第2話 奈落の闇と禁断の覚醒
奈落の迷宮の最下層は、まさに地獄だった。
悠斗は湿った石壁に背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。左腕の傷口からは血が滴り続け、破れた制服は魔物の爪痕で無残な姿になっている。
「畜生…カイン…」
呟きながら、彼は震える手で錬金術書のページをめくった。古代文字で書かれた内容は理解できないはずなのに、なぜか意味が頭に流れ込んでくる。まるで、この知識が最初から自分の中にあったかのように。
『基本錬金術・第三章 物質分解理論』
文字が光り、悠斗の脳裏に複雑な図式が浮かび上がった。物質の構造を理解し、分子レベルで分解・再構築する理論。彼は無意識に地面の小石を手に取り、集中した。
「分解…そして再構築…」
小石が淡い光に包まれ、みるみるうちに形を変えていく。固い石が柔らかい粘土のようになり、やがて鋭利な小刀の形に変化した。
「す、すげぇ…これなら…」
初めて成功した錬金術に、悠斗の心に復讐への希望が灯った。この力があれば、あいつらを見返せる。今度は俺が、カインたちを絶望に突き落としてやる。
だが、その直後に心の奥底で小さな疑問が囁いた。
でも…これで本当にいいのか?
悠斗は首を振り、その疑問を振り払った。あいつらが俺にしたことを思えば、復讐は当然だ。
その時、迷宮の奥から低い唸り声が響いてきた。悠斗は慌てて立ち上がり、手にした石の刃を構える。暗闇から現れたのは、赤い眼をした巨大な狼のような魔物――ヘルハウンドだった。
「来い…!」
悠斗の中で復讐心が燃え上がった。この魔物を倒せれば、自分の力を証明できる。カインたちに俺の本当の強さを見せつけてやる。
魔物は悠斗を見つけると、鋭い牙を剥き出しにして襲いかかってきた。悠斗は石の刃を振り回すが、刃は魔物の厚い毛皮を傷つけることすらできなかった。
「なんで効かない!?俺の力はこんなもんじゃない!」
ヘルハウンドの爪が悠斗の頬を掠め、血が飛び散る。絶体絶命の瞬間、一本の矢が魔物の眼を貫いた。
「きゃん!」
ヘルハウンドは苦痛の声を上げ、よろめく。暗闇から現れたのは、銀髪に長い耳を持つ少女だった。エルフ――悠斗は異世界の知識から、彼女の種族を理解した。
「人間…?なぜこんな場所に」
少女は弓を構えたまま、警戒心を隠そうともしなかった。翠の瞳は美しいが、その奥には深い不信が宿っている。
「あ、ありがとう…」悠斗は息を切らしながら言った。「君が助けてくれなかったら…」
「勘違いしないで」少女は冷たく言い放った。「あなたを助けたわけじゃない。この魔物が邪魔だっただけよ」
そう言いながらも、彼女は悠斗の傷を見て、わずかに眉をひそめた。その微妙な表情の変化を、悠斗は見逃さなかった。
「君も…この迷宮に落とされたのか?」
少女は答えなかったが、その沈黙が答えだった。悠斗は立ち上がり、彼女に向き直る。
「俺は星川悠斗。君の名前は?」
「…リア」
短く答えた後、リアは踵を返そうとした。しかし、悠斗の次の言葉が彼女の足を止めた。
「一緒に行こう」
「は?」
「一人じゃ、この迷宮を抜けるのは無理だ。お互いに」
リアは振り返り、悠斗を見詰めた。人間への不信と、しかし彼の真摯な眼差しに心が揺れているのがわかった。
「人間は…信用できない」リアは小さく呟いた。「いつか必ず裏切る」
その言葉に、悠斗の胸がズキンと痛んだ。カインの裏切りが脳裏をよぎる。
「…俺も、裏切られた」
悠斗の声には、深い悲しみが込められていた。リアはその声音に何かを感じ取ったのか、足を止めた。
