第三十五話 誠一の過去
「終わらせる、だと?」
黒崎は、不敵に笑った。
「お前に、俺を倒す力があると思っているのか」
「ある」
誠一は、静かに答えた。
「俺には、十五年分の積み重ねがある」
「十五年……清掃員として便所を磨いていた十五年か?」
「ああ。その十五年だ」
誠一は、構えを変えた。
戦いながら、誠一の脳裏に、過去の記憶が蘇っていた。
二十七歳の時だった。
誠一は、それまで勤めていた中小企業を辞めていた。リストラだった。会社の業績悪化で、若手社員が次々と切られていった。誠一もその一人だった。
「これからどうしよう……」
路頭に迷った誠一を救ったのは、母だった。
「誠一、うちで働いている会社、人手が足りないんだって」
母の汐見洋子は、ビルメンテナンス会社で清掃員として働いていた。誠一が幼い頃から、女手一つで誠一を育ててきた。
「清掃の仕事……?」
「そう。地味な仕事だけど、ちゃんとした仕事よ」
母の紹介で、誠一は清掃員として働き始めた。
最初は、戸惑いばかりだった。
トイレの掃除、床の清掃、ゴミの回収。どれも、これまで経験したことのない仕事だった。
「こんな仕事、誰でもできるだろ……」
内心で、そう思っていた。
だが、母の仕事を間近で見て、その考えは変わった。
洋子の動きは、無駄がなかった。一つ一つの作業が、流れるように繋がっている。汚れを見つける目、適切な洗剤の選択、効率的な動線。全てが、長年の経験に裏打ちされていた。
「お母さん、すごいな……」
「何が?」
「この仕事、奥が深いんだな」
洋子は、優しく微笑んだ。
「そうよ。どんな仕事も、極めようと思えば果てがない」
それから、誠一は母から清掃の技術を学んだ。
一方向拭きの意味。ゾーニングの重要性。交差汚染の危険性。封水の管理。
「清掃っていうのはね、誠一」
洋子は、よく言っていた。
「見えないところを、きれいにする仕事なの」
「見えないところ?」
「そう。便器の裏、排水口の奥、換気扇のフィルター。誰も見ない場所ほど、丁寧にやらなきゃいけない」
「なぜ?」
「誰も見ていなくても、汚れはそこにあるから。放っておけば、いつか必ず問題を起こす。だから——」
洋子は、誠一の目を見つめた。
「誰かがやらなきゃ、世界は汚れていくのよ」
その言葉が、誠一の心に深く刻まれた。
誠一が三十五歳の時、母は病に倒れた。
長年の無理がたたったのだ。清掃の仕事は、見た目以上に体を酷使する。洋子の体は、限界に達していた。
「お母さん……」
病院のベッドで、洋子は誠一の手を握った。
「誠一、私の代わりに、あのビルを頼むね」
「何言ってるんだよ。お母さんが元気になったら——」
「無理しなくていいの」
洋子は、静かに微笑んだ。
「私にはわかるわ。もう、長くない」
「お母さん……!」
「でも、後悔はしていないの。この仕事を選んで、よかった」
洋子の目から、涙が流れた。
「誰にも感謝されなくても、誰にも気づかれなくても。私が掃除したトイレを、誰かが使ってくれている。私が磨いた床を、誰かが歩いてくれている。それだけで、十分だった」
「お母さん……」
「誠一も、そうなってほしい。見返りを求めず、ただ自分の仕事を全うする。それが、本当の誇りだから」
「……わかった」
誠一は、母の手を強く握り返した。
「俺、続けるよ。この仕事を。お母さんの代わりに」
「ありがとう、誠一」
洋子は、安心したように目を閉じた。
その三日後、洋子は息を引き取った。
それから七年。
誠一は、母の言葉を胸に、清掃員として働き続けた。
上司に馬鹿にされても、後輩に追い抜かれても、黒崎にいじめられても。
「誰かがやらなきゃ、世界は汚れていく」
その言葉が、誠一を支えていた。
「……思い出したか」
黒崎の声が、誠一を現実に引き戻した。
「何を思い出してた。便所掃除の日々か?」
「ああ」
