偏差値8...許嫁
「鶴伎様…本当に、おじ様そっくりなのね」
妖艶な雰囲気を纏った少女は微笑を浮かべながら鶴伎に歩み寄って、鶴伎の手をそっと握った。
汐音の中の黒い感情がまたもや渦巻き始め、赤茶色の瞳が狂気に染まってゆく。鶴伎と交わした約束を忘れたわけではないが、自分の感情が制御できなくなりそうで、汐音は箸を握りしめた。
二度と、無事でいられる保証はない。人を傷つけて、自分勝手に生きる人間を学校は置いてくれない。今度こそ退学ものである。
「…父さんの知り合いの娘さんか何か?」
「そうです、私はおじ様に…貴方様のお父上に、貴方との結婚を許された存在ですわ」
「え…!?」
驚愕したのは鶴伎ではなく、汐音だった。どういうことだ、婚約者って。長谷寺先輩は何処かの貴族か御曹司か、と。
鶴伎はそっと溜め息を吐き、「俺はそんな話聞いてないんだけどね」と忌々しげに呟いた。そして如何にも鬱陶しそうに、握られた手を払った。
「聞いていなくとも、私の両親も既に承諾済みですわ。私の家の財産を共有するために、おじ様は貴方を売ったのよ。品行方正成績優秀、眉目秀麗な貴方の遺伝子を…ね」
「……」
(どうせはまた、俺の顔か。)
鶴伎はうんざりした。学校へ行かせてもらっている建前、親には迷惑かけまいと思っていい子面していた結果がこれか。一体何処まで自分を家に縛り付ければよいのだろうか、うちの両親は。
こんなつまらない女と一生つるまねばならないなんて、滅法ごめんだ。
大体この女、自分ではなくて父が好きなのではないだろうか。「おじ様」と呼ぶその口元は、心なしか愛しげに聞こえてくる。だからこそ、自分の顔と父の顔を対比したのだろう。
「俺の遺伝子が欲しいなら、精子でもなんでもあげるよ。それか、俺の父親の精子でもあげようか。」
「嫌です…そんな愛のない。鶴伎様私を何か、誤解していらっしゃいますわ。」
「…まあいいや、この話はまた後でね。鐘が鳴る」
言い終わるか言い終わらないかの内に、鶴伎が言ったとおりに昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。靄の様な感情を胸に抱いたまま、汐音はさっさと弁当をしまい、別れも告げずに教室へと帰ってしまった。
まあ無理もないかと久遠はため息を吐いた。好きな人に婚約者がいたなんて信じたくない気持ちが、久遠には分かる。自分が汐音の位置に立っていたら、予鈴が鳴るのを待たずに教室に戻っているだろう…それか、午後の授業をサボるかだ。
「鶴…オレも戻るわ」
「うん、ごめん」
鶴伎の表情を見る限り、決していい気分ではないようだった。それもそうだろうと、久遠は叫びたい気持ちを息に変えて大きくため息を吐く。
(ああああもおおおお、何なんだよ、何か言ってやれよ!!汐音ちゃん可哀そうだろ!!)
先ほどの汐音の辛辣な表情が目に浮かぶ。その表情を見るだけで、胸がチクリと痛んだ。
「鶴伎様…あの女の子は、鶴伎様の彼女?」
「もしそうだと言ったら、君は諦めてくれるの?」
「いいえ」
少女は絶えず微笑を浮かべたままであった。艶のある黒髪が風に吹かれ、真紅の瞳を翳らした。
鶴伎は何処か、何故かこの少女は汐音に似ていると思った。だけれど、汐音のような面白味はまったく感じられない。
そして、何故か何処か自分にも似ていると思った。感情を悟られぬようにする微笑や、体裁にこだわる態度など。そう、自分に似た汐音を見ているようで気持ちが悪い。
この奇妙な少女が自分の伴侶になるなど、考えただけで気持ちが悪い。
容姿は正直悪くないと思う。声も言葉使いも丁寧で、抜かりない。そういう所は、周りの男からすれば、喜んで飛びつく様な美点だろう。
けれど鶴伎は財産も容姿も言葉使いも、将来の伴侶にする判断材料としては使わないのだ。そんなつまらないものに飛びつくほど、自分は愚かではない、と。
容姿で判断する者を悪く言っているわけではないが、少なくとも鶴伎はそういうものには囚われないのだ、断固として。
「…名前聞いてもいいかな」
