第12話 うちの坊ちゃまの気性は純粋
晩餐の席へと向かう道すがら、グレーテの胃は悲鳴をあげていた。
ヴァールストレーム公爵と晩餐を共にするというだけでさまざまな予想が脳裏をよぎる。
小麦を村二つ分奪ったハルトマン侯爵について、ヴァールストレーム公爵家は忌々しく思っているだろう。その縁者に手心を加えたり、見過ごしたりするということは予想しにくい。
若き公爵の怒りはハルトマン侯爵夫人であったグレーテに向かうに違いない。
ここはただただひたすら申し開きをするよりほかない。
(いや、言い訳したら……)
即座に叩き斬られる可能性もないではない。
ヴァールストレーム公爵は代替わりし、冷酷無慈悲と恐れられたヴィルヘルムは隠居しているという。だが、新しく公爵になったのはそのヴィルヘルムの息子である。
(親子でそっくりだったらどうしましょう!)
エルヴィンから性格をくわしく伝え聞いていないので推測しかできないが、一般的に親子の性格は似るのではなかろうか。
父のヴィルヘルムと同じく、新しいヴァールストレーム公爵も苛烈な人柄であったら。
そう思うと、食堂に入ろうとしたグレーテは膝が震えた。
「最悪だ……」
兄のいつもの口癖が口をついて出てしまった。
後ろから兄の妻のマリーがやって来て、「グレーテ姉様?」と声をかけてくる。
「何を立ち止まっておられるのですか? 一緒に入りましょう」
まだまだ少女のマリーの華奢な手が、グレーテの背中を押した。
客人を迎えるために食堂はいつもより整えられていた。
長いテーブルの上には銀盆に載せられた大きな牛の肉が置いてある。炙り焼きにしてあり、こってりと脂が肉からとろとろと流れていて、香ばしい香りがする。
その隣にはチーズが切られて置いてある。青黴をあえて生やしているため、牛乳のまろやかな香りとまざって黴臭い匂いがする。
毒殺防止のために全て銀器で整えられており、部屋の灯りを反射してきらりきらりと輝いていた。
アールデルスの名産で揃えられた晩餐を前にしつつ、グレーテは主賓たるヴァールストレーム公爵を待った。
(ど、どうしましょう……)
グレーテは目を左右に急いで動かし、冷や汗をかきはじめた。マリーが戸惑った目で見てくる。
この豪華な晩餐会の会場が自分の血で朱に染まるのは困る。妹が殺されたとなればアールデルス伯爵家の当主として、エルヴィンも黙ってはいられないのではあるまいか。
(に、逃げま……す? ちょっとお腹痛いです……とか?)
腹に手を滑らせ、わざと苦悶の表情を浮かべようとした、その時。
潮騒のような人のざわめき声が聞こえた。いくつかの足音が近づいて来て、扉の閉まる音がした。少しだけ部屋の空気の温度が上がった気がする。
顔を上げれば兄のエルヴィンに迎えられて主賓が入って来ている。
グレーテは主賓として迎えられた新ヴァールストレーム公爵を見て、寝耳に水のような心地になった。
青年公爵は癖のある濡れたように黒い髪を持ち、緑の瞳をしていて、優雅で繊細そうな美しい顔つきをしている。漂う雰囲気は謹厳そうだ。その彼に付き従うのは、壮年の男だった。栗色の髪をしている、比較的がっしりとした体格の人物だ。
先ほど「お花畑」の崖の上で尻餅をついていた青年とその苦労人の従者ではないか。
ヴァールストレーム公爵は尻餅をついた際に着ていた小洒落た衣装とはうってかわって大変地味な服装をしている。ともすれば晩餐にふさわしくないのではと思うほどだが、よく見れば着こなしが洗練されている。
父親である隠居したヴィルヘルムが冷酷無慈悲ではあるものの文化人であることから、美的感覚も受け継いだのかもしれない。
(ということは……冷酷無慈悲な性格も……)
受け継いでしまっていないだろうか、とグレーテの胃は悲鳴を上げた。
席へとエルヴィン自ら案内されたヴァールストレーム公爵は、ほのかな微笑を浮かべて感謝の意を込めた会釈をした。
目を伏せた時の睫毛が整っていて長く、グレーテは息を呑んだ。
(……お綺麗なお方ですね……)
エルヴィンが公爵の歳について二十前後と言っていたが、見たところでもグレーテより五歳くらい年下に見える。大変若い。
あのくらいの時期が一番人生が楽しい時期だと、グレーテは感じる。
(私も五年前くらいは人生楽しく——)
五年前はディートハルトと結婚したばかりの時期だったはず。
新婚旅行に行こうとディートハルトが言うので、海の美しい南部の保養地へと旅をした。
ところが、珍事もあったものだ。ディートハルトが結婚詐欺を働いた女と同宿になってしまった。女は彼を見るなり、ハサミなどの刃物を投げつけてきた。捕えられた女に謝罪の品を贈りつつ、命からがら逃げて来た。
(……た、楽しくなかった……な……!?)
