第四話 辺境の村
井戸の浄化から三日が経った。
誠一は、村の一室を借りて滞在を続けていた。「聖者様」として厚遇されることには、いまだに慣れなかったが、行く当てもない以上、しばらくはこの村に留まるしかなかった。
「セイ様、食事をお持ちしました」
宿の女将——マーサという名だった——が、部屋に食事を運んできた。パンと野菜のスープ、それに干し肉。質素だが、栄養バランスは取れている。
「ありがとうございます。……『様』はやめてください」
「いいえ、聖者様には敬意を払わないと」
「聖者じゃないんです。ただの——」
「清掃員、でしたっけ」
マーサは微笑んだ。
「何度聞いても、不思議な言葉ですね。でも、あなたがやったことは確かです。井戸の水が戻って、病人も回復しました。それを『聖業』と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう」
「……俺は、汚れを落としただけです」
「それができる人が、どれだけいると思います? この国には、浄化の力を持つ者はほとんどいないんですよ」
誠一は黙って、スープを啜った。
この三日間で、様々なことを学んだ。
この世界は「ケガレノス」と呼ばれている。かつて「大浄化」という出来事があり、世界は魔界と分離された。しかし千年の時を経て封印が弱まり、各地で「瘴気汚染」が進行している。
瘴気に触れると、土地は荒廃し、人は心身を蝕まれる。重度の汚染者は「穢れ人」と化し、理性を失って暴れ回るという。
この世界には、二つの大国がある。
一つは「聖王国」。西側を支配する国で、「浄化の巫女」の血筋が治めている。古代の浄化技術が「聖技」として伝承されているが、形骸化しており、実効性を失っているらしい。
もう一つは「瘴帝国」。東側を支配する国で、瘴気を「力」として利用する。魔界との次元接続を強化し、世界を瘴気で満たすことを目論んでいるという。
クラウド村は、聖王国の辺境に位置している。瘴帝国との国境からは離れているが、それでも瘴気汚染の影響は避けられなかった。
「この村の瘴気汚染は、井戸だけではないんです」
食事を終えた誠一に、マーサが言った。
「畑の土も、少しずつ汚染されています。作物の収穫量が年々減っていて……」
「畑も浄化できるか、試してみますか?」
「いいんですか?」
「やれることは、やりたいんです」
誠一は立ち上がった。
この世界に来てから、一つだけ確信したことがある。
自分の仕事は、ここでも必要とされている。
畑は、村の外れにあった。
数ヘクタールの土地に、小麦や野菜が植えられている。だが、その多くが枯れかけていた。
「見ての通りです。去年の収穫量は、一昨年の半分でした」
村長が、嘆くように言った。
誠一は畑の土を手に取った。
黒っぽい。通常の土とは明らかに違う。そして、あの臭い——瘴気の臭いが、かすかにする。
「汚染は、表層だけですか? それとも深くまで?」
「わかりません。我々には、判断する術がない」
誠一は目を閉じ、集中した。
井戸のときと同じように、土壌の内部構造を「感じ取る」ことを試みる。
——見える。
表層から三十センチほどの深さまで、黒い靄——瘴気——が染み込んでいる。それより深くは、まだ汚染されていない。
「汚染は、表層三十センチくらいまでです。まだ間に合う」
「間に合う?」
「このまま放っておくと、汚染はどんどん深くまで浸透していきます。でも今なら、表層だけを浄化すれば、畑は回復するはずです」
「それを……やっていただけるのですか?」
「ただし、時間がかかります。この面積を全部浄化するには、数日は必要でしょう」
村長の顔が、パッと明るくなった。
「お願いします! 報酬は——」
「報酬はいりません。……いや、一つだけ」
「何でしょう?」
「この世界のことを、もっと教えてください。俺は、何も知らないんです」
畑の浄化は、地道な作業だった。
誠一は、毎日数時間をかけて、少しずつ土壌を清めていった。手のひらから光を放ち、一方向に——上から下へ、北から南へ——汚染を払っていく。
作業の合間には、村人たちから様々な情報を得た。
この世界の歴史。地理。文化。魔法。政治。
特に興味深かったのは、「浄化師」という職業についてだった。
浄化師は、かつて聖王国で崇められていた存在だ。瘴気を払い、土地を清め、病を癒す。その技術は「聖技」と呼ばれ、神聖なものとされていた。