「勿論です、3年1組神宮 麗雅と申します…校舎は違いますが、以後お見知りおきを」
見知りたくもなかったが、とりあえず覚えておくことにした。
おそらく今夜は父親が久しぶりに帰ってくると思うので、問いただしてみるとしよう。
―
汐音は本日、生徒会執行部に行くような気分ではなかった。理由は定かだが、昼間の件に付け加えて女子の眼がとてもじゃないが怖かったからである。
あんな風に置いてきぼりにすればそれは鶴伎のファンはいい気分ではないだろうが、そんなに目くじら立てて怒らなくてもいいと思った。それに、鶴伎が自分に構ってくれているのであって、自分が付きまとっている(かもしれないが)訳ではない。
鶴伎のファンが居るのは、汐音としても決していい気はしないのに。
「しーおんっ執行部いこー?」
汐音が暗い気分のまま机に突っ伏していると、葩が迎えに来た。昏い表情の汐音を見るなり心配したのか、葩は周りの人に聞こえないように、声を小さくした。
「…どうかしたの?」
「んーん…」
「会長に何か変な事言われた?」
「んーんー…長谷寺せんぱいはモテモテだなぁーって…」
葩はフォローし難いと言った様子でピンクブラウンの髪を掻いた。そりゃあ、あのルックスとあの人当たりの良さ(表面)とあの頭脳では、モテない方がおかしい。
そんな学園のアイドルと言っても過言ではない男子生徒に好意を寄せてしまうなんて、汐音は何と可哀そうな少女か。地味な割に高みを目指していると言うか…いや、葩としてはとても好きな人種ではあるのだが。
葩は夢見る乙女的な人間を傍から見るのが好きと言う不思議な癖を持った人間である。うっとりした女の子の顔が何とも言えず可愛らしいのだとか、周りの人間には分からない事であるが。
「しょうがないよぉ…好きになった人が悪かったんだよ。ね、今日の汐音可愛いからさあ、頑張ればいけるかもしれないよ?」
「…うん…」
いや、そういうことではないのだけれど。と汐音は困惑した。婚約者なんて家の事情だろうし、軽々しく口にしてよいものなのかと考えさせられてしまう。
鶴伎が自分から汐音に言うまでは、この事は胸の奥底に秘めていた方が良いのだろうと思う。心の闇に。
さもなければ、あの少女をあの日の様に傷つけてしまいそうだから。
「行こっか。」
汐音は無理やりに笑顔を作ると、そのぎこちない笑顔のまま生徒会執行部室へ向かった。
当然の如く、部室にはまだ鶴伎の姿はなかった。
―
汐音がまだ机に突っ伏して居た頃、参考書をロッカーに置こうと昇降口まで下りてきた鶴伎は、クラスメイトでもない見知らぬ女生徒から一通の手紙をもらった。
差出人は見なくとも大体想像はできたので、参考書を置いてから中身を確認することにしたのだが、やはり差出人は鶴伎の思った通りであった。
封筒の裏には少女の名前―神宮 麗雅が書いてあった。
そして今、斧原に断りを入れてから手紙に書いてあった通りの場所に訪れている。昼間の場所にて、と書かれていたので、おそらくはここ裏庭だろう。
携帯をいじってベンチに座っていると、間もなく麗雅が現れた。
「来てくださいましたのね…嬉しい」
「来いって言われたからね」
中等部からこの裏庭に来るには許可もらったりなんたりとかなり遠回りしなくてはならないのだが、どういった経路でここに来たのかはいつでも不明である。まあそんなことは鶴伎にはどうでもよいことなのだが。
「また後でねと仰ったでしょう?その続きを聞きに来たのです」
「ああ…俺ね、今実験中なんだよね」
「実験……?」
そう、と鶴伎は微笑を浮かべた。そしていつまでも真っ直ぐな、愚かしくも面白味のある汐音の顔を思い浮かべた。
その汐音は惚けた、ぼんやりとした表情をしていた。
「昼間に銀髪の女の子いたでしょ?…あの子、俺の事大好きらしいんだよね。このご時世、好きだ好きだ言っても結局は…」
「…結局は?」
「顔が好みなだけだったり、金目当てだったりするよね。汐音ちゃんもそうなんじゃないかって思って、告白されたけどまだOKしてないんだよ。」
麗雅は珍しく表情に変化を見せ、腑に落ちない顔をした。小さく首を傾げ、真紅の目を光らせる。
