第14話 穏やかな日々
朝、窓辺に差し込む柔らかな光と、控えめなノックの音で目を覚ます。
「おはよう、セリシア。朝食を一緒にどうかな」
低く落ち着いた声が扉越しに響いた。
毎朝のように訪ねてくるその声には、不思議な安心感があった。
扉を開けると、第二王子セオドア殿下が変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて立っている。
背後には白鹿の精霊が佇み、朝の光を浴びて角が神々しくきらめいていた。
「殿下……毎朝お時間をいただいてしまって、本当に申し訳ありません」
「謝る必要はない。僕が君と食卓を共にしたいんだ」
いつも通り淡々とした言い方なのに、なぜか胸の奥がじんわりと温かくなる。
食堂に並んだ席に座ると、ララがすぐさまテーブルに前足をかけ、「にゃあ」と鳴いた。
「ララ、だめでしょう?」
叱る私の横で、セオドアはふっと笑い、パンを小さく裂いてララの前に置いてやる。
「……殿下、甘やかしすぎですわ」
「精霊だって君を支えているんだ。少しくらいご褒美をあげてもいいだろう」
その優しさに、思わず口元が緩む。
白鹿が静かに鼻を鳴らし、まるで「やれやれ」とでも言いたげにこちらを見ているのがおかしくて、さらに笑みがこぼれた。
***
この半年の間に、アーデル伯爵夫妻や兄も何度か訪ねてくれた。
母は会うたびに涙ぐみ、私の手を両手で包み込んで「痩せていない?」「眠れているの?」と矢継ぎ早に問いかけてくる。
私は笑って「大丈夫ですわ」と答えるけれど、そのたびに母は頬を撫で、涙をこぼすのだった。
父は多くを語らない人だが、帰り際に一度だけ肩を抱き、「お前は本当に、よくやっている」と低く囁いてくれた。その短い言葉に胸が熱くなった。
兄はいつも明るく振る舞いながらも、その目には心配の色が滲んでいる。
「無理はするな。いつでも家に戻ってきていいんだぞ」
そう言って頭を軽く撫でてくれる手に、子供の頃に戻ったような安心感を覚えた。
けれど――公爵夫妻。レオニードと王女には、この居場所は知らせていない。
その事実が、胸の奥に小さな棘のように刺さり続けていた。
***
商会の仕事も、この屋敷で続けていた。
帳簿を広げる私の隣で、ララが紙の上に丸くなって眠り込む。
「ララ、そこは仕事の邪魔です」
笑いながらどかすと、マリアが「奥さま、ララも手伝っているつもりなんですよ」と冗談めかして、新しい報告書を差し出してくれる。
ユリラ商会は順調に拡大していた。
南国のフルーツを使ったカフェは評判となり、ついに三店舗目がオープン。
「奥さま、また新しいお客様からご注文が入っています」
マリアが嬉しそうに報告するのを聞きながら、私は小さく笑った。
(ユリウスを置いてきた私でも……何かを成せているのかしら)
少しだけ、自分を誇らしく思えた瞬間だった。
セオドアも時折訪ねてきては、帳簿を一緒に眺めてくれる。
「本当にすごい。ここまで大きくしたのは君の力だ」
「いいえ、支えてくださる方々がいたからです」
そう首を横に振ると、彼は真剣な眼差しで言った。
「君は自分を過小評価している。僕は……君を誇らしく思っている」
胸の奥が熱くなり、視線を逸らした。
***
しかし、夜になると心は静かに沈んでいく。
ユリウス。
あなたは今、どんな風に眠っているの?
夜泣きをしたら、誰が抱いてくれるの?
あなたは笑っているの?
考えるたび、胸が裂けそうになる。
本当なら、私の腕の中で眠っているはずだった。
母の声を聞かせてやりたかった。抱きしめて「大丈夫よ」と伝えてやりたかった。
ララが膝に飛び乗り、喉を鳴らし、柔らかな毛並みを押し付けてくれる。
その温もりに救われながらも、ユリウスの体温には届かない。
「……会いたい。抱っこしてあげたい。お母さまはここにいるのよって、伝えたいのに」
小さく呟き、ララの体に顔を埋める。
窓の外では白鹿が中庭を静かに歩いていた。
まるで「まだ立ち止まっていてもいい」と告げているかのように。
その夜もまた、ユリウスを抱けない腕のソワソワに耐えながら、私は目を閉じた。




