第9話 ダリアの試練
帝国の首都ルミナリスの夜空に、無数の魔法陣が浮遊していた。青白い光が石畳に幾何学的な影を落とし、街全体を監視の網で覆っている。悠斗は屋根の上から街を見下ろしながら、右手を強く握りしめた。指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥で渦巻く感情は収まらない。
カインとの戦いから三日。復讐を果たす寸前で手が止まった。カインの瞳に宿っていた恐怖と絶望——それは悠斗が期待していた光景ではなかった。
「まだ起きてるの?」
リアが心配そうな表情で現れた。エルフの耳がわずかに震えている。
「眠れない」悠斗は素直に答えた。「カインの顔が頭から離れないんだ。あの時の彼の目...まるで溺れそうな子供のようだった」
リアは悠斗の隣に腰を下ろした。「後悔してるの?」
「分からない。復讐のために力を求めてきた。でも、いざその時になると...俺の手が止まった。なぜだ?」
「それが人間らしさよ」リアの声は夜風のように優しかった。「憎しみだけでは人は生きられない。あなたの心には、もっと大切なものがあるから」
その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。ミラの気配だ。
「ロマンチックな時間の邪魔をしてしまったかしら?」ミラが現れたが、表情に普段の軽やかさはない。「帝国の動きが活発になってる。それに...これを見て」
ミラが取り出した水晶球に、帝国宮殿の一室が映し出された。そこに立っていたのは、長い銀髪と氷河のような青い瞳を持つ美しい女性。その美しさには人を凍らせるような冷たさが宿っている。
「ダリア...」ミラが呟いた。「帝国の真の支配者」
画面の中の女性——ダリアが微笑んだ。その笑顔は美しいが、どこか悲しみを湛えている。
「星川悠斗。私はあなたに会いたいと思っています。明日の夜、古き魔法陣の遺跡で待っています。一人で来なさい」
声が直接頭の中に響き、水晶球の映像が消えた。
「罠よ」リアが即座に言った。「一人で行くなんて——」
「だめだ」悠斗が遮った。「彼女の狙いは俺だ。君たちを巻き込むわけにはいかない」
「私にも似たような経験がある」ミラが突然口を開いた。その声から皮肉さが消えていた。「復讐心に支配されて、大切なものを見失いそうになった」
ミラの瞳に涙が浮かんだ。「私の家族は帝国の錬金術実験の材料にされた。生きたまま、魂を抽出されて...私だけが隠れて生き延びた」
ミラの脳裏に、あの日の記憶が蘇る。研究所の白い床に倒れる両親。弟の小さな手が力なく垂れ下がっている光景。
「私は復讐のために錬金術を学んだ。帝国の研究者たちを一人ずつ殺していった。でも、復讐を果たした時、私の心には何も残らなかった。空虚だけが残った」
頬を一筋の涙が流れた。「だから理解している。復讐は終わりではない。ただの通過点なの」
翌日の夜、悠斗は古き魔法陣の遺跡に向かった。リアとミラの制止を振り切って。
遺跡は街の外れ、枯れた森の奥にあった。古代文明が残した巨大な石の円形建造物で、無数の魔法文字が複雑な幾何学模様を描いている。月光がその文字を照らし、まるで生きているかのように脈動していた。
「よく来ましたね」
背後からダリアの声。振り返ると、実物の彼女は映像以上に美しく、そして深い悲しみを纏っていた。
「あなたが帝国の黒幕か」
「黒幕なんて下品な言葉ですね」ダリアは自嘲的に微笑んだ。「私は単に、この世界の秩序を維持しているだけ。かつての私のように、道を踏み外す者が現れないよう」
「民衆を苦しめて?」
「私もかつて、あなたと同じでした」ダリアが魔法陣の中央に歩いていく。「愛する者を奪われ、復讐に燃えた一人の少女でした」
