第十四話 ゾーニングの教え
王宮での生活にも、少しずつ慣れてきた。
誠一は毎朝、日の出とともに起床し、まず自分の部屋を清掃してから一日を始めていた。十五年間の習慣は、異世界に来ても変わらない。床を拭き、窓を磨き、寝具を整える。その単純な作業が、誠一の心を落ち着かせていた。
「セイ、入ってもいいですか?」
ドアの向こうから、リーネの声がした。
「ああ、どうぞ」
リーネが部屋に入ってきた。いつもの白いローブではなく、動きやすそうな訓練着を身につけている。
「今日は特別な依頼があるんです」
「特別な依頼?」
「父上——国王陛下から、直々に」
誠一は眉をひそめた。国王からの依頼となれば、ただの清掃仕事ではないだろう。
「王宮内で、感染症が発生しているんです」
「感染症……」
「厨房の職員から始まって、今では侍女や兵士にも広がっています。熱と腹痛を訴える者が続出していて……」
誠一の表情が引き締まった。
「現場を見せてくれ」
厨房は、王宮の東棟にあった。
広い空間に、大きな竈が並んでいる。鍋や釜、食材の保管庫。数十人の料理人が働くための設備が整っている——はずだった。
「これは……」
誠一は、一目見て問題点を把握した。
まず、動線が混乱している。食材の搬入口と、調理済みの料理を運び出す出口が同じだ。生肉を扱う場所と、野菜を洗う場所の区別もない。排水溝は詰まりかけており、床には水が溜まっている。
「ゾーニングができていない」
「ゾーニング……?」
リーネが聞き返した。誠一は、厨房の中央に立ち、説明を始めた。
「清潔区域と汚染区域を、明確に分けることです。食材を扱う場所では、これが絶対に必要なんです」
誠一は、厨房の床に指で線を引いた。
「ここから左は『汚染区域』。生肉や生魚、土のついた野菜を扱う場所です。ここから右は『清潔区域』。加熱調理済みの料理や、盛り付けを行う場所です」
「なぜ、分ける必要があるんですか?」
「交差汚染を防ぐためです」
誠一は、料理長らしき中年の男性に向き直った。
「生肉を切った包丁で、そのままサラダを切っていませんか?」
料理長は、ギクリとした表情を浮かべた。
「……包丁は、毎日洗っておりますが」
「洗うだけでは不十分です。生肉には、目に見えない汚染物質——瘴気のようなものが付着しています。それが他の食材に移ると、食べた人が病気になる」
「そんな……」
料理長は、信じられないという顔をした。だが、誠一は続けた。
「包丁だけじゃない。まな板も、手袋も、エプロンも。生ものを扱ったものは、清潔区域に持ち込んではいけません」
「しかし、そんなことをしたら、仕事が回らなく——」
「病人が増えて、厨房が閉鎖される方がいいですか?」
誠一の言葉に、料理長は言葉を詰まらせた。
その日から、誠一は厨房の改革に着手した。
まず、区域の分離。赤い線で床に境界を描き、「汚染区域」と「清潔区域」を物理的に分けた。
次に、道具の色分け。生肉用は赤、野菜用は緑、調理済み用は青。それぞれ専用の包丁とまな板を用意し、絶対に混用しないよう徹底した。
そして、手洗いの習慣化。区域を移動するたびに、必ず手を洗う。これだけで、交差汚染のリスクは大幅に減少する。
「こんな……こんな単純なことで、病気が防げるんですか?」
料理長が、半信半疑の表情で聞いた。
「単純だからこそ、効果があるんです」
誠一は答えた。
「汚染というのは、複雑な経路で広がります。でも、入り口を塞いでしまえば、それ以上は広がらない。ゾーニングは、その『入り口』を管理する技術なんです」
一週間後。
新しい感染者の報告は、ゼロになっていた。
「信じられません……」
王宮の医師が、驚きの声を上げた。
「薬も使わず、魔法も使わず、ただ『区域を分けた』だけで、感染症が止まるなんて……」
「魔法や薬は、汚染が広がった後の対処です。でも、広がる前に止められれば、そもそも必要ない」
誠一は、静かに言った。
「清掃というのは、そういう仕事なんです。問題が起きてから対処するんじゃなく、問題が起きないように予防する」
