第二話 目覚めの荒野
最初に感じたのは、風だった。
乾いた風が、頬を撫でていく。土埃の匂いと、かすかな硫黄の臭い。そして、強烈な日差し。
「……っ」
誠一は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない景色だった。
荒野。
赤茶けた大地が、地平線まで続いている。ところどころに岩山がそびえ、枯れた草が風に揺れている。空は灰色がかった青で、太陽は二つあった。
「……は?」
思わず声が出た。
二つの太陽。大きさが違う。一つは地球で見慣れたものに似ているが、もう一つは小さく、紫がかった光を放っている。
「夢……か?」
そう思いたかったが、頬をつねると痛みがあった。風の冷たさも、喉の渇きも、すべてが現実の感覚だった。
誠一は自分の体を確認した。
——若い。
四十二歳の自分の体ではなかった。節くれだった手は滑らかになり、腰の痛みは消え、視界は鮮明だった。鏡がないので顔は確認できないが、感覚的には二十代前半の体に戻っているようだった。
「何がどうなって……」
立ち上がろうとして、視界の隅に何かが見えた。
半透明の、青白い光で構成された四角い枠。その中に、文字が浮かんでいる。
【ステータス】 名前:汐見誠一 年齢:24(精神年齢:42) 職業:浄化師(見習い) HP:100/100 MP:50/50
【スキル】 ・浄化 Lv.1 ・封水 Lv.1 ・一方向拭き Lv.1 ・交差汚染防止 Lv.1 ・ゾーニング Lv.1
【称号】 ・異界の清掃者
「……ステータス? スキル?」
ゲームのような表示だった。いや、ゲームそのものだった。
誠一はファンタジー小説やゲームにはあまり馴染みがなかったが、若い同僚たちが休憩時間に話しているのを聞いたことがある。「異世界転生」「チート能力」「ステータス画面」。そういったものが流行っているらしいと。
まさか、自分がその当事者になるとは。
「嘘だろ……」
呟きながら、スキルの一覧を見つめた。
浄化。封水。一方向拭き。交差汚染防止。ゾーニング。
すべて、清掃業界の専門用語だった。
浄化は言うまでもない。汚れを取り除くことだ。封水は、排水トラップ内の水を管理し、下水からの逆流を防ぐ技術。一方向拭きは、雑巾やモップを一方向にのみ動かし、汚れの再付着を防ぐ手法。交差汚染防止は、異なる区域の汚染物質が混ざらないようにする概念。ゾーニングは、清潔区域と汚染区域を明確に分ける管理手法。
十五年間、誠一が現場で磨いてきた技術が、そのままスキルとして登録されていた。
「これが……俺の能力なのか」
理解が追いつかない。だが、とにかく状況を把握しなければならない。
誠一は周囲を見回した。荒野の中に、自分以外の人影はない。建物もない。道らしきものは、かすかに轍の跡が残っているだけだ。
「まずは、人を探さないと」
水も食料もない状態で、荒野をさまよい続けるわけにはいかない。誠一は轍の跡を頼りに、歩き始めた。
一時間ほど歩いただろうか。
太陽——二つある太陽の位置が、わずかに動いていた。この世界にも時間の流れはあるようだ。
喉の渇きは深刻だった。若返った体とはいえ、水分補給なしでは限界がある。足取りが重くなり始めた頃、前方に何かが見えた。
「人……?」
遠くに、人影があった。
誠一は足を速めた。近づくにつれ、その人影の様子がわかってきた。
倒れている。
道端に、一人の人間が倒れていた。男だ。中年で、粗末な布の服を着ている。行商人か、旅人のようだった。
「大丈夫ですか!」
駆け寄り、体を起こす。男の顔色は悪く、額には脂汗が浮かんでいた。呼吸は浅く、意識が朦朧としている。
「瘴……瘴気に……」
男が何かを呟いた。
「瘴気?」
聞き返そうとしたとき、誠一は気づいた。
男の体から、黒い靄のようなものが立ち昇っている。視認できるほどの濃さではないが、確かにそこにある。そして、臭い。
下水の臭いに似ているが、もっと濃密で、もっと——腐敗した何かの臭い。
「これは……」
誠一の脳裏に、ある映像がフラッシュバックした。