グレーテは眩暈がした。どんな海だったかさえも思い出せない。
自分は今までの人生を全てディートハルトの尻拭いに捧げていたのだ、と改めて気付かされる。
そして今度は目の前の美しい青年に責められるのかと思うと、人生が哀しくなってきた。
着席の合図があったので席に座る。
食前酒が杯に注がれている最中、若く美貌の公爵がグレーテを見据えてくるのを感じた。
(何……でしょう? ……ああ、……ですよね……)
元ハルトマン侯爵夫人が同席していることが不愉快なのだと悟る。
その証拠に、描かれたような眉が歪んで胡乱そうな表情を浮かべていた。完全に業を煮やしているのだろう。
居たたまれない気持ちで少し目を伏せかけた。
と同時に、青年公爵の唇が開いた。
「あの——」
「も、申し訳ございません!」
反射的にグレーテはテーブルに勢いよく額をこすりつけた。周囲は唖然とした顔をする。公爵が一番呆気に取られていた。
「私の元夫が、ハルトマン侯爵がとんでもないことを致しまして!! 公爵殿下!! 謝罪しても、し足りるものではなく——」
感情が昂り、涙目になりながらグレーテは早口で謝罪の言葉を紡ぐ。
公爵は「彼女はハルトマン侯爵の縁者なのか」という意味で一旦エルヴィンを見た。エルヴィンが小さく首肯すると、グレーテに確認する。
「貴女はハルトマン侯爵の奥方だった方なのか?」
当惑混じりの口調に、グレーテは「しまった」と思った。
(公爵殿下は私のことを存じ上げなかった! 黙ってればよかったんですよ! 私の自意識過剰女!!)
穴があったら入りたい。もしそこが地下水路に繋がっていたら、その水路を伝って逃げたい。
ヴァールストレーム公爵は眉をぴくりと寄せた。
「そうでしたか……」
空気が冷たくなる。彼の翡翠を思わす緑の瞳は激怒と怜悧さを宿している。
「謝罪して頂けるのですか、元ハルトマン侯爵夫人。元夫の愚行を謝罪する礼儀正しいお方であるようですね……」
皮肉であることは理解できた。
殺気が晩餐の席に漂う。
グレーテは申し開きをするためにさらに墓穴を掘った。
「ええ。元夫のしたことは、ハルトマン侯爵家の長きにわたる歴史における汚点となるで……」
どん、とテーブルが叩かれる音が響いた。
見れば、公爵がテーブルを叩いていた。
「……どれだけのヴァールストレーム公爵領の民が苦労したと思っているんだ……? 貴女は夫の性格を知悉していただろうに! さっさと夫を縛って塔にでも幽閉してしまえば良かっただろうが!」
「あー、坊っちゃま」
公爵の隣にいる壮年の男が軽く主人の腕を引いた。
「なんだ!? テオバルト!」
彼に向かって怒れる青年は振り向き、顔を顰めた。
テオバルトと呼ばれた従者はグレーテへ向かって微笑む。
「すみません。うちの坊ちゃまの気性は純粋でしょう? ハルトマン侯爵と真逆で」
「何を言う!」
公爵は顔を紅潮させて激昂したが、テオバルトに「晩餐中ですよ」と囁かれて席についた。
グレーテは「え、あ、ですよね……」と頭を抱える。怒りが深い。
父は冷酷無慈悲だが、息子は真っ直ぐな正義漢。どちらもグレーテへの怒りを解いてくれなさそうだ。
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