第五話 清掃員の本能
リーネが村に滞在を始めてから、一週間が経った。
最初、村人たちは王女の来訪に恐縮しきっていたが、リーネ自身が気さくな性格だったこともあり、次第に打ち解けていった。彼女は王宮での豪華な生活を捨て、村の宿に泊まり、誠一と同じ食事を取った。
「清掃の基本は、まず観察です」
誠一は、畑の一角でリーネに教えていた。
「汚れを落とす前に、汚れを知る。どんな種類の汚れか。どこまで広がっているか。何が原因か。それを把握しないと、的外れな作業をすることになる」
「なるほど……」
リーネは真剣な顔で頷いている。
「瘴気汚染も同じです。まず、汚染源を特定する。次に、汚染の範囲を把握する。それから、適切な方法で除去する」
「適切な方法というのは?」
「状況によって変わります。表面的な汚れなら、拭き取るだけでいい。深く染み込んでいるなら、洗浄が必要。構造的な問題があるなら、修復しなければならない」
「井戸のときは、どうだったんですか?」
「あれは三つ全部でした。封水が切れていた——つまり構造的な問題があった。そこを修復してから、溜まっていた瘴気を浄化した」
リーネは、必死にメモを取っている。羊皮紙とペンを持ち歩き、誠一の言葉を一字一句書き留めようとしていた。
「あの……セイ」
「何ですか」
「『封水』って、どういう意味なんですか? 聖典にも載っていない言葉で……」
誠一は、少し考えてから答えた。
「排水口には、トラップというものがあります。U字型の管で、常に水が溜まっている。その水が『蓋』の役割を果たして、下水管からの逆流を防いでいるんです」
「逆流……瘴気の逆流、ということですか」
「そうです。この世界では、地下に瘴気源があるんでしょう。封水は、それと地表を分離するための『蓋』です」
「すごい……。そんな概念、初めて聞きました」
「元の世界では、当たり前のことなんですが」
誠一は苦笑した。
清掃業界では常識中の常識だ。封水が切れれば、下水臭が逆流する。だから、清掃員は定期的にトラップへ注水し、封水を維持する。
それが、この世界では「失われた聖技」になっている。
不思議なものだ、と誠一は思った。
実技の練習は、午後に行った。
「まず、手のひらに意識を集中してください」
リーネが両手を前に出す。誠一は、その手の甲にそっと触れた。
「浄化の力は、体内のエネルギー——MPを変換して発現します。そのエネルギーを、手のひらに集めるイメージで」
「イメージ……」
リーネは目を閉じ、集中した。
数秒後、彼女の手のひらが、わずかに光った。青白い、淡い光だ。
「出た……!」
「良いですね。でも、まだ弱い。もっと集中して」
「はい!」
光が、少しだけ強くなる。だが、誠一が井戸を浄化したときの十分の一にも満たない。
「焦らなくていいです。最初は誰でもこんなものです」
「セイは、最初からあんなに強かったんですか?」
「いや、俺は……どうなんだろう」
誠一は、自分の転生直後を思い出した。
あのとき、ダグラスを治療したのは、ほとんど無意識だった。長年の清掃作業で染みついた動作——汚れを見つけたら、拭き取る——が、自然と発動したのだ。
「たぶん、俺の場合は、十五年間の経験があったからだと思います」
「経験?」
「毎日、毎日、同じ作業を繰り返してきた。手が勝手に動くくらいに。その蓄積が、この世界でスキルとして発現したんじゃないかと」
「つまり、私も練習を重ねれば……?」
「必ず上達します。才能がないなんて、諦めないでください」
リーネの目が、キラキラと輝いた。
「ありがとうございます、セイ! 絶対に、上達してみせます!」
練習を終え、誠一は一人で村の外を歩いていた。
夕暮れ時。二つの太陽が、地平線に沈みかけている。大きい太陽は橙色に、小さい太陽は紫色に染まり、空にグラデーションを描いていた。
「綺麗だな……」
誠一は呟いた。
この世界に来て、二週間が経った。
最初は混乱していたが、今は少し落ち着いてきた。やるべきことがある。必要とされている。それが、誠一の心を安定させていた。
だが、一つだけ気になることがあった。
「瘴帝国に、異界からの救世主が現れた」
ダグラスが言っていた噂だ。
誠一と同じように、別の世界から転生してきた人間がいる。しかも、瘴帝国——瘴気を力として使う国——に。
誰なのだろう。
何者なのだろう。
嫌な予感が、胸の奥でくすぶっていた。
その夜、村に異変が起きた。
「セイ様! 大変です!」
真夜中、マーサの悲鳴で誠一は目を覚ました。
「何があった?」
「村の東側の畑が……瘴気に飲まれています!」
誠一は飛び起き、外に出た。
村の東側——誠一がまだ浄化していない区域——から、黒い靄が立ち昇っていた。それも、これまで見たことがないほど濃密な瘴気だ。
「これは……」
誠一は走った。
畑に着くと、村人たちが恐怖に震えて立ち尽くしていた。目の前で、瘴気が渦巻いている。その中心から——
「——ッ!」
人影が現れた。
黒いローブを纏った、長身の人物。フードを深くかぶっており、顔は見えない。
だが、その存在から放たれる瘴気の密度は、尋常ではなかった。
「やあ、久しぶりだな」
人影が、声を発した。
誠一は、その声を聞いた瞬間、全身が凍りついた。
聞き覚えがある。
忘れるはずがない。
毎日のように、自分を馬鹿にしてきた。蔑んできた。追い詰めてきた。
「まさか、お前もこっちに来てたとはな」
人影がフードを脱いだ。
そこにいたのは——
「黒崎……!」
黒崎剛史。
誠一の元上司。エリアマネージャー。
その男が、異世界にいた。
「驚いてるみたいだな、汐見。いや、今は『聖者様』だっけ?」
黒崎の口元が、嘲笑に歪んだ。
「お前みたいな底辺が、聖者とはな。笑えるよ」
「なぜ……お前がここに……」
「お前と同じさ。異世界転生ってやつだ。俺はお前より半年早かった」
半年前。
誠一が転生したのは二週間前だ。時間の流れが違うのか、それとも——
「瘴帝国、って知ってるか? 俺は今、そこの将軍だ」
「将軍……?」
「クロス将軍。瘴帝国の英雄。救世主。——どうだ、俺の方がずっと上だろ?」
黒崎——クロス将軍——が、両手を広げた。
「お前は一生、便所掃除してろ。俺は、この世界を支配する」
瘴気が、さらに濃くなった。黒い靄が、畑を、村を、飲み込もうとしている。
「やめろ! 村人たちに何の関係がある!」
「関係? お前が守ろうとしてる、それだけで十分だ」
黒崎の目が、冷たく光った。
「お前の大切なものを壊す。それが、俺の仕事だ」
瘴気が、津波のように押し寄せてきた。
誠一は、両手を前に出した。
「浄化——!」
青白い光が放たれる。瘴気と光がぶつかり、激しい音を立てた。
「いいぞ、汐見。その調子だ」
黒崎が笑っている。
「だが、お前の力じゃ、俺には勝てない。わかってるだろ?」
瘴気が、さらに強くなる。誠一の光が、押し返されていく。
「くそ……っ!」
「今日は挨拶だ。次に会ったとき、お前を絶望させてやる」
黒崎の姿が、瘴気の中に消えていく。
「じゃあな、汐見。——いや、『聖者様』」
笑い声が、闇に溶けていった。




