妹の身代わりで「死神」に嫁がされた私、捨てた家族が没落しても帰りません
本作は、全六章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 捨てられた令嬢
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婚約の話が来たのは、秋の終わりのことだった。
相手は"死神辺境伯"ヴァルター・クレスト。
北の果ての領地を守る武人で、かつて魔獣の呪いを受けてから変わり果て、今では近づく者すら怯えさせるという。
婚約した女性が三人立て続けに逃げ出し、それ以来、誰も嫁に行こうとしない。死神、人食い、呪われた男——噂には事欠かなかった。
その噂を聞いたとき、アリシアはもう、わかっていた。
自分が行かされると。
「エミリア、家のために行ってくれるか……」
父ルイが言った言葉は、まず妹に向けられた。
食堂に集められた家族の前で、エミリアはすぐに泣き出した。
「いやっ、いやよ、お父様! あんな怖い人のところへなんて……っ!」
「そうだな。父さんも、エミリアを死神に嫁がせるなんてしたくはない」
白磁のような肌に涙が伝う。まつ毛が濡れて輝く。
エミリアが泣くと、部屋全体が止まる。母は「かわいそうに」と声を上げ、父でさえ顔をしかめる。
アリシアは静かに座って、それを見ていた。
また始まった、とだけ思った。
この家ではずっとそうだった。エミリアが泣けば何でも通る。エミリアが嫌だと言えば、誰かが代わりをやる。その誰かは、いつもアリシアだった。エミリアの分の縫い物も、エミリアが面倒くさがる挨拶状も、エミリアが行きたくない茶会の欠席理由を考えるのも、全部。
アリシアが学んだのは魔法でも礼儀でもなく、透明になる術だった。
主張しない。泣かない。怒らない。感情を持たないふりをすれば、叱られることもなかった。代わりに、存在していることも忘れられた。
父はため息をついてアリシアに向き直った。
「おい、お前が行け」
「……」
「エミリアには無理だ。お前が行って、家を守れ」
アリシアは口を開こうとした。
私も嫌です、と言いたかった。なぜ私が、と問いたかった。
「お前が、居なくても変わらない」
そんなことを言われても、声が出なかった。
子供のころからそうだった。どうせ何を言っても聞いてもらえないと知ってしまってから、アリシアの声はうまく出なくなっていた。それが欠点だとわかっていた。でも直し方がわからなかった。
「……わかりました」
しぼり出すように言うと、父は安堵したように「そうか」と呟いた。
エミリアは涙を拭きながら「ありがとう、お姉さま」と言った。
ありがとう、という言葉が、こんなに空虚に聞こえたことはなかった。
その夜、母に呼ばれた。
てっきり何かを言ってくれると思った。せめて、ご苦労様だとか、ありがとうだとか。
母は言った。
「向こうで粗相のないよう、身だしなみだけはきちんとしなさい。クレスト家の恥になると、こちらにも迷惑だから」
それだけだった。
アリシアは「はい」と言って部屋に戻った。
出発の前夜、荷物を部屋にまとめながら、アリシアは祖母の形見の指輪を手に取った。
銀色の細い指輪に、青い石がひとつ。
祖母が「大事にしなさい」と言って渡してくれた、唯一のものだった。
いつだったか、この指輪をはめていると怪我が早く治る気がする、と思ったことがあった。気のせいだろうと思って誰にも言わなかった。こんな家族に「魔法が使えるかもしれない」などと言っても、笑われるだけだとわかっていたから。
父が廊下を通りながら、開いたままの扉の前で言った。
「辺境から帰ってくるな。向こうで上手くやれ」
振り返ることもなく、そのまま歩いていった。
翌朝、出発のために玄関に立つと、エミリアは部屋から出てこなかった。
母は「道中気をつけなさい」と言い、すぐに視線をそらした。
見送りは、それだけだった。
荷物を積んだ馬車の扉を、使用人が無言で閉めた。
窓から屋敷を振り返った。
誰もいなかった。
(帰らなくていい、と言われた。帰らなくていいなら——もう振り返らなくていい)
アリシアは指輪を握りしめた。
泣かなかった。泣く気力も残っていなかった。
(——大丈夫。私はずっと、いなかったも同然だったんだから)
自分にそう言い聞かせて、目を閉じた。
馬車が動き出した。夜が長かった。
