第8話 決意と秘密の商会
私は何度も、あの光景を思い出してしまう。
――ユリウスを抱き上げる王女殿下。
その横で、レオニードが柔らかく微笑み合う姿。
(……本当の家族のようだった)
胸が締め付けられる。
私のいない未来を見ているかのようで、息が苦しくなる。
(彼が幸せなら、それでいい。……私は邪魔をするべきじゃない)
そう思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。
(ユリウスを産んで、育てて……いつか私は、この家を出ていく)
私はそう決意した。
***
決意は言葉だけではなく、行動にしなければ意味がない。
私はひそかに商会を設立する準備を始めた。
公爵家の倉庫の一室を借り受け、侍女のマリアと共に整理し、棚を設けて果物を並べる。
扱うのは、私が昔から大好きだった南国のフルーツだ。
鮮やかな色と甘酸っぱい香り、太陽を閉じ込めたような濃厚な味わい。
「奥さま、このドライフルーツ、本当に美味しいです」
マリアが目を丸くして頬張る姿に、私は思わず笑った。
「よかった……。これなら商品にできそうね」
「なりますとも! 必ず成功します。私が命を賭けても守りますから」
その頼もしさに、胸が温かくなる。
***
ある日の午後。
ユリウスを揺り籠に寝かせ、机に向かって帳簿を開く。
「ふふ、今日の売り上げは……」
小さな数字を積み上げながら、夢中でペンを走らせる。
その横で、ユリウスがふにゃっと小さく泣いた。
「あら、ごめんなさい。待っててね」
ペンを置き、抱き上げて軽く揺すりながら子守唄を口ずさむ。
ララが子グマの精霊の隣に丸くなり、二匹で赤子を見守るように寄り添っている。
(……この子がいるから、私は強くなれる)
そう思いながら、もう片方の手で帳簿に目を落とす。
母としての務めと、自立の準備。どちらも私にとって欠かせないものだった。
***
秘密を知っているのは、マリアと――もう一人。第二王子セオドア殿下。
彼とは文通を続けていた。
――《君らしいな。果物を干して研究室に持ち込んで、先生に叱られていたのを思い出す》
――《今考えると、あの頃はとても楽しかったです。ドライフルーツを今度は商会で売るつもりです》
――《いい案だ。きっと成功する。君にはそういう力がある》
文字を追うたび、胸の奥に温かさが広がる。
彼の白鹿の精霊を思い浮かべると、月明かりのような静かな光に包まれる気がした。
別の手紙には、こんな一文もあった。
――《もし辛くなったら、僕のところに逃げてもいい》
冗談めかした言葉。けれど文字に滲む真剣さに、胸が揺さぶられる。
私は返事を書いた。
――《冗談でも嬉しいです。けれど、これは私が一人でやり遂げなくてはならないことです》
(それでも……手紙を交わすたびに救われているのは確か)
便箋を閉じながら、ユリウスの寝息に耳を澄ませた。
心の奥にわずかな安らぎが灯る。
***
その夜。
涙を流したまま眠ってしまった私の枕元に、気配が差した。
「セリシア……」
レオニードだった。
彼はそっと頬に触れ、乱れた髪を撫で、眠る私に口づけを落とした。
「……すまない」
囁きは夢の中に溶けていく。
私は気づかないまま、涙を流し続けていた。
彼はしばらく私を抱きしめていたが、やがて立ち上がる。
向かった先は、王女殿下の寝所。
(……やはり、彼の隣にふさわしいのはエリスティア殿下なのね)
夢の底で呟いた言葉が、胸をえぐる。
心臓が痛いほど締め付けられ、暗い闇に沈んでいった。