第2話 私、実家に帰りますので
ここ、アドラーデ帝国は東西南北無数の諸侯たちが集まり、皇帝のもと、ゆるやかに統合されている。
皇帝は多忙だが、諸侯たちのあいだで起きた問題に対する裁定は、最も重要な仕事のひとつに数えられる。
諸侯の争いごとに関しては、多くの法律も定められている。
最悪、領地が取り潰される可能性もあるので、諸侯のあいだで問題が起きれば近隣の諸侯同士で話し合う。
それでもうまくいかなければ皇帝に訴え、裁判が行われる。
皇帝の裁定に逆らってはいけない。
しかし。
(ディートハルト様はきっと……)
どっと疲労が襲ってきて、グレーテは鼻の根元を揉んだ。
近隣の諸侯と話し合っても、隣の領から小麦を盗んだ事実は変わらない。自分が悪者にされると思ったのだろう。——いや、まごうことなき悪者であるが。そもそも盗みなど働かなければよかったのだが。
その上で不服を申し立てて皇帝に訴えたところで、「小麦どろぼう」というレッテルを貼られて行動を監視されるハメになるに決まっている。悪くて爵位を取りあげられ、家を取り潰される。
いや、そもそも、本当に、小麦など盗まなければよかったのだが。
(だから、短絡的な行動はつつしんでくださいとあれほど!)
もし凶作に陥って税収が減った場合、皇帝に依頼すれば、政府から支援金をある程度貸してもらえる。また、少し足を伸ばして港町に赴けば、大商人が経営する銀行からお金を借りることもできるのだ。
だが、ディートハルトはケチなので、金を借りるのはまだしも、利息をつけて返すのが嫌だったのだろう。
そこで山賊と偽って隣の領の小麦を盗ませ、売った。
でも時間が経つにつれて立場が悪くなり、自分が損害をこうむることを恐れたディートハルトは、妻も知らないうちに急いで首都に向かったに違いない。
無駄に高いコミュニケーション能力で、「隣の領が何か言ってもオレ関係ないんで」「オレ、小麦なんか盗んでないんで」と皇帝の側近たちを丸め込み、皇帝に近づいたのだろう。
(ご高齢の皇帝陛下にないことないこと吹き込み、そのかわりに独身を偽って皇女様を頂いた、ということでしょうか……)
皇帝はもう七十代も後半。かつての名君の面影は薄くなり、最近はぼんやりすることが多くなったという。
グレーテの菫色の瞳が曇る。
(私も悪いのかもしれない……)
菫色の瞳に焦茶の髪、中肉中背のグレーテはあの皇女ほど美しくはないし、高貴ではない。最近は生活臭がにじみでて、ディートハルトと結婚した頃より美容をおざなりにしていたかもしれない。
(思えば……)
ディートハルトは昔から姑息な手を使いたおす人だった。
(結婚詐欺常習者なのですよね……)
父親同士が先帝の側近で仲が良く、幼馴染といって差し支えなかったグレーテとディートハルトだが。
ディートハルトは幼いうちから父親にくっついて諸侯の折衝を行うことが多かった。
その際、まばゆい金色の髪と湖の底を思わす青の瞳を持つ端整な顔立ちのディートハルトは、有力者の娘に近づいて口説き落とし、情報を集めることが多かった。
結婚を約束した女性も多く、グレーテが知る限りでは十本の指に余る。
グレーテ自身が結婚を申し込まれたときも、「詐欺ですよね?」と、本人にも、ディートハルトの両親にも、近隣の諸侯たちにも、皇帝にさえ確認したほどだ。
「……あー……なんでしょう、ディートハルト様は……」
思わず大きなため息がこぼれ出る。
執務室前の廊下から去り、階段を降りていると、声をかけられた。
「奥方様」
穏やかで低い声が響いたのでそちらに目を向けると、ディートハルトの家臣であるアーベルが困った表情をしている。誠実を絵に描いたような男だ。ディートハルトと似たり寄ったりの歳で、彼の側近である。
「アーベル、旦那様には婚約者が出来たそうですね」
アーベルは目をそらしながら引きつった笑みを浮かべる。
「あの、奥方様——」
「わかります、きっと皇帝陛下のご側近を丸め込んで、皇帝陛下をも騙して姫君を手に入れたんでしょう?」
グレーテの言葉に、アーベルはうつむいた。
次の瞬間、ぷすっと頭から煙が出る。
(こ、壊れた!)