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第二章 死神の城
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辺境クレスト領は、想像以上に美しかった。
石造りの城壁の向こうに広がる平原。
遠く白く雪をかぶった山脈。
空気が冷たく透き通っていて、アリシアは馬車の窓から外を眺め続けた。逃げる先もない場所なのに、不思議と息がしやすかった。
城に着くと、ヴァルター・クレストが直々に出迎えた。
背が高い。肩幅が広い。顔には古い傷跡が頬から顎にかけて走っている。目が、暗い。
アリシアは思わず一歩下がった。
でも逃げなかった。逃げる場所がないことは、最初からわかっていたから。
「……フォンテーヌ男爵家の、アリシアと申します。よろしくお願いいたします」
声が震えた。
ヴァルターはしばらく黙っていた。
「……本当に来るとは思わなかった」
低い声だった。
「三人逃げた。また、逃げられると思っていた」
「……逃げる場所が、なかったので」
正直に言ってしまってから、しまったと思った。
でもヴァルターは表情を変えないまま「そうか」と言い、先を歩き始めた。
城の使用人たちは皆、礼儀正しかった。
貴族の屋敷で「いないもの」として扱われてきたアリシアにとって、それだけで十分すぎるほどだった。
食事の時間に席が用意されていた。それだけで、目に水がにじんだ。情けないとは思った。でも、こんなことで泣きそうになる自分が、ひどく遠い場所から来たんだと気づいた。
最初の一週間、アリシアはとにかく動いた。
使用人の仕事を手伝い、城の構造を把握し、食料の管理簿の誤りを見つけて直した。何かしていないと不安だった。黙って部屋にいると「役に立たない」と言われる気がした。もう言われる必要のない場所だとわかっていても、体が覚えていた。じっとしていると怖かった。
「奥様、そのようなことはしなくてよろしいのです」
老齢の侍女マーサが困り顔で言った。
「でも、いた方がよいのでは」
「……奥様は、お休みになったことがないのですか」
アリシアは答えに詰まった。
「はい……」
◆
それを遠くから見ていたらしいヴァルターが、その夜の夕食の場でぽつりと言った。
「アリシアは何かに追われているような顔をしているな」
「……そんなことは」
「アリシアが来てから、管理簿の誤りが全部直っていた。古い帳簿まで遡って」
アリシアは黙った。
「……なぜそんなことをした」
「役に立ちたかったので」
「誰のために」
「…………」
答えられなかった。
誰のため? 父のため? 実家のため?
違う。自分が「ここにいてもいい」と思いたかっただけだ。
ヴァルターは何も言わなかった。
でも翌朝、机の上に本が一冊置いてあった。この地方の歴史書だった。栞が一箇所に挟んであり、そこには「辺境伯領の行政について」という章があった。
誰かが意図して置いたに違いなかった。
——なぜ、こんなことをするのだろう。
アリシアにはわからなかった。
でも、胸の奥がじわりと温かくなった。
本を読み進めると、行政の章の少し前に「辺境大侵攻」という記録があった。
三年前。魔獣の大群が北から一気に南下し、クレスト領の城壁が今にも崩れようとしていた夜のことが書かれていた。
兵士たちは士気を失い、多くが後退した。城壁の前に残ったのは、たった一人だった。
夜が明けるまで戦い続け、倒した魔獣の数は二百を超えた。夜明けに生きて戻ってきたとき、兵士たちは言葉を失ったという。人がそれをできるとは、誰も思っていなかったから。
やがて誰かが呟いた。
「死神が守ってくれた」
それがいつしか"死神辺境伯"という呼び名になった。
アリシアは本を閉じた。
呪い傷は——その夜に受けたものだ。
領地を守るために戦って、その代わりに、死に向かうような呪いを引き受けた。
三人の女性が逃げたのは、その呼び名だけを聞いたからなのだ、とわかった。名前の由来を知らなかったから。知ろうとしなかったから。
(死神、ではなかった。最後まで立っていた人だったのか)
なぜか、この人のことがそれ以前より怖くなくなっていた。
◆
それから十日が過ぎた頃、城の中で騒ぎが起きた。
魔獣の討伐から帰ってきた兵士が三人、高熱と傷の腫れで倒れたのだ。
城の医師が首を振った。
「魔獣毒です。手の施しようが……」
アリシアは、気づいたら動いていた。
「少し、触れてみてもいいですか」
誰もが振り返った。
