汐音の平たい胸からバイブ音が響いたが、騒がしいクラスメイト達の雑談のお蔭で何とかごまかすことができたのであった。
―
汐音は数学が終わるとすぐ携帯を開き、メールを確認した。その本文には鶴伎らしい質素な文章が書かれていた。
『件名:Re:おはようございます。本文:じゃあ図書室でやろうか、テスト週間で生徒会しばらくないし。』一文で短く、しかし要点の伝わる鶴伎ならではの簡素なメールの本文だと汐音は思った。
「ぜひお願いします…っと」
送信ボタンを押すのと同時にメールを受信し、ランプが点滅した。すごく早いメール返信かと思ったが、確認してみると久遠からであった。
『件名:おはよ!(`ゝω・)ノ本文:今日鶴とベンキョー会すんだって??オレも混ぜて欲しーーな!☆ミ』
くすっと笑ってしまうような如何にも久遠らしい明るい文面で、汐音は思わず独りでに微笑んでしまった。勿論断る理由などないので、すぐにOKの返信を送った。
そうしている内にまた鶴伎からの返事を受信し、汐音は急いで確認した。
『じゃ、今日何やるか決めといて。締切は昼までね』
「えっ?!今日いきなり?!」
まさか今日からやるとは思っていなかったので、汐音はとても動揺した。だが、嗚呼急な要求にも応えてくれるなんてやっぱり先輩は優しいな…とうっとりした表情を浮かべるのであった。
勿論こんな些細なやり取りでさえ、抜かりなくメール保護をする汐音は、既に教えてもらう教科は考えてあるのであった。恋のお勉強とかふざけたことを考えてしまったのは、言うまでもないが。
「あーあ、早くお昼にならないかなぁ」
そう言って青すぎる空を見つめ、ため息を吐きながら携帯を閉じた。始業のチャイムが鳴ると同時に、ポケットの中に携帯を放り入れた。
―
「汐~音ちゃん!」
「あっ、久遠先輩」
爽やかで可愛らしい微笑みを湛えながら汐音の名を呼んだのは、鶴伎でなく久遠であった。そんなに珍しくはないが、メールのやり取りをしていたせいか今日は鶴伎が来るだろうと勝手に予測していたのだ。
少しばかり怪訝そうな表情で弁当を持ち、久遠の許へ歩み寄ると、久遠は苦笑を浮かべた。
「…オレじゃ不満だった?」
「え、そういうわけじゃないんですけど…予想が外れてしまったので」
「やっぱ不満なんじゃん~っ超絶傷つく!」
久遠は唇を尖らせて不機嫌そうに振る舞うも、そっと汐音の頭を撫でて来た。その時の久遠の表情が優しすぎて、汐音はどう反応すればいいか分からず動揺した。
「ごめんな、あいつクラスメイトに引っ張りだこにされててさ…勉強教えてるんだよ。」
「え……」
クラスメイトから引っ張りだこな鶴伎の姿は容易に想像できたが、それと同時にあわよくばこれを機に鶴伎に近づこうとしている女生徒の姿も容易に想像できた。自分の事は棚に上げときながら。
4月に生徒会執行部に見学に来ていた、女生徒の中でも頗る積極性のあった巨乳ギャル阿達の様なイケイケギャル共が鶴伎に群がっているのを想像して、汐音は眉を寄せた。
毎度こういう時に感じる黒い靄の様な感情を蘇らせつつ、汐音は唇を咬み、弁当箱をギュッと強くつかんだ。
「久遠先輩…鶴伎先輩は、教室に居るんですか?」
「え?……うん…多分。」
「私、ちょっと様子見に行ってきます」
汐音は久遠に弁当箱を押し付け、階段を駆け上がった。久遠は汐音の後姿を見ながら複雑な表情を浮かべ、そしてため息を吐いた。
「あーあ…幸せが逃げてった。でもさ、これくらいの嘘ぐらい…いいよね」
―
凄い勢いで階段を駆け上る汐音は、翻るスカートも乱れるリボンもずり上がるベストも気にせずに鶴伎の教室5-9へ急いだ。
すれ違いになっているかもしれないと言う心配などどうでも良い。汐音の胸中にあるのは、鶴伎が女生徒に襲われていないかという懸念である。
「鶴伎先輩いますかっ?!」
息を荒げながら勢いよく戸を開けた汐音は、正に温度差という言葉が似合うほどに昼食を食べる5年生からの冷たい視線を浴びた。
その視線はまるで「おまえも長谷寺かよ」と言わんばかりの迷惑極まりなさそうな冷たさであった。
「長谷寺なら、昼食と勉強道具と取り巻きもってどっか行ったよ」
「どっかってどこですか?!」
「さあ…そこまでは。あの人目立つし、校舎中探し回ってれば見つかるんじゃない?」
「ありがとうございます」
早口で礼を言い、足早に5-9を去った。汐音は思い当たる節のある場所を思い浮かべながら、まずは生徒ホールへ向かった。
生徒ホールには大きな机があり、多少周りの人間さえ気にしなければ勉強に打ってつけの場所である。そこにいるかもしれないと汐音は思い、体力がないのにも関わらず走っていった。
「…居ない…どこ…だろ…」
胸が苦しくなるほどに息が上がっていたが、汐音はその苦しさよりも黒い靄が収まらないのが苦しかった。嫉妬に押しつぶされそうで、またあの時の保険医の時の様に周りの人間に刺しかかってしまいそうで、恐ろしい。