「人間に?」
「ああ。一番信頼していた友達に」
悠斗は拳を握りしめた。だから今度は、俺があいつを裏切ってやる。同じ痛みを味わわせてやる。
しかし、目の前にいる少女の傷ついた表情を見ていると、なぜか復讐の炎が少しだけ和らいだ。彼女もまた、自分と同じ痛みを抱えているのだろう。
「でも」悠斗は顔を上げ、リアを見つめた。「だからこそ、本当に信頼できる人を見つけたいんだ」
リアの翠の瞳が、わずかに揺れた。
それから数時間、二人は無言で迷宮を歩き続けた。悠斗は錬金術書を読みながら、新たな術式を学習していた。
『中級錬金術・第一章 複合変換理論』
「これは…」
悠斗は地面に落ちていた鉄くずと薬草を手に取った。錬金術の理論に従い、二つの物質を融合させる。淡い光が包み込み、やがて小さな治癒ポーションが完成した。
「すごい…二つの全く違う物質を組み合わせて、新しいものを作り出すなんて」
リアが思わず声を上げた。その純粋な驚きに、悠斗は少し誇らしげになった。
「この本には、もっと高度な術式も載ってる。武器を強化したり、魔法陣を刻んだり…」
この力を完全に習得すれば、カインなんて敵じゃない。
「でも、なんだか怖い本ね」リアが眉をひそめた。「この本から感じる魔力…普通じゃない」
「怖い?」
「ええ。まるで…人の魂を蝕むような、暗い力を感じる」
リアの言葉に、悠斗は一瞬手を止めた。確かに、錬金術を使うたびに、心の奥で何かが蠢くような感覚があった。だが、その疑問はすぐに復讐への渇望に押し流された。
「力は力だ。使い方次第だろう」
「そうかしら…」リアの表情が曇った。「力に頼りすぎると、大切なものを失うことがある」
その時、リアは悠斗の治癒ポーションを見つめて言った。
「でも、人を助ける力として使うなら…きっと素晴らしいものになるわね」
悠斗は彼女の言葉に戸惑った。復讐のための力として考えていたのに、人を助けるという発想はなかった。
「その傷、治療しましょう」
リアは意外にも、治療を申し出た。悠斗は驚いたが、素直に応じる。彼女の手は温かく、丁寧に傷口を清拭してくれた。
「なんで…?さっきまで人間は信用できないって」
「…分からない」リアは顔を赤らめながら言った。「でも、あなたの目は他の人間と違う。嘘をついてない」
悠斗は彼女の手首に古い傷跡があることに気づいた。まるで鎖で縛られたような痕だった。
「リア…君にも辛い過去があるんだな」
リアの手が止まった。彼女の目に、一瞬だけ深い悲しみが浮かんだ。
「…人間に捕らえられて、奴隷として売られそうになった」
「なんだって…」
「エルフの血は、魔法薬の材料として高く売れるの。だから人間たちは私たちを狩る」
リアの声は静かだったが、その中には深い怒りと悲しみが込められていた。
「でも、君は逃げたんだ」
「ええ。でも…家族はみんな殺された」
リアの声が震えた。悠斗は彼女の肩にそっと手を置いた。
「俺たち、似てるな。大切な人たちに裏切られて…」
「でも、私は家族を恨んでいない」リアが静かに言った。「憎しみに心を支配されたら、きっと家族が悲しむから」
その言葉は、悠斗の心に深く響いた。憎しみに心を支配される…俺は、今まさにそうなろうとしているのか?
「君は強いな」悠斗は素直に言った。「俺には、そんな風に考えることができない」
「強いわけじゃない。ただ…」リアは悠斗を見つめた。「過去に縛られていると、前に進めないから」
その瞬間、悠斗の心に電撃のような感覚が走った。
前に進めない…俺は復讐のことばかり考えて、立ち止まっているのか?