指輪を右手の指にはめる。祖母の、青い石の指輪。
手のひらを傷口にかざすと、うっすらと光が漏れた。白くて、静かな光。
アリシアは集中した。昔から、怪我や痛みに触れると何かが流れる感覚があった。ただの気のせいだと思っていた。実家では試す機会もなかった。試したところで、評価してもらえる気がしなかった。
兵士の顔色が変わり始めた。
熱が引いていく。傷の腫れが小さくなる。
部屋が静まり返った。
「……これは」
医師が息を呑んだ。
「癒やし魔法……それも、上位の」
ヴァルターがいつの間にかそこにいた。
じっとアリシアを見ていた。
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第三章 価値の目覚め
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後で呼ばれた。
ヴァルターの執務室。暖炉の火が低く燃えている。
アリシアは椅子に座り、膝の上で指を組んだ。叱られるかもしれないと思った。勝手なことをした、と。
「その指輪を、見せてもらえるか」
手を伸ばすと、ヴァルターは指輪を受け取って灯りにかざした。
「やはり……これは、フォンテーヌ家のものではない」
「祖母の形見です。祖母はクレスト……あ」
言ってから気づいた。
「そうだ」
ヴァルターが言った。
「五十年前、この領地に嫁いできた癒やし師の血筋の女性がいた。クレスト家の傍系の家に嫁いだが、子がなく家名は絶えた。この指輪は——その一族が代々受け継いできた、癒やし師の証だ」
アリシアは目を見開いた。
「つまり、アリシアはクレストの血を引く癒やし師の末裔だ」
「……そんな」
「自分でも知らなかったか」
「祖母は何も……ただ大事にしろとだけ」
アリシアは指輪を見つめた。
祖母は知っていたのだろうか。この指輪に何が込められているか。だから「大事にしなさい」と言ったのだろうか。
「一つ、頼んでもいいか」
ヴァルターが言った。
「……なんでしょう」
「この傷を、見てもらいたい」
左の掌を、差し出した。
手袋のない手。黒ずんだ傷跡が浮かび上がった。魔獣の牙の痕だった。古い呪い傷だった。
「三年前からだ。少しずつ侵食してきている。医師には無理だと言われた。余命わずかという話も出た」
その言葉を聞いて、アリシアは父が「辺境伯は呪いで余命わずかという噂だ」と言っていたのを思い出した。
だから、誰も嫁に来なかったのか。
呪われた男の元に嫁がされた、と思われていたのか。
でも今、目の前にいる人は——ただ、傷んでいた。
アリシアは傷に手を置いた。
流れる。白い光が、ゆっくりと。
傷の黒ずみが薄くなっていく。
全部ではない。でも確かに、動いた。
「……完全には無理かもしれませんが、時間をかければ」
「十分だ」
ヴァルターが静かに言った。
「お前は、自分の力を知らなかったのか」
「……試すことも許されませんでした。実家では、『役立たずの姉』でしたから」
言ってから、胸が痛くなった。
なぜこんなことを話してしまったのか。
でもヴァルターは眉一つ動かさず、ただ言った。
「馬鹿な家だ」
それだけだった。
それだけだったのに——アリシアの中でずっとつかえていた何かが、その言葉でずれた。
馬鹿な家。
そうか。馬鹿な家、だったのか。
私が足りなかったのではなく。
私が欠陥品だったのでもなく。
ただ、あの家が——馬鹿だったのか。
泣きそうになって、でも泣けなくて、アリシアは唇を噛んだ。
◆
その後、領地の村で疫病が出た。
魔獣の呪いが根底にある奇病で、薬が効かない。子供たちが次々と倒れた。
アリシアは村に入ることを申し出た。
ヴァルターは止めなかった。
「危険だ」と言った。
「それでも行くか」とも言った。
「……子供たちが死ぬくらいなら、私が行きます」
ためらいなく言えた。
自分でも驚いた。こんなにはっきり言えたのは、初めてだった。
三日間、アリシアは村を回り続けた。
一人ひとりに手を触れ、光を通し続けた。力を使い果たして倒れかけながら、それでも続けた。足がふらついた。目の前が暗くなる瞬間もあった。それでも止まらなかった。
止まったら、また「役に立たない」と思われる気がして——ではなかった。
ただ、子供たちの顔が頭から離れなかった。
四日目の朝、子供たちが起き上がった。
母親たちが泣いた。
年老いた村長が、アリシアの手を両手で包んだ。
