偏差値12...言葉
保健室に着くと汐音は終始スキップで道を行っていた反動で、鶴伎の膝へ飛び込んでしまった。余りに派手に飛び込んだ(すっ転んだともいう)ため、下着が丸見えであったが、空気の呼んだ久遠はさっと目をそらした。
余りの勢いに反射的に受け止めてしまったが、そのせいで膝に乗せていたサンドイッチが見るも無残な姿へと変貌してしまった。勿論、飛び込んだ汐音の顔も…。
運の悪いことに、今日のサンドの中身はポテトサラダと卵サラダであった。どちらもべちゃっとしているので、顔にくっつくこと間違いない。
鶴伎の膝から顔を上げた汐音は、銀色の髪を黄色く染め、頬は白くなっていた。いずれも、サンドイッチの中身である。最悪である。
「…ぶっ(笑)」
鶴伎は無様な汐音の姿に思わず吹き出し、変なツボに嵌ったのか爆笑し始めた。保険医のいない保健室の中に鶴伎の笑い声が響く。
何が可笑しかったのかさっぱり分からない汐音は顔をハンカチで拭き、久遠は呆然と立ち尽くしていた。鶴伎は一頻り笑い終えると、「…何が可笑しかったんだろう」とひーひー言いながら自分に言った。
転んだわ膝に飛び込んでしまったわサンドイッチを駄目にしてしまったわ笑われるわでいいことない汐音はサラダを拭き終えると、鶴伎の隣に座った。
「先輩、酷い…」
「ごめんね。でも汐音ちゃんも俺のサンドイッチ駄目にしたんだから…お相子でしょ?」
「そうですけど…!」
拗ねたように頬を膨らますと、久遠が汐音の膨れた頬に米をくっつけた。驚いた汐音は目を丸くして久遠を見遣り、米と交互に相手を見た。
「お相子お相子。さ、汐音ちゃん、病弱野郎なんて置いといて昼飯食おう?」
久遠が人懐っこい笑みを見せれば、汐音は渋々承諾して弁当を開いた。鶴伎は潰れたサンドイッチを齧りながら、汐音の丸い頭を撫でた。
汐音は撫でられると満足したように笑顔になり、弁当に入っていた甘いプチトマトを頬張った。単純な汐音の精神構造に、鶴伎と久遠は苦笑を零した。
この他愛もない時ばかりは、流石の汐音や鶴伎も、許嫁のことなど綺麗さっぱり忘れているのであった。現実に引き戻される、3秒前までは。
3人が楽しげに話していると、突如保健室の開き戸が開いた。先生かと思って全員が振り返ると、そこには微笑を湛えた美女…昨日の3年生が居た。
汐音はもちろん、今度は鶴伎までもあからさまに嫌な表情をした。どうして毎度楽しい時間の時に現れるのだろうかと、嫌悪よりも怒りが煮えたぎってきたところである。
麗雅は汐音も久遠も無視して三人の間に割って入ると、鶴伎の手を握ってはわざとらしいが、鶴伎の身を案じた言葉を掛けた。
「鶴伎様…御身はご無事ですか?」
「無事じゃなかったらここに居ないでしょ…何の用?」
遠慮のない麗雅の様子に、汐音も久遠も嫌悪感を覚えた。汐音のは久遠なんかよりもずっと、計り知れないような嫌悪感だろう。
嫌悪感だけならまだいいが、殺意まで湧いて来そうな勢いである。汐音の嫉妬深さは、殿堂入りできそうな位なのだから。
久遠は汐音を案じ、顔を覗こうとした束の間。久遠が汐音の表情を覗くよりもはるかに速く、光の速さで汐音は3年生の少女の首襟を掴んでいた。
驚きに目を丸くした久遠だが、自分はぼうっとしていたのだろうかと目を擦った。そして、「汐音ちゃん?」と汐音の名を呼んだ。
「…何しに、来たの」
汐音はなるべく手を出さないように自制心を保ちつつ、喧嘩腰にならぬよう言葉を選びながら麗雅に問うた。麗雅はいきなり襟を掴まれ驚いた様子で汐音を見たが、やがて微笑が戻ってくると、汐音と向き直った。
麗雅の真紅の瞳と汐音の赤茶色の瞳がぶつかり、火花が散った。もちろん麗雅は汐音などライバル対象として見ていないので、火花を散らせているのは汐音だけであるが。
鶴伎は嫌な予感しかしなく、サンドイッチをしまうと、自分は関係ないと言わんばかりに布団にもぐった。そんな鶴伎を見て、久遠は「何してんだよ」と小声で鶴伎に問うた。
