第六話 封水の奇跡
黒崎——クロス将軍——が去った後、村は混乱に包まれた。
瘴気の直撃を受けた東側の畑は、壊滅状態だった。作物は枯れ果て、土壌は真っ黒に変色している。誠一が数日かけて浄化した西側の畑も、再び汚染の兆候を見せ始めていた。
「セイ様……これは……」
村長が、絶望した顔で誠一を見た。
「……大丈夫です。何とかします」
だが、誠一自身にも、確信はなかった。
黒崎の力は、自分を遥かに上回っていた。あの瘴気の密度、あの圧倒的な威圧感。現実世界では「部下」と「上司」の関係だったが、この世界では——
「敵」だ。
誠一は、自分の手を見つめた。
清掃員の手。汚れを落とすための手。
それが、あの男に届くのだろうか。
夜明け前。
誠一は、一人で井戸の前に立っていた。
先日浄化したはずの井戸から、再びかすかな瘴気の臭いがしていた。黒崎の攻撃で、封水が弱まったのだろう。
「俺のスキルじゃ、一時的な浄化しかできないのか……」
呟いた瞬間、背後から声がした。
「セイ」
振り返ると、リーネが立っていた。
「こんな時間に、何を……」
「眠れなくて。それに、セイも眠っていないでしょう?」
誠一は苦笑した。
「……バレてたか」
「昨夜のあの人——クロス将軍。セイの知り合いなんですね」
「ああ。元の世界で、俺の上司だった」
「上司……?」
「俺を馬鹿にして、追い詰めてきた男だ」
リーネの表情が曇った。
「そんな人が、なぜこの世界に……」
「わからない。でも、あいつは本気だ。俺を——俺が守ろうとするものを、壊しに来る」
沈黙が流れた。
やがて、リーネが口を開いた。
「セイ。私に、もっと教えてください」
「え?」
「私も戦いたいんです。セイ一人に任せるんじゃなくて、一緒に」
「でも、リーネはまだ……」
「わかっています。力が足りないことは。でも、諦めたくない」
リーネの目が、真っ直ぐに誠一を見つめていた。
「この国の民が苦しんでいるのに、何もできない自分が許せないと言いました。それは今も変わらない。だから——」
「……わかった」
誠一は頷いた。
「特訓しよう。俺も、もっと強くならなきゃいけない」
それから三日間、誠一とリーネは特訓に明け暮れた。
朝から晩まで、浄化の練習。瘴気の察知、汚染源の特定、効率的な除去方法。誠一が持つ知識を、すべてリーネに伝えた。
「封水というのは、単に水を溜めるだけじゃないんです」
井戸の前で、誠一は説明した。
「重要なのは、『境界を維持する』ということ。清潔な領域と、汚染された領域を、明確に分ける。その境界が崩れると、汚染が広がる」
「ゾーニング……ですね」
「そう。これは建物の清掃でも同じです。病院なんかでは、清潔区域と汚染区域を厳密に分けて、道具も人も、区域を跨いで移動させない」
「交差汚染を防ぐため……」
「その通り。この世界でも、同じ原理が使えるはずだ」
リーネの理解力は、驚くほど高かった。
彼女には「浄化の巫女」の血が流れている。能力が発現しないと言っていたが、それは単に「発現の仕方を知らなかった」だけかもしれない。誠一の教えを吸収するにつれ、彼女の浄化能力は日に日に強くなっていった。
「見てください、セイ!」
三日目の夕方。リーネが、両手から強い光を放った。
「すごい……! 初日の十倍はあるな」
「まだまだですけど、少しは役に立てそうです」
リーネは嬉しそうに微笑んだ。
だが、誠一の表情は晴れなかった。
「どうしたんですか、セイ」
「……いや、考えてたんだ。なぜ、黒崎があの夜、わざわざ俺に姿を見せたのか」
「挨拶だと言っていましたが……」
「それだけじゃない。あいつは、何かを探っていた。俺の力がどの程度か、確かめようとしていた」
「つまり……」
「次に来るときは、本気だ。俺たちを——この村を、本当に滅ぼしに来る」
リーネの顔が青ざめた。
「どうすれば……」
「逃げるか、戦うか。選ばなきゃいけない」
その夜、村の集会所で会議が開かれた。
村長、マーサ、ダグラス、そして主だった村人たち。誠一とリーネも出席した。
「結論から言います」
誠一は、集まった人々を見回した。
「瘴帝国が、この村を狙っています。近いうちに、大規模な攻撃があるかもしれない」
ざわめきが広がった。
「逃げるなら、今のうちです。聖王国の内陸部に避難すれば、しばらくは安全でしょう」
「しかし……」
村長が口を開いた。