「……ありがとうございます。奥様、本当に、ありがとうございます」
「うちの子を助けてくれた」と母親が言った。
「お礼なんてできないけど」と若い父親が言った。
皆が頭を下げた。
子供たちが「おくさまありがとう」と言った。舌足らずな声だった。
アリシアは、止まった。
ありがとう。
今まで妹から何度も聞いた言葉のはずだった。でも、こんなふうに言われたのは——
これが初めてだった。
エミリアの代わりをやってもらったときのありがとうではなかった。
役に立ったから感謝するのではなかった。
私が、この人たちのために動いて、この人たちが助かって、この人たちが——私に、ありがとうと言っていた。
「…………っ」
声が出なかった。
泣いてはいけないと思ったのに、目から何かが出た。
ヴァルターが後ろに立っていた。
何も言わなかった。ただ、そっとアリシアの隣に立っていた。
それだけでよかった。
それだけで、十分だった。
◆
城に戻る夜道で、アリシアは自分の手のひらを見ていた。
白い光は消えていた。魔力を使い果たして、指先が少しかじかんでいた。
横を歩くヴァルターが、何も言わなかった。
疲れているか、と聞かれるかと思った。倒れそうだったな、と言われるかとも思った。
でも何も言わなかった。
ただ、歩くのが少しゆっくりだった。アリシアの歩調に合わせていた。
(……この人は)
言葉の代わりに、いつも何かをする。
本を置いてくれた。栞を挟んでくれた。名前で呼んでくれた。今日は、ゆっくり歩いてくれている。
アリシアは視線を前に戻した。
(——この人のこと。わかってきたかもしれない)
思ったとたん、顔が熱くなった。
違う、と打ち消した。でも消えなかった。
こんな気持ちになる権利が自分にあるかどうか、まだわからなかった。
でも——あってもいいかもしれないと、今日だけは思った。
◆
五ヶ月が過ぎた頃、実家から手紙が来た。
差出人は父だった。
「状況が変わった。一度帰れ」と書いてあった。
アリシアは手紙を三度読んだ。
「状況が変わった」とだけ。具体的なことは何も書いていなかった。状況とは何か、どうして帰る必要があるのか、一行も説明がなかった。
当たり前のように呼び戻そうとしている。それだけはわかった。
ヴァルターが隣で言った。
「読んでいいか」
手紙を渡すと、少し考えてから言った。
「フォンテーヌ家が没落しつつある。知らせが来ていた」
「……没落、ですか」
「エミリア嬢の縁談が全て壊れ、実家の借金が表に出た。もう家格を保てない状態だ」
アリシアは窓の外を見た。
辺境の空が広い。雪が降り始めていた。
(没落、か)
不思議と、悲しくなかった。
かわいそうとも思わなかった。
「帰るか?」
ヴァルターが静かに聞いた。
「……いいえ」
はっきり言えた。
「ここが、私の家です」
ヴァルターは何も言わなかった。
でも、手がそっとアリシアの肩に置かれた。重い手だった。温かい手だった。
◆
一週間後、エミリアが直接乗り込んできた。
馬車から降りてきた妹は、以前と少し違っていた。
顔色が悪く、服の刺繍が擦れていて、目の下に隈があった。それでも立ち姿は美しかった。美しさだけは、まだそこにあった。
アリシアはその姿を見て、一瞬だけ息を止めた。
かわいそう、とは思わなかった。
怒り、とも少し違った。
ただ——ぜんぶ、思い出した。
エミリアの縫い物を代わりにやった夜。エミリアの欠席理由を考えた朝。食堂で「お前が行け」と言われた瞬間。玄関に誰も来なかった出発の日。父の「帰ってくるな」という背中。母の「迷惑だから」という目線。
それから、この五ヶ月で得たもの。
初めて名前を呼んでもらえた朝。子供たちの「おくさまありがとう」。村長の震える両手。魔力を使い果たして倒れかけたとき、黙ってそこにいてくれた人。
あの家に置いてきたものと、ここで手に入れたもの。
——もう、釣り合わない。
(今日は揺れない。絶対に)
アリシアは静かに息を吐いた。
胸の中が、凪いでいた。
「お姉さまっ!」
いつもの甘い声で呼んだ。
「ずっと心配していたわ。辺境の生活は大変でしょう? もう十分頑張ったじゃないの、帰ってきていいのよ」
アリシアは、黙って聞いていた。
帰ってきていい。
誰が、そんな許可を出すのか。
心の中でそう思ったとき——ああ、変わったんだ、と気づいた。
以前の自分なら、この言葉に「そうですか」と言っただろう。
「……エミリア」
「なに?」
「私は、あなたの尻拭いをする気はもうありません」