「ははは、ある意味恐るべき手腕でございます。すべてマイナスの材料しかない中でこの成果。いやあ! さすが幼少期から先代様にくっついて諸侯の折衝をされていただけあります!!」
彼は爽やかに笑ってこぶしを突きあげた。しかしその目は死んでいる。
「……そうですね」
グレーテは頭を抱えることしかできない。何故そのスーパーコミュニケーション術を隣の領地に対する弁明に生かしてくれないのだろう。
アーベルは爽やかな笑みを浮かべたままさらに喋りつづけた。その死んでいる目はグルグルしている。
「旦那様の首都行きへついて行きましたが、私がお止めするのもかまわず、高級宿を借りて皇帝陛下のご側近を美食でおもてなしし、金品を贈り」
「ワイロでは?」
「とりあえず金品ということにさせてください。皇帝陛下へ謁見できるよう約束を取り付けたあと、隣の領から『小麦を盗まれたと不当な疑いをかけられている』と涙ながらに訴えられました」
面の皮が厚すぎる。領内では、隣の領地から動かぬ証拠を突きつけられて二の句が継げない状態だというのに。
「ですが、さすが皇帝陛下といいますか。『その話がまことであれば余の末娘を妻にせよ』と旦那様にお命じになられて。姫君自身は純粋で素直な方ですが、大勢の家臣を連れて来られました。監視役でしょうね」
大変爽やかな笑みのままだが、アーベルの目はどんどんと虚無の色が濃くなっている。
「……ディートハルト様って何でこう」
「以前にもございましたよね……」
アーベルが顔を覆って地獄の底からのうめきめいた声をあげる。彼の胃がキリキリ言っているのが聞こえる。
「ありましたね……」
グレーテは遠い目をした。
今から三年前のこと。結婚して二年ほど経ったころのことだ。
さすがに本当に結婚したならディートハルトは結婚詐欺を働かないと思っていたのだが、違った。
ディートハルトは自分の領地の隣にある小さな子爵領に目をつけた。その領は鉱石が採れる。
鉱石が欲しくなったディートハルトは、子爵には娘ひとりしかいないことに目をつけ、子爵令嬢を口説き落とした。
そして子爵令嬢と結婚式まで開く。しかし、ディートハルトは結婚式で子爵に「自分に子爵領をゆずる」と一筆書かせたあと、家臣たちを率いて子爵夫妻と子爵令嬢、子爵の家臣たちを叩き出し、城を占領して自分のものにしてしまった。
皇帝から問いただされたが、持ち前のハイパーコミュニケーション術でことなきを得た。
そのあいだのグレーテは夫の所業に唖然とするばかり。
ちょうどディートハルトの父が病に倒れていたのだが、グレーテの看病むなしく、息子の極悪な所業を聞いた衝撃であの世へ旅立ってしまったほどだ。
そのことを思い出す。
頭痛がする。あのときのように気を揉んでおろおろするのはもう嫌だ。
そもそも結婚しているのに何故夫は婚約者を作るのか。自分の右手の薬指に指輪がはまっているだろうに。
(あ、そういえばディートハルト様は結婚指輪をしたことがない)
今までさほど気にしていなかったが、裏切られてみると無性に腹が立つ。
三年前の子爵令嬢の件も、いまの皇女の件も。
本当の妻であるグレーテの気持ちや立場を考えて行動はしてくれない。自分本位だ、常に。
(いや、彼にとって私はそもそも「本当の妻」だったのでしょうか……?)
グレーテはディートハルトにとって親同士の決めたナニカに過ぎないのだろう。彼の心の中では、妻ですらないに違いない。
そう気づくと、ため息と共に心底思っていたことが口からこぼれ出た。
「……はあ、疲れました」
「奥方様!?」
「私、実家に帰りますので」
グレーテは、あっさりとアーベルにそう告げた。