病院清掃の研修で見た、感染患者の隔離病棟。目に見えない病原体が、空気中を漂っている。それを除去するために、どれだけ厳密な手順を踏まなければならないか。
この黒い靄も、同じだ。
何らかの汚染物質。それが、この男を蝕んでいる。
「浄化……」
無意識に、その言葉が口をついて出た。
同時に、右手が熱くなった。
手のひらから、淡い青白い光が溢れ出す。誠一は驚きながらも、その手を男の体に当てた。
光が広がる。
黒い靄が、光に触れた瞬間、蒸発するように消えていく。まるで、汚れを拭き取るように。いや、まさに——
「一方向拭き」
誠一は、光を放つ手を男の体の上で動かした。上から下へ。一方向に。往復させない。汚れを再付着させないように。
黒い靄が、次々と消えていく。男の顔色が、少しずつ良くなっていく。呼吸が深くなり、脂汗が引いていく。
数分後。
男の体から、黒い靄は完全に消えていた。
「あ……あんた、何を……」
男が目を開けた。
「大丈夫ですか。意識はありますか」
「あ、ああ……。俺は確か、瘴気に当たって……」
男は自分の体を確認し、目を見開いた。
「治ってる……? 瘴気が、消えてる……!」
「瘴気というのは、さっきの黒い靄のことですか」
「あんた、まさか……浄化師なのか?」
「浄化師……」
ステータス画面に表示されていた職業名だ。この世界では、そういう存在が認知されているらしい。
「いや、その……俺自身、よくわかってないんです。ここがどこなのかも」
男は誠一の顔をじっと見つめ、それから深く頭を下げた。
「命を救ってもらった。礼を言わせてくれ。俺はダグラス。行商をやってる」
「汐見誠一です。……セイ、と呼んでください」
咄嗟に、異世界風の呼び名を選んだ。
「セイか。変わった名前だな。どこの出身だ?」
「遠い……とても遠いところから来ました」
嘘ではない。
「そうか。まあ、詮索はしないさ。命の恩人だ」
ダグラスは立ち上がり、体の調子を確認するように腕を回した。
「しかし驚いた。瘴気汚染がここまで進んでたら、普通は聖都の神殿に運ばれて、大掛かりな儀式を受けないと治らないんだが……。あんた、本当に浄化師なのか?」
「……たぶん、そうなんだと思います」
「たぶん?」
「自分でも、よくわかってないんです。さっきの……浄化? をしたのも、初めてで」
ダグラスは怪訝な顔をしたが、やがて笑った。
「まあいい。結果的に俺は助かった。あんたがどこの誰でも、恩は恩だ」
「ありがとうございます。それより、水を分けてもらえませんか。ずっと歩いてきて……」
「ああ、もちろんだ」
ダグラスは荷物から革袋を取り出し、誠一に差し出した。誠一は礼を言い、渇いた喉を潤した。
「それで、あんたはどこに向かってるんだ?」
「正直、どこに行けばいいかもわかりません。この世界のことを、何も知らないんです」
「この世界?」
「……俺は、別の世界から来たんです」
言ってしまった。信じてもらえるかどうかわからなかったが、嘘をつき続ける自信もなかった。
ダグラスは目を丸くし、それから顎に手を当てて考え込んだ。
「異界からの来訪者……。噂には聞いたことがあるな」
「噂?」
「ああ。古い文献には、時折、別の世界から人が現れるという記録があるらしい。そういう者は、特別な力を持っていることが多いとか」
「特別な力……」
浄化のスキル。それが、この世界では「特別」なのだろうか。
「瘴帝国の方では、最近そういう噂が流れてるらしいぜ。異界から来た救世主が現れたって」
「瘴帝国?」
「この大陸の東側を支配してる国だ。瘴気を力として使う、物騒な連中さ。まあ、俺たちみたいな一般人には関係ない話だがな」
瘴帝国。瘴気。この世界の構造が、少しずつ見えてきた。
「あんた、行く当てがないなら、俺と一緒に来るか? これから村に向かうんだ。小さな村だが、宿くらいはある」
「……助かります」
「命の恩人を荒野に放っておけるかよ。さ、行こうぜ」
ダグラスは荷物を担ぎ直し、歩き始めた。誠一はその後を追った。
二つの太陽が、ゆっくりと傾いていく。
異世界での、最初の日が暮れようとしていた。




