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公爵の愛人に落とされても、黒猫精霊はいつもそばで守ってくれます  作者: 風谷 華


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第19話 帰ってください

 頭の奥で、ずきん、と鋭い痛みが走った。

 視界がぐらつき、思わず顔をしかめる。


 「セリシア!」

 レオニードが駆け寄ってくる。

 伸ばされた手が私を掴もうとする――その前に、別の温かな腕が私を支えた。


 「大丈夫か!」


 低く落ち着いた声。

 セオドア殿下が私の肩を抱き、しっかりと体を支えてくれていた。

 その安定した腕の中で、ようやく呼吸を整えることができる。


 けれど、胸の奥はずっと苦しかった。


 「……ごめんなさい」


 私は震える声で言った。

 「……帰ってください」


 その言葉に、レオニードの表情が強張った。

 まるで、胸の奥を刃で突き刺されたような顔。


 「セリシア……!」

 彼は切実に私の名を呼ぶ。

 「君は僕のすべてなんだ! 記憶をなくしていてもいい、何も思い出せなくてもいい……! それでも、僕には君が必要なんだ!」


 蒼い瞳が必死に私を捕らえる。

 その光は熱を帯びていて、涙に濡れているようにも見えた。


 「戻ってきてくれ……! ユリウスも待っているんだ!」


 胸が激しく揺れた。

 ユリウス――その名を聞いた瞬間、心の奥で何かが震えた気がする。

 けれど、記憶の霧は晴れない。


 「……やめてください」


 私は小さく首を振った。

 「記憶がないのです。あなたがどんなに必死に言ってくださっても……どうすればいいのかわかりません」


 レオニードは言葉を失い、立ち尽くした。

 唇が震え、何かを言おうとするが声にならない。


 「……ごめんなさい。帰ってください」


 その一言は、私自身をも傷つけた。

 胸が裂けるように痛い。

 でも、そう言わずにはいられなかった。


 傍らのクマの精霊は、重たく頭を垂れた。

 子グマが「くぅん」と切ない声を漏らし、私を振り返る。

 小さな前足を伸ばし、何かを訴えるように空をかく。


 ララが枕元で「にゃあ……」と鳴いた。

 その声は弱々しく、まるで涙に濡れているように聞こえた。


 けれど私は目を伏せ、彼らを見ることができなかった。


 レオニードは、もう一度私の名を呼びかけようとした。

 けれど結局言葉にならず、重苦しい沈黙のまま、ゆっくりと背を向けた。


 足音が遠ざかっていく。

 クマと子グマが、何度も何度もこちらを振り返りながらついていく。

 扉が閉じられる直前まで、子グマの瞳が切なく光っていた。


 静寂。

 残された部屋に、私とセオドア殿下、そしてララだけが残る。


 私は震える手で胸を押さえ、必死に呼吸を整える。

 殿下はそっと私の背を撫で、落ち着くまで何も言わずに寄り添ってくれていた。

 その手のひらの温もりが、今の私を唯一現実に繋ぎ止めていた。


 やがて、彼が低く呟いた。


 「……セリシア。君を失いたくない」


 その声は静かで、けれど強い決意に満ちていた。

 私は答えることができず、ただララの体に頬を埋め、震える唇を噛みしめた。


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