「はぁ? 尻拭い? 私はただ、お姉さまが心配で——」
「縁談が失敗したことを聞きました」
エミリアの顔が固まった。
「そこまで、知っているなら帰ってきてよ! お姉さま!」
「帰ることはできません」
アリシアは表情を変えずに、淡々と返事をした。
「……え?」
「ここが私の家ですから。帰る場所は、ここです」
「な……っ、何を言っているの! お姉さま、実家が大変なのよ? お父様も困っていて、私だって……っ、私だって大変なのに!」
「エミリア」
アリシアの声は、静かだった。
「あなたは私に、謝罪を、一度も言っていません。今日も言いませんでした」
「そんな……っ、細かいことを」
「細かくはありません」
「まず、お姉さまが辺境に行ってくれたのは——」
「私が行くしかなかったからです。私が選んだのではありません。あなたが泣いて拒否したから、父に命令されたから、私は行ったんです」
エミリアが口を開いた。
でも言葉が出なかった。
「私を必要とするなら、まず謝ってください。それからもう一度、話を聞きます」
長い沈黙が降りた。
エミリアの顔が、ゆっくりと歪んでいった。
「……なんで。なんでそんなに冷たいの。お姉さまじゃないみたい」
「変わったんです」
「……っ」
「あなたたちが私を捨ててくれたおかげで」
エミリアは何か言おうとして、唇を震わせた。
しばらくして、ようやく声が出た。
「お姉さまが……手伝ってくれれば、家が助かるのに」
「その言葉は、謝罪ではありません」
エミリアは崩れるように泣き始めた。
以前なら、この涙を見たら心が揺れた。
今は、静かだった。
(また、私を駒の様に扱う気なのだろう……)
揺れなかった。
揺れなくなったことが、アリシアには少し不思議だった。でも、これでいいと思った。
後ろからヴァルターの声がした。
「エミリア嬢。妻は辺境の民や私にとって大切な人だ」
低くて、明確な声だった。
「お引き取りを」
エミリアは震えながら立ち上がり、馬車に戻った。
アリシアはその背中を見送りながら、ようやく気づいた。
解放された、と思った。
ずっと待っていた。
親が振り向いてくれる日を。妹が本心で「ありがとう」と言ってくれる日を。家族に認められる日を。
でも——その日は来なかった。来ないまま、時間だけが過ぎた。
ならば、これでいい。
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第五章 崩れていくもの
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エミリアの内側では、何かが音を立てて壊れていた。
馬車の揺れの中で、膝に顔を埋めて泣いた。
なぜ。なぜこうなった。
ずっと自分は愛されてきた。どこへ行っても褒められた。美しいと言われ、かわいいと言われ、それが当然だと思っていた。
でも。
辺境伯は自分を見もしなかった。
最初から最後まで、一度も。
目が合いもしなかった。
視線は全部、姉に向いていた。
城の使用人たちは、姉の名前を誇らしそうに語った。村の子供たちが「奥様が助けてくれた」と話していた。
あの地味で、目立たなくて、いつも黙って家の仕事をしていたお姉さまが。
誰からも感謝され、必要とされ、あんな立派な城の主人になっている。
——なぜ。
私の方が、ずっとかわいかったのに。
私の方が、ずっと大切にされてきたのに。
でも、それが。
それだけが、今は何の役にも立たなかった。
縁談が壊れた理由が、今ならわかった気がした。求婚者たちは最初は美しい自分に近づいてきたけれど、すぐに離れた。なぜかはわからなかった。でも今ならわかる。
会話をしていると、何もないことがわかった。
お姉さまの話を聞くと、たくさんもっていることがわかった。
自分には、何もない。
美しさの下に、何も。
お姉さまには、あった。
ずっとあったのに、自分は——気づかなかった……いや、気づかないふりをしていた。
「……お姉さまが、うらやましかった」
声が出た。
誰にも聞こえなかった。
ずっと前から、わかっていた。
お姉さまが、優秀で不思議な能力があること。
社交界では、フォンテーヌ男爵令嬢として恥じない振舞いをこなし、何事もそつなくこなしてしまう。
怪我が治るのも早く、病気をしないことも。植物が育つのが早いことも。何か能力があると思っていた。
でも認めなかった。