ダリアの瞳に遠い記憶の痛みが宿る。「百年前...小さな村が帝国軍に襲われ、恋人のエリオットが目の前で斬り殺されました。私は絶叫し、復讐を誓った」
彼女の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。血まみれで倒れるエリオットの姿。彼が最期に見せた、彼女を気遣う優しい微笑み。
「私は禁断の魔法を学び、帝国軍を一人で壊滅させました。関係者を、その家族を、すべてを殺した。でも...」ダリアの声が震えた。「復讐を果たした時、私の心は完全に空っぽになっていた。エリオットは戻らない。私の手は血に染まり、心は氷のように冷たくなっていた」
悠斗の心が揺れた。ダリアの痛みが、まるで自分の胸に突き刺さるようだった。
「それで帝国を支配することにしたのか?」
「違います」ダリアが首を振った。「私は理解したのです。復讐の連鎖を断ち切るには、誰かが憎まれ役になる必要があると。だから私は、すべての憎しみを一身に背負うことにした。帝国の皇帝を操り、魔王という虚像を作り、民衆の怒りを一点に集中させる。そうして百年間、この世界の平和を維持してきた」
「それは...」悠斗の声が震えた。「あまりにも重すぎる」
「でも必要なことでした」ダリアの瞳に深い孤独が宿る。「私のように復讐に狂い、すべてを失う者が現れないよう...」
「そんな必要はない!」悠斗が叫んだ。胸の奥で怒りが燃え上がる。「理解し合えば——」
「理想的ですね」ダリアが笑った。その笑い声に絶望が込められていた。「でも、あなたはまだ選択していない。復讐心を捨てられますか?」
悠斗の中で感情が爆発した。錬金術の力が体を駆け巡り、手の平に青白い光が宿る。
「そう、その怒り。その力」ダリアの瞳が光った。「復讐心こそが、あなたを強くした原動力。それを否定できますか?」
「俺は...俺は...」悠斗の心が激しく揺れる。復讐への渇望と、仲間への愛情が激突する。
ダリアが両手を広げると、魔法陣が眩い光を放った。古代の魔法が悠斗を包み込み、彼の意識を別次元に引きずり込む。
その瞬間、悠斗の心に無数の映像が流れ込んだ。帝国に虐げられる民衆たち。戦争で家族を失う子供たち。そしてカインの過去——妹を人質に取られ、悠斗を裏切らざるを得なかった彼の絶望。裏切りの瞬間、彼が流した涙。
「見えましたか?」ダリアの声が響く。「彼もまた被害者だった。あなたの復讐心は、真の敵を見誤らせていた」
「だからといって...!」
悠斗の力が完全に暴走した。錬金術の光が遺跡全体を包み、石材が砂に変わり、砂が金属に、金属が炎に変わる。制御を失った力が周囲を破壊していく。地面が裂け、古代の建造物が崩れ始める。
「その力の正体を教えてあげましょう」ダリアは嵐の中でも冷静だった。「それは古代の錬金術師たちが残した『創造と破壊の理』。世界の理そのものを書き換える力です」
悠斗は膝をついた。力が彼自身の生命力を蝕んでいく。呼吸が荒くなり、視界がぼやける。心臓が破裂しそうなほど激しく鐓動する。
「しかし」ダリアが近づいてくる。「その力を制御するには、強靭な精神力が必要です。復讐心のような単純な感情では、あなた自身が破滅します」
力の暴走が加速する。このままでは遺跡だけでなく、街まで巻き込んでしまう。悠斗の心に恐怖が走った。リアとミラの顔が脳裏に浮かぶ。街の人々の顔も。
「やめろ...やめてくれ...」悠斗が呻いた。「俺は...俺は復讐なんて...」
その時、心の奥深くでリアの声が響いた。『あなたの心には、もっと大切なものがある』
ミラの言葉も聞こえる。『復讐は終わりではない。ただの通過点』