「この村は、先祖代々の土地じゃ。捨てることなど——」
「命と土地、どちらが大事ですか」
誠一の言葉に、村長は言葉を詰まらせた。
「……セイ様は、どうなさるおつもりで」
「俺は——」
答えようとした瞬間、外から叫び声が聞こえた。
「大変だ! 東から——東から軍勢が来る!」
全員が、集会所を飛び出した。
夜空の下、東の地平線が赤く染まっていた。松明の光だ。無数の松明が、こちらに向かって進んでいる。
「早い……!」
誠一は歯を食いしばった。
もう、時間がない。
瘴帝国の軍勢は、五百人ほどだった。
村の人口が二百人であることを考えれば、圧倒的な数だ。しかも、彼らは瘴気を操る術を心得ている。普通の村人では、太刀打ちできない。
「皆さん、村の中心に集まってください」
誠一は、村人たちを誘導した。
「リーネ、手伝って」
「はい!」
二人で、村の中央——井戸の周囲に、村人全員を集めた。
「これから、俺は『ゾーニング』を行います。この井戸を中心に、清潔区域を作る。その中にいる限り、瘴気は届かない」
「そんなことが可能なのですか……?」
村長が不安そうに聞いた。
「やったことはない。でも、理論上は可能だ」
誠一は深呼吸した。
ゾーニング。清潔区域と汚染区域を分ける。その境界を維持する。
原理は、封水と同じだ。
誠一は井戸の縁に手を置き、意識を集中した。
「封水——拡大」
光が、井戸から溢れ出した。
その光は、地面を這うように広がっていく。円を描き、村人たちを包み込む。直径五十メートルほどの、巨大な光の円。
「これが……ゾーニング……」
リーネが息を呑んだ。
光の円の外側から、瘴気が押し寄せてきた。黒い靄が、光に触れ、弾き返される。
「効いてる……!」
だが、これを維持するのは、相当な消耗だった。誠一のMPが、みるみる減っていく。
「セイ様、敵が——!」
村人の声。
光の外側に、敵軍が到着していた。
その先頭に、一人の男が立っている。
黒崎——クロス将軍。
「やるじゃないか、汐見」
黒崎が、笑みを浮かべて言った。
「だが、そんなバリアで、俺を止められると思うか?」
黒崎が手を上げると、軍勢が一斉に動いた。瘴気を纏った兵士たちが、光の円に向かって突進してくる。
「耐えろ……!」
誠一は、ゾーニングに全力を注いだ。
光が、瘴気を弾く。弾く。弾く。
だが、限界があった。
「ぐっ……!」
誠一の膝が、崩れた。
「セイ!」
リーネが駆け寄る。
「大丈夫……まだ、やれる……」
「無理です! このままじゃ——」
その時だった。
リーネの手が、光った。
「私も……手伝います!」
リーネが誠一の隣に立ち、両手を前に出した。彼女の光が、誠一の光と重なる。
「リーネ……」
「セイが教えてくれたんです。一人でやる必要はないって」
二人の光が融合し、ゾーニングの強度が増した。
黒崎の表情が、わずかに変わった。
「……ほう」
だが、すぐに笑みを取り戻す。
「面白い。だが、二人でも——」
黒崎が、さらに強い瘴気を放とうとした、その瞬間——
「将軍!」
兵士の声が響いた。
「後方から、援軍が! 聖王国の旗が——!」
黒崎が振り返った。
西の地平線から、別の軍勢が近づいていた。白と金の旗。聖王国の軍旗だ。
「……チッ」
黒崎が舌打ちした。
「撤退だ」
「え? しかし将軍——」
「今日は引く。だが——」
黒崎が、誠一を見た。
「覚えておけ、汐見。次は、お前の心を折る」
そう言い残し、黒崎と瘴帝国軍は闇の中に消えていった。
夜明け。
聖王国軍が、村に到着した。
「リーネ王女殿下! ご無事でしたか!」
騎士たちが、リーネの元に駆け寄る。
「大丈夫です。この方が——セイが、私たちを守ってくれました」
リーネが、誠一を紹介した。
騎士たちは、誠一を見て目を丸くした。
「この方が……噂の浄化師……」
「セイ様、王都からの召喚状をお持ちしました」
騎士の一人が、巻物を差し出した。
「召喚状……?」
「聖王国国王陛下が、セイ様を王都にお招きしたいと仰せです。『聖浄師』の称号をお授けしたいと」
「聖浄師……」
誠一は、巻物を受け取った。
村人たちが、歓声を上げた。
「聖浄師様だ! セイ様が聖浄師様に!」
「村を救ってくださった英雄だ!」
その喧騒の中、誠一は静かに空を見上げた。
黒崎の最後の言葉が、耳に残っていた。
「次は、お前の心を折る」
戦いは、まだ始まったばかりだった。