お姉さまが自分より優れているところがあるなんて、認めたくなかった。
だから貶め続けた。役立たずと言い続けた。
そうすれば、お姉さまは自分で気づかないままでいられると、どこかで思っていたのかもしれない。
馬車の窓から、遠ざかる城が見えた。
あの城の奥に、お姉さまがいる。もう振り返らない顔で、あそこにいる。
私を置いて。
「……お姉さま」
もう一度声が出た。
でも聞こえる人は、誰もいなかった。
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終章 辺境の春
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冬が終わった。
辺境に春が来ると、野原に白い花が咲いた。
アリシアは城の庭に出て、その花を摘んでいた。
「似合わないことをしているな」
後ろからヴァルターが言った。
「そうですか?」
「いや——似合っている」
言い直したのが珍しくて、アリシアは振り返った。
ヴァルターは少し目をそらした。
「……一つ、聞いてもいいか」
「なんでしょう」
「ここが嫌になったことは、あるか」
アリシアは少し考えた。
「最初は……辛かったです。でも嫌ではなかった」
「なぜ」
「名前で呼んでもらえたから」
ヴァルターが黙った。
「実家では、呼ばれなかったんです。『おい』か『お前』か。エミリアの話をするときだけ、姉という言葉を使われていました」
「……そうか」
「アリシアと呼んでもらったとき、私は存在しているのだと——やっと思えた気がしました」
ヴァルターの左手が上がった。
手袋のない手。黒ずみがほぼ消えた手が、アリシアの頭にそっと置かれた。
重かった。でも、痛くなかった。
この人の手は、いつも重くて温かかった。最初は怖かったのに、いつから怖くなくなったのだろう。
「アリシア」
「……はい」
「正式に、妻として迎えたい。形だけではなく」
アリシアは白い花を持ったまま、少しの間、黙っていた。
逃げたかった。
——違う、逃げたくなかった。
でもまだ——自分がそれに値するかどうか、わからなかった。
「……私は、欠点だらけです」
「知っている」
「臆病で、自分を低く見て、必要とされないと怖くて、肝心なときに声が出なくて」
「分かっている」
「それでも、ですか」
ヴァルターが言った。
「数日で領地の帳簿を整理した。村の疫病を止めた。自分の力を信じられないまま、私の呪い傷に手を当て続けた。欠点があって何が悪い」
何が悪い。
その言葉が、アリシアの中の最後の壁を崩した。
「……ありがとうございます」
「礼はこちらの方だ。ありがとう」
アリシアは白い花を胸に抱えて、ヴァルターを見上げた。
「——はい」
春の風が吹いた。
辺境の白い花が、揺れた。
もう、振り返らない。
前だけを見ていこう。
あの場所に置いてきた自分が、ここで生まれ直した。
◆
それから数年後。
フォンテーヌ男爵家は没落した。
父は爵位を失い、エミリアは小さな商家に嫁いだ。
辺境クレスト伯爵夫人アリシアは、領地に診療所を建て、魔法を学ぶ孤児たちを受け入れ、ヴァルターと共に北の地を豊かにしていった。
実家からは何度か手紙が来た。
アリシアは全て、未開封のまま暖炉に入れた。
ヴァルターが一度だけ「読まなくていいのか」と言った。
アリシアは「はい」と答えた。
「読んで、どうすることもありません。ここで生きていきますから」
ヴァルターは何も言わなかった。
ただ、うなずいた。
ずっと、待っていたんです。
いつか気づいてくれると。
でも——気づいてくれなかった。
だから、もう関係ありません。
その言葉を、アリシアは一度も声に出さなかった。
出す必要がなかった。
もうあの家は、アリシアの人生の中に存在していなかった。
それから、ヴァルターの左手が、完全に治った。
二人で、北の山を眺めた。白い山頂が春の光を受けて輝いていた。
「綺麗ですね」
「ああ」
「……幸せです」
ヴァルターは何も言わなかった。
ただ、アリシアの手を握った。
それで、十分だった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「妹の身代わりで「死神」に嫁がされた私、捨てた家族が没落しても帰りません」、いかがでしたか?
スカッとした!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