この出来事は、王宮内で大きな話題となった。
「聖浄師セイが、厨房の疫病を止めた」
「魔法も使わず、ただの『掃除』で!」
噂は瞬く間に広がり、誠一の名声はさらに高まった。
だが、それを快く思わない者もいた。
宮廷魔術師団の棟で、不穏な空気が漂っていた。
「聞いたか、あの男の話」
「聖浄師とか言う、よそ者だろう」
「魔法も使えないくせに、我々より上の地位に就きやがって」
団長のレオナルドは、自室で苛立ちを隠せずにいた。
聖浄師。その称号は、百年以上前に消滅したはずだった。宮廷魔術師団が浄化の儀式を担うようになり、聖浄師は不要とされた。
それが今、突然現れた異界人に与えられた。しかも、国王陛下の直接の命令で。
「我々の立場は、どうなる……」
レオナルドは、窓の外を見つめた。
宮廷魔術師団は、聖王国の中で重要な地位を占めていた。浄化の儀式、結界の維持、瘴気汚染の対処。これらは全て、魔術師団の専売特許だった。
だが、聖浄師が現れたことで、その地位が揺らいでいる。
厨房の件が良い例だ。魔術師団が何ヶ月も解決できなかった問題を、あの男は一週間で解決してしまった。
「このままでは……」
レオナルドの目に、暗い光が宿った。
王宮の廊下を、誠一は一人で歩いていた。
夜も更け、人通りはほとんどない。ゴルド老師の元から戻る途中だった。
「……ん?」
足が止まった。
何かが、おかしい。
清掃員としての長年の勘が、異常を告げていた。廊下の空気が、わずかに澱んでいる。普段なら感じない、微かな——
瘴気の臭い。
「誰だ」
誠一は、暗闘に向かって声を発した。
沈黙。
そして——
「死ねェッ!」
闇の中から、黒い影が飛び出した。短剣を握った男が、誠一に襲いかかる。
「っ!」
誠一は咄嗟に身をかわした。短剣が、誠一の頬をかすめる。
「浄化!」
反射的に、右手から光を放つ。青白い光が、刺客を照らした。
「ぐあっ……!」
刺客が怯んだ隙に、誠一は距離を取った。
「お前、何者だ」
「……」
刺客は答えない。黒いローブをまとい、顔は布で覆われている。だが、その体から漏れ出す瘴気の臭いは、誤魔化せなかった。
「瘴帝国の者か?」
「……」
刺客は再び襲いかかってきた。誠一は光を放ちながら、後退する。
「助けを呼ぶぞ!」
「呼んでも無駄だ」
刺客が、初めて声を発した。
「この廊下には、結界が張られている。外には音も光も漏れない」
「結界……」
「お前は、ここで死ぬ」
刺客の動きが速くなる。誠一は防戦一方だった。戦闘の経験がない誠一には、武器を持った相手と戦う術がない。
「くそっ……」
追い詰められていく。壁に背中がぶつかった。もう、逃げ場がない。
刺客が、短剣を振り上げた。
「死ね、聖浄——」
その瞬間。
「させません!」
横から、光の矢が飛んできた。刺客の腕に命中し、短剣が弾き飛ばされる。
「リーネ!」
リーネが、廊下の向こうから駆けてきた。両手から、青白い光を放っている。
「セイから離れなさい!」
「……チッ」
刺客は舌打ちし、身を翻した。窓から飛び出し、闇の中に消えていく。
「待て!」
追いかけようとしたが、リーネに止められた。
「深追いは危険です! それより、怪我は——」
「大丈夫だ。かすり傷だけ」
誠一は、頬に手を当てた。血が滲んでいるが、大した傷ではない。
「なぜ、ここに……」
「嫌な予感がしたんです。セイが戻るのが遅いから、様子を見に来たら——」
リーネの顔は青ざめていた。
「間に合って、よかった……」
「ありがとう、リーネ。助かった」
誠一は、心からの感謝を述べた。
だが、その心の中では、別のことを考えていた。
刺客は、瘴帝国の者だったのか。それとも——
「結界」という言葉が、引っかかっていた。
瘴帝国の工作員が、王宮内に結界を張れるだろうか。それには、内部の協力者が必要なはずだ。
「王宮の中に、敵がいる……」
誠一は、暗い廊下を見つめた。
戦いは、外からだけではない。内側からも、静かに進行していた。




