雨の日
雨の日が好きになったのはいつからだろう。
ポツポツと降り始めた雨粒を見上げて、ふとそんな事を考えた。
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あっという間に早まる雨足に慌てて近くの建物の入り口へ避難する。あと5分ほど歩けば自宅だ。このまま走ろうか思案していた。
「災難ですね」
隣に駆け込んできた人物に声をかけられた。
突然のことに「えぇ…」と同意とも否定とも言えない返答をする。
「傘お持ちですか?」
気にせず声をかけてくる相手の顔をまじまじと見つめる。身長は私より20センチは高いだろうか。顔を見ようと思うと自然と顔が上を向く。
ふいに目が合い、思わず逸らしてしまった。
「僕すぐそこなので、良かったら使ってください」
折り畳み傘を差し出され、「いや…」と否定する間もなく半ば押し付けられる形で受け取ってしまう。
ハッとして相手を見ると、雨の中カバンを頭に当てながら駆け出していた。
その日から常に折り畳み傘を持ち歩いたが、彼に出会える事はなく半年の月日が流れた。梅雨の時期を越えて、気づけばイルミネーションが煌びやかな季節を迎えている。
週末は雪予報が一転、季節外れの暖かさを迎え、日差しの眩しい朝だった。買い出しを終えてお店を出たところで、突然雨が降り出す。
ふとカバンを見ると、いつもの癖で入れていたあの折り畳み傘が目に入る。
(あの日もこんな雨の降り出し方だったな…)
そんな事を考えながらカバンから視線をあげると、お店の前には突然の雨に空を見上げる人達が集まっていた。淡い期待が胸をくすぐる。
(また出会えないかな)
そんなドラマみたいな出来事が、現実に起こり得ない事は生きてきた経験の中で理解している。
周りには雨が止むのを待つ人、諦めて雨の中駆け出す人、お店の中に戻り傘を買いに行く人など様々だった。もう一度カバンの中の折り畳み傘に視線を移す。
隣に人の立つ気配を感じて、また視線を上げる。雨足は変わる事はなく、各々が次の行動を決めたようで周りの人もまばらになっていた。折り畳み傘を見つめたまま数分経過していたことに気づき、なんとも言えない気恥ずかしさを感じる。
「急な雨なんて、災難ね」
隣に立った老婦人が話しかけてくる。
「そうですね」
ふいの出来事でも、今度はしっかり返答が出来たと内心安堵する。
「止むかしら」
婦人が手にしている荷物に視線を落とす。近くにある美味しいと噂の洋菓子店のロゴが目に入った。雨が降る前に買ったのか、雨よけカバーはなく紙袋が剥き出しだ。婦人はそわそわしながら空を見上げている。
「傘お持ちですか?」
「え?」
「私すぐそこなので、良かったら使ってください」
言い終わると同時に、手にした折り畳み傘を手渡し、雨の中を駆け出していた。
本当は歩いても相当な距離だし、そもそも人から借りていた傘だし、何をしているんだろうと考えながら、自然と口角が上がっていた。
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「ただいま」
「ばあちゃん!雨大丈夫だった?」
「親切な子がね、傘を貸してくれたの」
孫の帰国祝いだからと、近所でも有名な洋菓子店にケーキを買いに行くと言うので「ついていくよ」と言ったが、「予約してあるから受け取るだけよ」と祖母が出かけた数分後に雨が降り出した。慎重な祖母のことだから折り畳み傘は持ち歩いているだろうと過信していたが、半年前に一時帰国した際に祖母の折り畳み傘をあの子に手渡した事を思い出し、慌てて迎えに行こうと玄関に出たところで祖母と遭遇した。
「私の持ってた傘とよく似てるわ」
ベージュ色にシンプルなワンポイントの傘。どこにでもある見た目だが、元々は祖母の誕生日に自分が送った物だった。ワンポイントは祖母のイニシャルになっている。
(もしかして…)
半年前、出発前日の出来事を思い出す。あの時は帰国の手筈を整える為の調整で、一時帰国をしていた時。久しぶりの地元の空気を満喫していたところで突然雨が降り出した。
屋根のある建物に避難し、「にわか雨があるかも」と祖母に持たされた傘を取り出そうとした時、先客である隣の女性に視線を向けた。
(嘘だろ…)
そこには中学生時代、淡い恋心を抱いていた同級生の姿があった。彼女は中学最初に転校生として来て、卒業間際で引っ越してしまい、卒業アルバムにも載らず同級生の中でも存在を覚えているのはごく僅かだ。またこっちに戻ってきたのだろうか。10年近く経っているが、目元のほくろと少しクセのある髪の毛は当時のままで、ずっと見ていた横顔だ。
「久しぶり」と喉元まで出かかったが、気づけば「災難ですね」と他人行儀な言葉が口をついて出ていた。相手の様子を見る限り、気づいた様子は無かったので、話しかけた理由づけの為に半ば無理矢理傘を押し付けてその場を離れてしまった。
帰国までの半年、まだ彼女があの地にいるだろうか、そもそも住んでいるのかたまたま訪れていたのか、何も知る術がなかった。運良くまた出会える事があるだろうかと期待と不安を抱えて帰国した。
「どうしたの?」
傘を見つめたまま固まる孫を、祖母は訝しく見つめる。慌てて「なんでもない」「親切な人に会えて良かったね」と畳み掛けるように返した。
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「雨だね」
「うん」
「これじゃ部活行けないね」
「うん、でもこうやって青野と話せるの楽しいよ」
「え…?」
中学時代の淡い初恋。青野と赤澤。苗字で席が近い、ただそれだけのきっかけで話すようになった。
家に帰っても居場所のない私は、放課後いつも教室に残って勉強するふりをしながら窓の外の彼を見ていた。普段陸上部の彼は、雨の日は自主練になるからとよく教室にいた。
他愛のない話をして、時々勉強をする。雨の日はそれが日課になっていた。
雨の日は、あの当時の私にとって特別だった。




