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清掃員異世界転生_封水の勇者 ~俺の清掃スキルが異世界の穢れを祓うまで~  作者: もしものべりすと


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第一話 残業と排水口

午後十時を回っても、ビルの廊下には蛍光灯の白い光が煌々と灯っていた。


汐見誠一は、いつものように黄色いモップを押しながら、誰もいないオフィスフロアを歩いていた。四十二歳。独身。中堅ビルメンテナンス会社に勤めて十五年になる。肩書きは何もない。ただの日常清掃スタッフだ。


窓の外には、都心の夜景が広がっている。無数のビルが放つ光の粒子が、まるで地上に降りた星のように瞬いていた。だが誠一の目は、その景色ではなく、床に落ちた小さな紙くずに向けられていた。


「ここか」


独り言を呟きながら、紙くずを拾い上げる。デスクの下に潜り込み、椅子の脚に絡まった埃も丁寧に取り除く。誰も見ていない。誰も褒めてくれない。それでも、誠一は手を抜かなかった。


十五年前、この会社に入ったときから、ずっとそうだった。


「誰かがやらなきゃ、汚れは消えない」


亡くなった母がよく言っていた言葉だ。母は小さな旅館で仲居をしていた。客室を整え、廊下を磨き、トイレを清める。地味で目立たない仕事だったが、母はいつも誇らしげだった。


「あんたね、誠一。この世界は放っておくと汚れていくの。誰かが毎日、ちゃんと清めてあげないと」


幼い頃は、その言葉の意味がわからなかった。大人になって、自分も同じ道を歩むようになって、ようやく理解できた気がする。


清掃という仕事は、世界の代謝機能なのだ。


人間の体が老廃物を排出するように、建物も、街も、社会も、日々蓄積される「汚れ」を取り除かなければ機能しなくなる。誠一たち清掃員は、その代謝を担う細胞のようなものだ。目立たないが、なくてはならない存在。


——そう信じて、十五年間やってきた。


だが最近、その信念が揺らぐことがある。


「汐見さん、まだいたんですか」


背後から声がかかった。振り返ると、若い男が立っていた。入社三年目の後輩、田所だ。すでに帰り支度を終えており、カバンを肩に掛けている。


「ああ、もう少しで終わるよ」


「相変わらずですね。そこまでやらなくても、誰も気づきませんよ」


田所の言葉には、悪意はない。ただ純粋な疑問として投げかけているだけだ。だからこそ、誠一には答えにくかった。


「まあ、性分だからな」


「お疲れ様です。俺、先に上がりますね」


「ああ、気をつけてな」


田所の足音が遠ざかっていく。誠一は再びモップを握り、作業を続けた。


三十階建てのこのオフィスビルで、誠一が担当しているのは十五階から二十階までの六フロアだ。毎朝五時に出勤し、オフィスワーカーたちが来る前に一通りの清掃を終える。昼間は別の現場に移動し、夜はまたこのビルに戻ってくる。その繰り返しを、十五年間続けてきた。


給料は安い。昇進もない。資格は「ビルクリーニング技能士二級」を持っているが、それ以上を目指す気力は、いつの間にか失せていた。


結婚もしなかった。いや、できなかったと言うべきか。二十代の頃に付き合っていた女性はいたが、「将来が見えない」と言われて別れた。それ以来、恋愛からは遠ざかっている。


四十二歳、独身、清掃員。


世間から見れば、典型的な「負け組」だろう。誠一自身も、そう思わないわけではない。


だが、仕事に手を抜いたことはない。


トイレの便器を磨くとき、便座の裏側、いわゆる「リム裏」まで必ず確認する。床を拭くときは、一方向に動かす「一方向拭き」を徹底する。往復で拭くと、せっかく取り除いた汚れを再び塗り広げてしまうからだ。排水口のトラップには定期的に注水し、「封水」が切れないように管理する。封水が切れると、下水管からの悪臭が逆流してビル全体に充満してしまう。


こうした細かな作業の積み重ねが、建物の衛生を守っている。誰も気づかない。誰も感謝しない。それでも、誠一はやり続けてきた。


「それが俺の仕事だから」


そう自分に言い聞かせながら。




二十階のトイレ清掃を終え、誠一は最後の巡回に向かった。


このビルには、地下二階に機械室がある。空調設備や電気系統が集中する場所で、通常は清掃の対象外だ。しかし月に一度、誠一は自主的にここを見回ることにしていた。配管の状態を確認し、異常がないかチェックするためだ。