一瞬、鴉を想像させられた。夕方の赤い空に浮かぶ黒い影が目に入り、それから間もなくして「カァカァ」という鳴き声が聞こえてきた。
「それが実験だと?不思議な方ですね」
「いや、いつまでその想いが持つのかって言う実験かな」
「なるほど、女を持て余している方のお暇なお遊びですわね」
くすくすと上品に笑う麗雅の表情は、元の微笑みに戻っていた。先ほどの言に対して、何か気に障ったところがあったのだろう…おそらくは。
今日急に知り合ったこの上品で妖艶な二個年下の少女に“婚約者”と告げられてもいまいち実感の湧かない鶴伎であったが、改めて今目の前にいる少女を見てみると、麗雅を伴侶に迎えても良いかと考える自分がいた。
顔や体が十二分に申し分ないのだ。一生連れ添うならばやはり顔や体は大変重要となってくる。高校生で生涯の伴侶を決めるなど、早すぎるとは思うのだが。
「けれどこの婚約は解消できませんよ…貴方のお父上に直接言って交渉してもらっても結構ですけれど、莫大な資産をシェアすることになるのですから。そう簡単には動かないはずです」
「君が直接言えば違うんじゃないの?」
鶴伎は厭らしげに麗雅に言った。麗雅は微かに頬を染めるが、すぐに微笑んで否定した。
「私は何も言うつもりはないです」
「そう…父さんの遺伝子を持った、俺の遺伝子が欲しいんだもんね?」
昼間も言われた多少なりとも下品な言い方に、麗雅は眉を顰めた。
ふっと鼻で笑うと、鶴伎の綺麗な顔を見遣った。
「否定はしませんが」
一呼吸置き、胸に手を当てる。
「昼間も言った通り、私は愛のない結婚は望みません。貴方様のことが好きだと言う事実を偽るつもりもありません。」
「奇遇だね、俺も同感」
鶴伎はおどけたように笑って見せた。愛を欲していると言う所では、麗雅と鶴伎は同じようである。
「愛するのは簡単だけど…でも、愛されるのは難しい。…神宮さんと俺は、ちょっと似てるね」
「愛し合ってみませんか?その似た者同士で」
真紅の瞳が漆黒の、深い闇の様な瞳を捉える。二人はしばらく見つめあっていた。赤と黒が混じりあい、深く暗い色を作るまで。
それから麗雅は自身の首に着けていたリボンを外し、ベンチの上に置いた。仮にもまだ中学生だと言うのに、麗雅は年より2つも3つも大人びて見えた。
愛し合う手っ取り早い方法を、上品で妖艶な彼女は知っている。そして鶴伎も知っていた。
鶴伎の喉から、クスリと笑い声が聞こえた。
「まさか、本気?」
「貴方次第です。将来の嫁を先に味見してみてはいかが?」
愛のない、愛を欲する者同士の行為。それが虚しい行為だと、麗雅は知っている。
この綺麗な顔をした醜い獣の父親は、更に美しい獰猛な、やはり獣であった。激しく自分を求めてくるのに、心は求めてくれない。
その人が愛しければ愛しいほど抱かれたいと切に願うのに、抱かれた後の虚しさはどうしてもぬぐえない。とても悪循環に囚われながら、14歳の少女は仮面をかぶって生きている。
鶴伎は自身の下卑た父親を思い浮かべ、苦笑を浮かべた。彼女は父親似の自分に抱かれることを願っている。自分を父親と照らし合わせて見ている。鶴伎は鶴伎であるはずなのに。
「父さんは神宮さんの事…何て呼ぶの?」
第三ボタンに手を掛けた麗雅の動きが止まった。動揺しているのか、目が泳いでいる。
まさかこんなことを聞かれると思ってなかった訳でもあるまい。
「…レイ…麗と、呼んでます」
「そう。じゃあ…麗?」
声のトーンを低くして、麗雅の名を呼んだ。すると見る見るうちに麗雅の頬が赤く染まり、そしていつの間にか鶴伎の上に麗雅が跨っていた。
(早っ。)
「…ふうん、そういう風にしてくれるんだ」
「っ…」
服をはだけさせられても、鶴伎はされるがままにしておいた。麗雅は鶴伎ではなく、完全に鶴伎の父親を見ていた。
最早汐音の気持ちも何も考えないことにした。雑念を浮かべていると、好きでもなんでもない女を抱く時に起たなくなってしまう。
けれど何故か絶望を表情に浮かべた汐音が脳裏に過って、胸が一瞬だけチクリと痛んだ鶴伎であった。