次に思い当たる節と言えば、単純かもしれないが、図書室しかない。それか大講義室である。
「結構図書室で勉強してそう…だよね」
汐音は意を決し、別館にある図書室まで全力疾走で駆けていった。足がもつれ、幾度もこけそうになったが黒い靄がなんとか助けてくれた。
とても広い図書室(金がすべてここに回っているのではないかと思うほどに、他の私立高校よりも蔵書数に秀でている。最早図書室と言うよりは図書館)なので探すのが大変そうだが、汐音は嫉妬を糧に動いた。
喉から血の味がしようと、構わずうろちょろと探し回ったのである。その結果、漸く鶴伎を見つけた。
そこにはなんと、驚くべきことに久遠もいたのである。汐音は思わず大口を開けてきょとんと、阿呆の表情をしてしまった。
「っ…久遠先輩!!?」
「汐音ちゃん遅いよ、心配しちゃった。」
「ちょ、え…?!だましたんですか!?」
時間が時間なだけに取り巻きは久遠以外いなくて安心した汐音であったが、まさかあの久遠に騙されるなんて思っても見なかった汐音は複雑な気持ちになった。
久遠は照れたように笑うと、「必死な汐音ちゃんがかわいかったから」などとぬかし始めた。汐音は裏切られた感MAXで久遠を睨みつけた。
それでも久遠は微笑むだけで、苦笑も浮かべなかった。
「久遠、あんまりいじめるなよ」
「いじめてんのは鶴だろ?ほんっとお前ってやーらし」
「…もういいです、お腹すきました」
飲食厳禁な図書室で昼休みの大半を過ごすなんて、汐音には考えられない事であった。お腹が空いていてはない力がさらに出ないのに付け加え、本などに集中なんてできない。
それを軽々とやってのける鶴伎は、やはりすごいと汐音は感心した。感心するところではないだろうが…。
「汐音ちゃん。」
「はい、何ですか?」
「一応…約束は守ったから」
鶴伎から小さくそう一言言われ、汐音は何のことだか皆目見当もつかなかった。首を傾げながら、汐音は鶴伎に問うた。
「えと…何ですか?」
「もう忘れたの?…ホント、汐音ちゃんって抜けてるね」
「えぇっ、何の話ですか!」
「忘れたならいいよ…約束は無効、か。」
汐音は思考をフル回転させ、鶴伎の言っていることを理解しようとした。約束…約束…?
「あ」
あの時の観覧車での出来事を思い出し、汐音は急に顔を赤らめた。あの時交わした約束と言えぬ約束を鶴伎は覚えて、しっかり守ったという。
しかし汐音は、約束をしたその当日にその約束を破ってしまっていた。“鶴伎の前以外で赤面しない”という約束を。
「約束って、あの、あの時のですか…?」
「……あの時って?」
「観覧車での、ですか…?」
「…そうだね」
汐音は紅潮させた頬を、今度は蒼白にした。
どうしよう、約束を早々に破ってしまった。怒られるだろうか、いや絶対に怒られる。何故なら彼はちゃんと、自分との約束を守ってくれたのだから。
「…どうしたの?」
「いっ、ぃぃいいぃえぇぇえ」
「ふうん…ならいいけど」
やはり約束を破ってしまったなんて、怖くて言えない。怒った鶴伎など見たくないし、想像しただけで寒気がする。
裏庭に着いても、汐音は顔面蒼白で一言も何も喋らなかった。いつもならぽんぽんと話題が飛び交うのだが、今日は何だか空気が重たい。
原因は自分にあると、汐音自身も分かっては居るのだが。
「何かさー、空気重くね?どーしたよ」
「さあね…」
「あと汐音ちゃんどうしたの?顔真っ青だよ?」
「い、いえ…」
「………、」
久遠もこの空気の重さに動揺している様であった。暗い表情の汐音に微かな冷気を纏う鶴伎は、久遠からしてみればこの短時間に何があったの状態であった。
「は、長谷寺先輩…」
「何?」
「…私が今から言うことに、絶対怒らないでくださいね」
「……」
鶴伎はうんとも嫌だとも言わなかった。しかし、焼きそばパンを見つめていた鶴伎の視線が汐音に向かい、言葉のない返事をした。
それでもうんと言わないのだから、「物に拠るけどね」と言われているような気分になり、汐音はまた鶴伎を臆した。
それでも、勇気を振り絞って。
「あの…ごめんなさい!」
「?…何が。」
「私、長谷寺先輩との約束破っちゃって…っ先輩はちゃんと守ってくれたのに、不誠実でごめんなさい…!」
「…………へぇ?」
口元に曲線を描かせ、鶴伎は微笑みを見せた。しかし纏っていた冷気は更に増して、汐音は背筋を震わせた。怖い、本当に、怖い。
「え?何?君ら。こんにゃく(婚約)でもしたわけ?」
「違うね…お前みたいな純真無垢な奴には一生分かりもしないことだよ。…汐音ちゃん。」
「は、はい…っ」
「今日の放課後は、勉強会はナシにしよう。でも残っていて」
「え……っはい、わかりました」
鶴伎の纏う冷気が冷たすぎて、汐音は圧に押されて頷くほかなかった。久遠も不満げにぶうぶう言っていたが、鶴伎が少し睨むとすぐに黙った。
汐音は放課後に何をされるのかすごく怖くて、食欲もなくなり、そのまま食べきらずにチャイムが鳴ってしまうのであった。