そして、カインの苦悶に満ちた表情。彼の流した涙。彼もまた、悠斗と同じように苦しんでいたのだ。
「違う...」悠斗が震え声で呟いた。「俺が求めていたのは復讐じゃない。俺は...理解したかっただけだ。なぜ俺が裏切られたのか。なぜこの世界は歪んでいるのか」
悠斗は震える手を胸に当てた。そこにあるのは復讐心だけではない。仲間を想う気持ち、この世界を変えたいという希望、そして...カインをも含めた、すべての人を理解したいという願い。
「俺は...」悠斗の声が強くなっていく。「憎しみより、理解を選ぶ」
その瞬間、力の暴走が収まった。錬金術の光が静かに消え、周囲に平静が戻る。
「見事ですね」ダリアが拍手した。その表情に、初めて本当の微笑みが浮かんだ。「あなたは選択した。復讐ではなく、理解を」
悠斗は立ち上がった。体は震えているが、心は不思議と軽やかだった。
「復讐は過去に縛られること」ダリアの表情が大きく和らいだ。「真の正義は未来を創造することです。あなたは正しい道を選んだ」
「あんたは...本当は何者だ?」
「私は百年間、この世界の憎しみを一身に背負ってきた愚かな女です」ダリアが微笑んだ。「でも、あなたのような人が現れたなら...もう私の役目は終わりかもしれません」
「そんなことない」悠斗が首を振った。「一人で背負う必要なんてない。みんなで分かち合えば——」
「理想的ですね」ダリアの瞳に希望の光が宿った。「でも、それを実現するのは容易ではありません」
「それでも俺は諦めない」悠斗が決意を込めて言った。「カインも、帝国の人々も、みんなを理解したい。憎しみじゃなく、理解で世界を変えたい」
その時、慌ただしい足音が聞こえた。
「悠斗!」
リアとミラが息を切らして駆けつけてきた。リアの頬には涙の跡があり、ミラの服は走ってきた際に破れている。
「大丈夫?」リアが彼の手を握った。「遺跡が光っているのが見えて...死んでしまったかと思った」
「心配したじゃない」ミラも震え声で言った。「もう二度と一人で行かないで」
悠斗は二人を見つめた。彼女たちの心配そうな表情、必死に彼を追いかけてきた姿。すべてが彼への愛情の証だった。
「ありがとう...」悠斗の声が震えた。「俺は...俺は長い間、復讐に囚われていた。でも今、やっと分かった」
振り返ると、ダリアの姿はもう消えていた。
「俺が本当に戦うべき相手が誰なのか、やっと分かった」悠斗は夜空を見上げた。「それは俺自身の心の闇だった。復讐心という名の、心を縛る鎖」
「でも...」悠斗の声に迷いが滲む。「まだ怖いんだ。カインを赦すことが。帝国を理解することが。復讐を手放すことが」
リアが悠斗の頬に手を当てた。「迷っても良いのよ。怖がっても良い。でも、あなたはもう一人じゃない」
「そうよ」ミラも微笑んだ。「私たちがいる。一緒に歩んでいこう」
悠斗の瞳に涙が浮かんだ。「俺は...本当に赦せるだろうか?理解できるだろうか?」
「できるわ」リアが断言した。「なぜなら、あなたはもう憎しみより愛を選んだから」
「復讐の錬金術師から、希望の錬金術師への転身ね」ミラが優しく笑った。
悠斗は二人の手を取った。「ありがとう。君たちがいなければ、俺は道を見失っていた」
三人は遺跡を後にした。悠斗の心に、新しい決意が燃えていた。それは復讐ではない、真の理解への道。険しい道のりになるだろうが、もう一人ではない。
街に戻る道すがら、悠斗は静かに誓った。この力を、憎しみのためではなく愛のために。破壊のためではなく創造のために。
そして、いつの日かカインと、帝国の人々と、真の和解を築けると信じて。
月が雲間から顔を出し、三人の影を長く伸ばした。その影は、まるで希望への道標のように、未来を指し示していた。




