第20話 小さな優しさ
朝の食卓に、柔らかな光が差し込んでいた。
白いクロスの上に並んだ料理からは、まだ湯気が立ち上っている。
私はスプーンを手に取り、そっと皿に口をつけた。少し酸味の強い果物のソースが添えられているのを見て、思わず表情が曇る。
その瞬間、隣に座るセオドア殿下が何気なく皿を引き寄せ、私の分を自分の皿に移してしまった。
「殿下……!」
驚いて声を上げると、彼は涼しい顔で答える。
「君が苦手そうにしていたから」
耳が熱くなる。
「……お気遣いなく」
かすれた声でそう言うと、殿下は穏やかに笑った。
テーブルの端では、白鹿が静かに佇み、まるで私たちを見守っているかのようだった。
ララがテーブルに前足をかけて「にゃあ」と鳴き、茶化すように尻尾を揺らす。
余計に頬が熱くなり、私は思わず視線を落とした。
「……頭の傷も、もうずいぶん楽になりました」
少しでも取り繕うように、私は話題を変えた。
セオドア殿下は目を細めて頷く。
「よかった……君が無理をしなくて済むのなら、それが一番だ」
その穏やかな声が、胸に染みる。
***
館の奥にある執務室は、私にとってもう一つの居場所になっていた。
商会を立ち上げてから――気づけば一年が経っていた。
机の上には帳簿が積まれ、整然と並んでいる。
ここは、殿下が私のために用意してくれた館の中。限られた信頼できる人しか出入りを許されない。
それでも、ここから商会は動いていた。
当初は南国のフルーツを使ったジャムやドライフルーツだけだった。
けれど今では、カフェは七店舗にまで広がり、雑貨の展開も始まっている。
果実を染料に使った色鮮やかな布で仕立てた小物入れやバッグ。
果実の形を模した髪飾りやリボン。
「カフェに来た記念に」と、お土産として手に取る人が増えたのだ。
マリアや従業員たちの協力もあり、商会は着実に成長を続けていた。
帳簿に視線を落としながら、私は小さく息を吐く。
(……私でも、何かを成し遂げられるんだ)
心の奥には説明できない空虚さが残っている。けれど、それでも確かに人を笑顔にできているのだと、少しだけ胸を張ることができた。
***
「すごいな」
声に振り向くと、セオドア殿下が執務室に立っていた。
彼は帳簿を手に取り、真剣な眼差しで数字を追っている。
「君は本当にすごい。商会を始めて一年で、ここまでにした」
「……でも」
私は視線を落とす。
「私は記憶を失った女です。失った過去を取り戻せないまま、こんなふうに笑っていていいのでしょうか……」
殿下は帳簿を閉じ、まっすぐに私を見つめた。
「過去がどうであれ、君は今を生きている。その姿を、僕は誇らしく思う」
真摯な言葉に、胸が熱くなる。
思わず頬が赤くなり、私は目を伏せた。
ララが机の上に飛び乗り、「にゃあ」と鳴いた。
まるで「もっと素直になれば?」とでも言うように。
私は苦笑し、ララの頭を撫でた。
***
夜。執務室。
机の上に広げた帳簿の端で、ララが丸くなって眠っている。
その寝顔を見ながら、私はぽつりと呟いた。
「……ねえ、ララ。私は記憶がなくても、幸せになっていいのかしら」
窓の外を見ると、中庭には白鹿が月明かりを浴びて静かに歩いていた。
その姿はまるで「答えは急がなくていい」と告げているように見えた。
胸の奥に残る空虚さを抱えたまま、私は机に突っ伏し、静かに眠りに落ちていった。




