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公爵の愛人に落とされても、黒猫精霊はいつもそばで守ってくれます  作者: 風谷 華


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第21話 南国への誘い

 執務室の窓から差し込む午後の光に、果実染めの布がきらめいて見えた。

 机に広げられた帳簿と新商品の髪飾りを眺めていた私は、思わず声を漏らしてしまった。


 「……一度でいいから、本場の南国に行ってみたい」


 ぽつりとこぼれた言葉。

 自分でも驚いた。けれどこの一年、南国のフルーツを扱う商会を育ててきて、どうしてもその土地を自分の目で確かめてみたいと思うようになっていた。


 隣で報告書に目を通していたセオドア殿下が顔を上げる。

 「南国に?」

 深い青の瞳がわずかに揺れ、それから、穏やかな笑みを浮かべた。


 「君が望むなら、ぜひ行こう」


 「えっ……!」

 私は目を見開いた。

 「そ、そんな簡単に……殿下には執務もおありでしょう?」


 殿下はゆっくりと首を振った。

 「毎日、王宮から君のいる館に通っている僕にとって、執務の合間に君と過ごす時間こそが救いだ」


 胸が熱くなる。

 そう――私は知っている。

 ほんの少し前、殿下ははっきりと「君が好きだ」と告げてくれた。

 だから、この言葉もまた、私を想ってのものだとすぐにわかってしまう。


 (……殿下が私を好きだと知っていて、それでも一緒に旅に行きたいなんて……私、甘えすぎじゃない?)


 「……でもこれは、あくまで商会の発展のためで……」

 しどろもどろに言葉をつなぐ私に、殿下は一歩近づいた。


 「名目はそれでもいい」

 低く落ち着いた声で、静かに告げる。

 「でも僕にとっては、君と一緒に旅に出られることが、何よりも嬉しい」


 そう言って、私の手をそっと取った。


 ――熱い。


 大きくて力強いのに、包み込むように優しいその手。

 心臓が跳ね、体の芯まで熱が広がる。


 「……殿下……」

 視線が絡む。

 深い青の瞳に映る自分から、目を逸らせない。


 呼吸が浅くなり、唇が震える。

 (……キスされる……?)

 怖いのに、期待してしまう。

 私は思わず目をぎゅっと閉じ、ほんの少し唇を開けて――受け入れる準備をしてしまった。


 ……けれど。


 殿下は一瞬だけ私の手を強く握りしめ、それから静かに離した。


 ……来なかった。


 はっとして目を開ける。

 その瞬間、私は自分が目を閉じて待っていたことに気づき、顔から火が出るほど熱くなる。

 (わ、私……何をしてるの!? 殿下はそんなつもりじゃなかったのに!)


 恥ずかしさに耐えきれず視線を逸らしたとき、ちらりと見えた殿下の頬も真っ赤に染まっていた。

 深い青の瞳がかすかに揺れ、彼が一瞬息を整えるのを私は見逃さなかった。

 (……殿下も、気づいてた……? 私が、キスを期待してたって……)


 けれど彼は、何も言わずに真面目な顔に戻った。

 (……殿下は、ちゃんと私から返事をもらうまでは、手を出さないと決めているのね)

 その誠実さが、余計に胸を苦しくした。


 (……私、殿下のことが好きなんだ)

 自覚した瞬間、嬉しさと後ろめたさが入り混じり、心がぐらぐらと揺れた。

 (でも……記憶を失った私が。かつて公爵の愛人で、子を産んだ女だった私が……殿下の想いを受け止めてしまっていいの?)


 「……旅には、侍女のマリア、それに護衛を連れて行こう。明日から出発でいいかな?」

 殿下は何事もなかったように告げる。

 けれどその声音の奥に、わずかな熱が滲んでいた気がして、私は余計に胸が高鳴った。


 ララが机の上から「にゃあ」と鳴き、尻尾をぴんと立てる。

 まるで「惜しかったわね」と茶化しているかのよう。

 白鹿が窓辺に立ち、じっとこちらを見ている。

 その姿は「もっと素直になれ」と告げているようで、私はたまらず視線を逸らした。


 ***


 旅立ちの前夜。

 寝室の窓を開けると、月明かりが静かに差し込んでくる。


 ここに来てから毎日、セオドア殿下が王宮から足を運んでくれる優しさに救われてきた。

 朝ごはんを共にし、帳簿を一緒に眺め、ときには無言で寄り添ってくれる背中に、どれほど安心を覚えただろう。


 (……記憶を失った私が、それでも笑っていられるのは、殿下のおかげ)


 でも――。

 好きだからこそ、怖い。

 この想いを受け止めてしまえば、もう後戻りはできなくなる。


 ララが膝に乗り、喉を鳴らす。

 中庭には白鹿が現れ、月を背にして静かに立っていた。

 その姿は、これからの旅を祝福しているようにも見えた。


 私はララの柔らかな毛を撫で、小さく呟いた。

 「……明日からの旅で、何か変わるのかしら」


 答えはまだわからない。

 けれど胸の奥は、期待と不安でいっぱいだった。


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