しかし、百年ほど前から、浄化師は衰退の一途を辿っている。才能を持つ者が減り、技術の伝承も途絶えがちになった。今では、聖王国の首都にある神殿にしか、本格的な浄化師はいないという。
「それも、形ばかりでな」
村長が、溜息混じりに言った。
「儀式ばかりが重視されて、実際に瘴気を払う力は、ほとんど失われておる。村が汚染されても、神殿から浄化師を呼ぶには莫大な金がかかるし、来てくれたとしても、井戸一つ清めるのに何週間もかかる」
「俺がやったのは、そんなに珍しいことなんですか?」
「珍しいどころではない。あれほどの力を持つ浄化師は、百年に一人出るかどうかじゃ」
百年に一人。
誠一は、自分の手を見つめた。
四十二年間、モップを握り続けてきた手。節くれだって、ひび割れて、お世辞にも美しいとは言えなかった手。
今は、若者の手になっている。だが、中に宿っている「技術」は、あの十五年間で培ったものだ。
清掃員としての経験が、この世界では「聖技」になる。
皮肉なものだ、と誠一は思った。
現実世界では「底辺の仕事」と蔑まれていた。誰にも感謝されなかった。誰にも認められなかった。
それが、ここでは——
「聖者様!」
畑の向こうから、子供の声がした。
振り返ると、七、八歳くらいの少女が走ってきた。村長の孫娘、エリカだ。
「聖者様、お客さんです!」
「お客さん?」
「すごく綺麗な人! 馬車に乗ってきた!」
馬車。それは、この村では珍しい乗り物だった。村人たちは徒歩か、せいぜいロバに乗る程度だ。
「わかった。行こう」
誠一は、エリカと一緒に村の広場に向かった。
広場には、確かに馬車が停まっていた。
白い馬が二頭、豪華な車両を牽いている。車体には、金の紋章が描かれていた。王冠を戴いた盾。聖王国の紋章だ。
馬車の扉が開き、一人の女性が降りてきた。
誠一は、息を呑んだ。
十代後半か、二十歳になるかならないかくらいの年齢。長い銀色の髪が、風になびいている。肌は陶器のように白く、瞳は深い紫色だった。
純白のローブを纏い、胸元には聖王国の紋章が刺繍されている。
「美しい」という言葉は、彼女のためにあるのかもしれない。
だが、誠一が注目したのは、彼女の美貌ではなかった。
その目だ。
紫色の瞳の奥に、強い意志と——それ以上の、焦燥のようなものが見えた。
「あなたが、井戸を清めた浄化師ですか?」
女性が、誠一に向かって言った。
「……ええ、そうですが」
「私は、リーネ・クリスタル。聖王国第三王女です」
王女。
誠一は、思わず居住まいを正した。
「噂を聞いて、参りました。辺境の村で、強力な浄化師が現れたと」
「噂……ですか」
「ダグラスという行商人から、詳しい話を聞きました。瘴気汚染を一瞬で浄化し、封水を修復した。それは、失われた聖技そのものです」
リーネの声には、興奮が混じっていた。
「お願いがあります」
「……何でしょうか」
「私に、その技を教えてください」
誠一は、目を丸くした。
「俺に……教わりたい?」
「はい。私は『浄化の巫女』の血を引いていますが、能力が発現しないまま、この年になりました。王宮では、無能と蔑まれています」
リーネの声が、わずかに震えた。
「でも、諦めたくないんです。この国の民が瘴気に苦しんでいるのに、何もできない自分が、許せない」
その目には、涙が浮かんでいた。
誠一は、その姿に、かつての自分を見た。
誰にも認められない。誰にも必要とされない。それでも、仕事を続けてきた理由。
「誰かがやらなきゃ、汚れは消えない」
気づくと、その言葉が口をついて出ていた。
「……え?」
「母がよく言ってた言葉です。この世界は、放っておくと汚れていく。誰かが毎日、清めないといけない」
誠一は、リーネの目を見つめた。
「俺は、清掃員でした。元の世界で、十五年間。誰にも感謝されない、地味な仕事を続けてきた」
「清掃……員?」
「でも、手を抜いたことはなかった。誰も見ていなくても、便器の裏側まで、ちゃんと磨いてきた」
リーネは、困惑した表情で誠一を見ていた。当然だろう。彼女には、「清掃員」という概念がないのかもしれない。
「あなたが本気で学びたいなら、教えます」
「本当ですか!」
「ただし、条件があります」
「何でも言ってください」
「俺を『聖者様』と呼ばないでください。俺は聖者じゃない。ただの——セイです」
リーネは一瞬、驚いた顔をした。それから、初めて微笑んだ。
「わかりました、セイ。よろしくお願いします」
こうして、誠一の弟子——聖王国第三王女リーネ・クリスタル——が誕生した。