誠一は、目を開いた。
「俺が、なぜ十五年も清掃員を続けてきたか。思い出していた」
「くだらない。そんな過去に、何の意味がある」
「意味はある」
誠一は、黒崎を真っ直ぐに見つめた。
「お前にはわからないかもしれない。でも、俺にとっては——十五年の全てが、今この瞬間のためにあった」
「何を——」
「母さんが教えてくれたんだ。『誰かがやらなきゃ、世界は汚れていく』って」
誠一の体から、青白い光が溢れ出した。
「この世界も、同じだ。瘴気という『汚れ』が広がっている。放っておけば、世界は滅びる」
「それがどうした」
「だから、俺がやる」
誠一の光が、さらに強くなった。
「俺は清掃員だ。汚れを見つけて、きれいにする。それが、俺の仕事だ」
「ふざけるな……!」
黒崎が、瘴気を放った。
だが、誠一は避けなかった。
「浄化——全開放」
誠一の体から、これまでにない規模の光が放たれた。
黒崎の瘴気が、その光に触れて消滅していく。
「馬鹿な……! 俺の瘴気が……!」
「お前の瘴気は、『汚れ』だ。俺の浄化で、清めることができる」
誠一は、一歩前に進んだ。
「そして——お前の心の中の『汚れ』も」
「何を——」
「お前は、ずっと苦しんでいたんだろう。自分が足りないと感じて、周りと比べて、焦って」
「黙れ……」
「でも、それは『汚れ』なんだ。自分を蝕む、心の汚れ」
誠一は、黒崎に手を伸ばした。
「俺に、清めさせてくれ」
「ふざけるなァッ!」
黒崎が、全力で瘴気を放った。
黒い津波が、誠一に向かって押し寄せる。
だが——
「封水——完全展開」
誠一の足元から、光の波紋が広がった。
その波紋が、黒崎の瘴気を完全に遮断する。
「なっ……!」
「封水というのは、境界を作る技術だ。清潔と汚染を分ける。この世界と魔界を分ける」
誠一は、さらに前に進んだ。
「そして——お前の心と、その闇を分ける」
「来るな……!」
黒崎が後退る。だが、逃げ場はなかった。
「一方向拭き」
誠一が、右手を振った。
青白い光の帯が、黒崎の体を通り抜けていく。
「があっ……!」
黒崎の体から、黒い靄が吹き出した。瘴気が、強制的に排出されていく。
「これは……俺の中の……」
「お前が溜め込んできた『汚れ』だ。嫉妬、劣等感、自己嫌悪。全部、出していく」
「やめろ……! やめてくれ……!」
黒崎が、頭を抱えた。
「見たくない……! 俺の中の、醜い部分を……!」
「見なきゃいけないんだ」
誠一は、黒崎の前に立った。
「自分の汚れを認めて、初めて清められる。目を逸らしていたら、いつまでも汚れたままだ」
「俺は……俺は……」
黒崎の目から、涙が流れた。
「俺は、ただ……認められたかっただけなんだ……」
「わかってる」
「周りに負けたくなかった。自分が劣っているなんて、認めたくなかった」
「わかってる」
「だから、近道を選んだ。楽な方を選んだ。人を傷つけても、汚いことをしても——」
「わかってる、黒崎」
誠一は、黒崎の肩に手を置いた。
「お前は、頑張ってたんだ。ただ、方向が間違っていただけだ」
「汐見……」
「今からでも、やり直せる。俺が、手伝う」
黒崎は、誠一を見上げた。
その目には、もう敵意はなかった。ただ、疲れ果てた男の、救いを求める目があった。
「本当に……やり直せると思うか……?」
「思う」
誠一は、力強く頷いた。
「お前が本気で変わろうとするなら、俺は——」
その時だった。
「——させるわけがないだろう」
背後から、冷たい声がした。
誠一と黒崎が振り返ると——
そこに、黒いローブを纏った老人が立っていた。
「瘴帝国の……宰相……」
黒崎が、呟いた。
「クロス将軍。あなたが裏切るとは思わなかったよ」
宰相の手から、禍々しい瘴気が溢れ出した。
「我が帝国のために、異世界から召喚した『駒』が——」
宰相は、冷たく笑った。
「用済みになったようだね」