初めて、復讐以外の未来を考えるきっかけが生まれた。だが、カインへの怒りはまだ消えない。
その時、迷宮の奥から新たな魔物の咆哮が響いた。今度は複数――少なくとも三体はいるようだ。
「来る…」
リアは弓を構え、悠斗は錬金術書を開いた。今度は違う。単なる武器を作るのではなく、戦術的に錬金術を活用してみよう。
現れたのは三体のゴブリンだった。悠斗は地面の石ころを一瞬で変化させ、閃光を放つ石に変えた。
「目を閉じて!」
閃光がゴブリンたちの視界を奪う。その隙にリアが的確に矢を射抜いた。
「すごい連携ね」リアが微笑んだ。「あなたの錬金術、戦い方を変えるわ」
「そうか?」
「ええ。ただ力で押し切るんじゃなくて、知恵と工夫で戦う。それって…」
リアは少し恥ずかしそうに言った。
「とても人間らしいと思う」
人間らしい。その言葉が、悠斗の心に温かい感情を呼び起こした。復讐のためだけに力を求めていた自分に、新しい可能性が見えてきた。
でも、やっぱりカインは許せない。あいつらに俺がどれだけ強くなったか見せつけてやる。
復讐心は消えないが、リアの存在が少しずつその炎を変質させていることに、悠斗はまだ気づいていなかった。
戦いの後、二人は小さな休憩を取った。
「悠斗」
リアが初めて彼の名前を呼んだ。
「何?」
「あなたの目…時々とても悲しそうになる。何を考えているの?」
悠斗は答えに窮した。復讐のことを話せば、彼女は離れていくかもしれない。
「…裏切った友達のことを考えていた」
「その友達に、会うつもり?」
「ああ。いつか必ず」
悠斗の声に復讐の炎が宿っていることを、リアは敏感に感じ取った。
「復讐するために?」
図星を突かれて、悠斗は黙り込んだ。
「悠斗…」リアは真剣な表情で言った。「復讐は、あなた自身を壊してしまうかもしれない」
「でも、あいつらは俺を…」
「分かる。私だって、家族を殺した人間たちを憎んでいた」
リアの目に涙が滲んだ。
「でも、憎しみに支配されていた時の私は、もう私じゃなくなっていた。きっと家族が見たら、悲しむような醜い心になっていた」
「じゃあ、どうしろって言うんだ?」
「今はまだ分からなくていい」リアは優しく微笑んだ。「でも、いつかきっと、復讐以外の答えが見つかると思う」
その言葉は、悠斗の心の奥深くに響いた。まだ完全には受け入れられないが、小さな種のように心に植え付けられた。
復讐以外の答え…そんなものが本当にあるのか?
「リア…君はなんで、俺を信じてくれるんだ?」
「あなたが私の話を、最後まで聞いてくれたから」リアは少し照れながら言った。「それに、さっき私を守ろうとしてくれた。人を大切に思う心がある人は、きっと悪い人じゃない」
悠斗の胸が温かくなった。復讐心に支配されそうになっていた心に、新しい光が差し込んできた。
迷宮の出口は、まだ遠い。そして悠斗の心の迷宮も、出口を見つけるまでには時間がかかりそうだった。
しかし、リアという道しるべを得たことで、彼は復讐一辺倒ではない、新しい可能性を模索し始めていた。
まだカインは許せない。でも…リアの言う通り、復讐以外の答えがあるのかもしれない。
二人の絆は戦いを通してより深まり、悠斗の錬金術も戦術的な応用が可能であることが分かった。
そして最も重要なことは、悠斗の心に初めて「前に進む」という概念が芽生えたことだった。
復讐の炎はまだ燃えているが、それとは別の光も宿り始めている。
悠斗の真の戦いは、外の敵ではなく、自分自身の心の中にあることを、彼はまだ完全には理解していなかった。
だが、その理解への第一歩を、彼はリアと共に踏み出していた。