鶴伎は「この雰囲気やだ」とまた小声で久遠に返した。久遠はふざけんなと言わんばかりに布団を引っぺがし、鶴伎の頬をつまんで無理やり起こす。何とも言えず乱暴なやり方だが、鶴伎にはこれが効く。
やはり、痛みに耐えられなかった鶴伎は無音で起き上がった。
「愛しい方に会いに来るのに理由が必要ですか?」
「ここは高等部の校舎だよ、中等部の生徒は原則立ち入り禁止でしょ」
「私には自由な出入りを許可されています。何か問題でも?」
ああ言えばこういう、こう言えばああ言うな麗雅に汐音は思わず手を上げそうになったが、鶴伎の目線を感じ、思いとどまった。
だが、人を小馬鹿にしたような態度をとるこの3年生に一発殴ってやりたいと、汐音は拳を握りしめた。大して痛くはないが、暴力はよくない。
「…がっかりですわ、こんな方をお気に召していらっしゃるなんて…。私のほうが何百倍も何千倍も良い女じゃありませんか。鶴伎様。」
「……」
「え…!?」
信じられない麗雅の一言に、皆の視線が鶴伎に集まった。鶴伎は居心地が悪そうに眉を寄せると、麗雅、久遠、汐音の順に一人一人の顔を見遣った。
汐音が一番信じられない、と言ったような表情をしていた。久遠は汐音を応援しているだけあって、否定する気はないようである。
麗雅は尚も微笑みで、「この女の前で否定してくれるはず」と言うような表情をしていた。自尊心は折り紙つきの様で、どうやら自分が美少女だと確信しているようだ。
そんな微笑が鶴伎の癪に障り、わざと否定してやりたくなった鶴伎はいつもの微笑みを浮かべると、汐音を見つめた。汐音は頬を染めて、鶴伎を凝視していた。
「おじ様が言ってらしたわ、鶴伎様がそのつまんない女を気に入ってるって。…でも、勘違いですよね?」
「そうだな…」
「…つまんないって、何?貴女にそんなこと、言われる覚えないっ!」
「貴女は黙ってらして。」
汐音は自分を侮辱した麗雅に一言言いたがったが、それは本人によって止められてしまった。腑に落ちぬまま、また鶴伎を見つめる。
すると鶴伎が手で小さくベッドの上を叩き、おいでと合図した。何故呼ばれたのかは分からないが、指示されたままに鶴伎の隣に座った。
麗雅は怪訝そうにそれを見つめた。汐音も不思議に思って、鶴伎の顔を見た。鶴伎は愉快そうに、笑っていた。
「ふふ、汐音ちゃんがつまんないなら、俺はもっとつまんない人間かもね」
「え…?」
刹那、汐音は自身の体に浮遊感を感じた。だがすぐに温もりに包まれ、汐音は鶴伎の腕にすっぽりと嵌っていた。
すぐに汐音の顔は、見る見るうちに赤く染まって行った。麗雅の表情には笑顔が消え、見下すような麗雅の視線が汐音を襲う。
冷たく刺すような、氷柱の様な視線を受け、汐音は恐怖した。だが鶴伎の腕に抱かれて、恐怖は段々と薄れていくのであった。
「…何の真似ですか、鶴伎様?」
「俺は君と一緒になるくらいなら、汐音ちゃんと一緒になるよ」
「そんなことが、許されるとでも…」
「ちょっと、ねえ、3年生の女の子!昨日からずっと気になってたんだけどさ、何者なの?つーかさ、鶴が迷惑がってんの気づかないの?好きなのに?」
突如として口を挟んできた久遠に、皆が驚いた。正論をぶつけまくる久遠の姿は、正に鶴伎の親友であった。親友が困っている時は助け、共に馬鹿な事をやり、笑い、時に怒る。
汐音はそんな二人の友情が垣間見える様で、久遠を心からいい人だと感じた。鶴伎は何も言わないが、とてもほっとしたような表情をしていた。
「悪いんだけど、自分勝手な人に友達に付き合えとは言えないよ。家の事はオレ何にも知らないけど…付き合う子を選ぶ権利は、あると思うんだよね」
「っ……」
何も言えなくなってしまった麗雅は観念して、逃げるように保健室を後にした。久遠は張りつめていた空気を一気に崩すようにため息を吐くと、肩をぐるぐる回した。