「別にそこまでやらなくていいんだぞ」


以前、エリアマネージャーの黒崎にそう言われたことがある。


「契約外の作業をして、何かあったら責任問題になる。余計なことはするな」


黒崎剛史。三十八歳。誠一の直属の上司だ。入社は誠一より後だが、要領がよく、上への取り入りがうまい。あっという間に出世して、今では複数の現場を統括するエリアマネージャーになっている。


誠一のことは、露骨に見下していた。


「汐見さんさあ、いい加減、自分の立場わかってる? 十五年もいて、まだ現場作業員でしょ。俺なんか五年でここまで来たんだけど」


面と向かってそう言われたこともある。周囲に他のスタッフがいる前で。


「使えない老害」


陰でそう呼ばれていることも、誠一は知っていた。


最近では、シフトを意図的に減らされている。収入が減り、生活は苦しくなる一方だ。だが文句を言える立場ではない。黒崎の言う通り、十五年いても何の肩書きもない自分に、発言権などないのだ。


——それでも、仕事の質だけは落とさない。


それが、誠一の最後の矜持だった。


地下への階段を降りながら、誠一は今日あった出来事を思い返していた。


午後の休憩時間、黒崎が事務所にやってきた。珍しく上機嫌で、周囲のスタッフに自慢話をしていた。


「来月から本社の管理部門に異動になるんだ。現場回りともおさらばだよ」


拍手と歓声。誠一だけが、黙ってコーヒーを飲んでいた。


「汐見さんは? 何か言うことないの?」


黒崎が、わざわざ誠一に話を振ってきた。


「……おめでとうございます」


「ありがとう。まあ、汐見さんには関係ない話だよね。一生現場で便所掃除してればいいんじゃない?」


笑い声。誠一は何も言わなかった。言い返す言葉を持っていなかったし、言い返したところで何も変わらないことを知っていた。




地下二階の機械室は、低い唸り声のような音に満たされていた。


空調のコンプレッサーが稼働する音、配管を流れる水の音、換気扇のモーター音。様々な機械音が混ざり合い、独特の環境音を作り出している。


誠一は懐中電灯を手に、配管沿いを歩いていった。


「異常なし、と」


いつも通りの光景だ。錆びた配管、埃をかぶった機器、薄暗い通路。十五年間、何度も見てきた景色。


——ん?


足が止まった。


何かが違う。


視覚ではなく、嗅覚が異常を告げていた。


「この臭いは……」


下水の臭い。それも、通常の排水口から漂うレベルではない。もっと濃密で、もっと——何か別のものが混じっているような。


誠一は臭いの発生源を探った。懐中電灯の光を左右に振りながら、奥へと進んでいく。


機械室の最深部。普段は誰も立ち入らない区画に、それはあった。


「排水口……?」


コンクリートの床に、見慣れない排水口があった。直径三十センチほどの円形で、金属製の蓋がかぶせられている。しかしその蓋は、わずかに浮き上がっていた。隙間から、異様な臭気が立ち昇っている。


「こんなところに排水口なんてあったか……?」


十五年間、このビルを見てきたが、この排水口の存在には気づかなかった。いや、前はなかったはずだ。あるいは、何かで塞がれていたのか。


臭いは、明らかに封水切れの症状だった。トラップ内の水が蒸発するか、何らかの原因で失われると、下水管と建物内が直結してしまう。悪臭だけでなく、害虫や細菌が逆流してくる危険もある。


「まずは状況を確認しないと」


誠一は腰を落とし、排水口に近づいた。


蓋に手をかける。金属は冷たく、わずかに振動しているような感触があった。


「重い……」


力を込めて持ち上げる。蓋がずれ、隙間が広がった。


その瞬間——


「!」


臭いが、一変した。


下水の臭いではない。もっと古い。もっと深い。腐敗と浄化が入り混じったような、矛盾した芳香。


そして、光。


排水口の奥から、淡い紫色の光が溢れ出した。


「何だ、これ——」


誠一の体が、光に包まれていく。


逃げようとしたが、足が動かない。いや、足だけではない。全身が金縛りにあったように硬直していた。


光は渦を巻き、誠一を中心に螺旋を描いた。視界が歪む。音が遠のく。意識が薄れていく。


最後に見たのは、自分の手だった。


四十二年間、モップを握り続けてきた、節くれだった手。その手が、光の中に溶けていくように消えていった。




——誰かがやらなきゃ、汚れは消えない。


母の声が、遠くで響いた気がした。



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