第3話 初夜の秘密
翌朝、私はまだ重い気持ちのまま目を覚ました。
夜の間じゅう、心は落ち着かず、何度も寝返りを打った。
そんな私の枕元に、マリアが控えめに姿を現した。
彼女の肩には、ちょろちょろと落ち着きなく動くリスの精霊が乗っている。
その様子は愛らしかったけれど、マリアの表情はいつになく真剣だった。
「……奥様。どうか気を落ち着けてお聞きくださいませ」
「なにかしら……?」
マリアは周囲を確認し、声を潜めた。
「昨夜の初夜で、公爵様は王女殿下に“あなたを愛することはない”と仰ったそうです」
その言葉に、胸が跳ね上がった。
(……そんなことを、彼が? 本当に?)
一瞬、信じられないほどの希望が心に広がる。
けれどすぐに、不安が忍び寄った。
(マリアは、私を安心させるために嘘をついているのかもしれない……)
慰めのための作り話。
そう考えると、灯った希望はあっという間に冷えきってしまった。
***
それからの日々、私は不思議な矛盾の中にいた。
昼間、レオニードは公爵としての執務に励んでいた。
その隣には、正妻として務めを果たす王女殿下が座っている。
金の髪が光を受け、彼と並ぶ姿は本当に絵画のよう。
私もこれまでと同じく書類に目を通し、補佐をしていた。
けれど役人や使用人の視線は、自然と王女へと注がれる。
「やはり殿下がいてくださると心強い」
「この家も安泰ですな」
そんな声が耳に残り、胸に鋭い棘が突き刺さる。
(……それは、ずっと私が担ってきた役割なのに)
けれど――昼下がりになると、彼は必ず私の部屋を訪れてくれた。
ノックの音がして、扉が開く。
背の高い彼の姿とともに、後ろにはどっしりとした熊の影が寄り添っていた。
レオニードの守護精霊――大きな熊は、静かに部屋の隅へ腰を下ろす。
けれどその金色の目は、主と私をじっと見守っていた。
「体調はどうだ」
「ええ、大丈夫。むしろ元気すぎるくらい」
「無理はするな。お前の体は、もうセリシア一人のものじゃないんだから。」
彼の視線が自然と私の腹に落ちる。
まだ膨らみはわずかだけれど、確かに小さな命が宿っている。
そのことを思うと、不思議と胸が温かくなった。
「……ありがとう」
「俺の方こそ感謝している。お前がいるから、俺は公爵家を支えられる」
その言葉に、笑みがこぼれる。
幼い頃から、共に学び、走り、支え合ってきた年月。
あの頃からずっと続く絆を、確かに感じる。
黒猫の精霊ララが机に飛び乗り、紅茶のカップを覗き込んだ。
「ララ、だめよ」
私が慌てて手を伸ばすと、レオニードが先にララを抱き上げた。
その瞬間、熊の精霊が「ぐるる」と低く喉を鳴らし、ララの方へ顔を近づける。
ララは怯むどころか、ぴんと尾を立てて鼻先にすり寄った。
思わず笑いがこぼれる。
「……こいつはお前に似て、怖いもの知らずだな」
「ひどい。私はこんなに慎ましいのに」
「ふっ……そうだったか?」
珍しく、彼が笑った。
熊の精霊までも、どこか柔らかく目を細めているように見えた。
胸がぎゅっと締め付けられる。
――どうしてこんなに優しいのに。どうして夜になると、殿下のもとへ行ってしまうの。
「紅茶、おかわりは?」
「頼む」
私はカップに紅茶を注ぎながら、胸に渦巻く不安を必死に隠した。
――この時間が、永遠に続けばいいのに。
***
けれど夜になると、すべてが揺らぐ。
廊下を進む彼の背を、窓辺から見送るたび、胸が軋んだ。
向かう先は、王女殿下の寝所。
侍女たちが囁く声が聞こえる。
「やはり公爵様は殿下を大切に思っていらっしゃるのね」
「ご夫婦らしくて素敵ですわ」
昼間は私とお茶をしてくれるのに、夜は殿下のもとへ。
(どちらが本当の彼なの……?)
マリアの言葉も、慰めの嘘だったのではないかと疑心暗鬼になる。
私は膝を抱え、涙をこらえた。
そのとき、ララが膝に飛び乗り、頬を舐めてくれる。
「ララ……ありがとう」
けれど胸の奥の影は晴れなかった。
私は彼を信じたい。
でも信じることが、こんなにも苦しいなんて――。