「っあー、つっかれたー…そして腹減ったー」
「久遠って、本当正論しか言わないからやだよね」
「んだよぉ、そんなやな奴に救われたお前はもっとやな奴だよ!お前のやり方はやらしい!」
汐音はすでに鶴伎の腕から解放されていたが、離れたくなかったため、起き上がろうとしなかった。しばらくぼうっと二人のやり取りを見ているうちに、張りつめていた気が緩んだのか、凄まじい眠気が汐音を襲ってきたのだった。
うとうとしていると、携帯のバイブレーションが鳴り、汐音を少しだけ起こした。確認するとメルマガだったので、至極どうでも良い内容であり、汐音の眠気が増した。
うとうとしている内に、汐音は鶴伎の体温の高さにより気持ちが良くなって、眠りこけてしまった。
「…あれ、汐音ちゃん?寝てる?」
「ホントだ、寝てる」
眠った汐音の手から携帯が滑り落ち、鈍い音を立てて床に転がると、久遠がそれを拾い上げた。俗にいうガラケーと呼ばれる汐音の携帯は機種が古いのか、大分重かった。自分がスマートフォンに慣れてしまったせいかもしれないが…。
鶴伎は手を差し出し、汐音の携帯を寄越すように促した。言われるがままに鶴伎に携帯を渡すと、鶴伎はおもむろに携帯を開き、何かの作業を始めた。
「ちょ、何するつもりだよ」
「ん?勝手にアド交換。知ってた方が楽じゃない?」
「オレ、本人が起きたら聞くわ…」
久遠は鶴伎を軽蔑したような眼で見つめ、昼ご飯をまた食べ始めた。こんなにちょびちょびで食べていたら腹の足しにならないと愚痴を零しながら。
結局嫌な思いをして食欲のなくなってしまった鶴伎は、とりあえず汐音にメールすることにした。潰れてしまったサンドイッチを久遠に取られてもお構いなしである。
「なー、何ニヤニヤしてんだよ?変なサイトでも見っけたか?」
「別に、ニヤニヤしてないし。何て送ろうか考えてただけ」
「ふーん…。なんか……お前さ…なんだかんだ言って惚れてるよな?」
「は?」
一つ間が置かれてから、鶴伎の視線が久遠へと移った。とても怪訝そうな鶴伎の表情は、久遠を怯ませるに十分な威圧感のある表情であった。
「もーっ、怒んなよ怖えーから!」
「何が言いたいのかは大体分かるけど、勘違いも甚だしいんじゃない?」
「はいはい…分かったから。オレが間違ってましたから。その顔やめろよ」
久遠がそういうと鶴伎はため息を吐き、携帯に視線を戻した。宛先にある“藍沢 汐音”という文字が自然と浮かび上がってくるように見え、汐音の寝息が鮮明に耳に入ってきた。
俺が惚れてる?こんな地味で健気だけが取り柄の、とんでもなく一途な女の子に?冗談じゃない、そんなことあるはずがない。
俺が惚れる女の子なんて、この世に居るわけがない。
鶴伎は本文に「長谷寺鶴伎」と電話番号だけを書き、そのまま送信した。間もなくして汐音の携帯が音も立てずに、ライトを点滅させて着信があったことを知らせた。
久遠は弁当を早急に食べ終え、鶴伎の顔を見遣り、冗談交じりの声音で言った。
「お前ってまさか…ホモ!?」
「さぁ、どうだろうね。ま、もしそうだとしても久遠にだけは絶対惚れない」
「何だよそれ!つーか否定しろよ!」
「まあ、男となんかやるって考えると気持ち悪いよね」
そんなことを言っている内に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
あまりのうるささに驚いて目を覚ました汐音は飛び起きると、今がどのような状況か分からずに、鶴伎が真隣にいることに慌てた。
「えっ、あっ、!?」
「おはよう、汐音ちゃん。授業始まるから教室もどろっか」
「あ、ああ…はい」
鶴伎の手に引かれ、訳の分からないままそれぞれの教室に戻る三人。汐音はまだ、愛しい人のメールアドレスが携帯に届いていると言うことを知らないまま、ゴールデンウィーク前の一日を過ごしたのだった。




