第11話 帝国の黄昏と新たな夜明け
帝国の中枢、魔力塔の最上階。窓から見下ろすルミナリスの街は、まるで掌の上の模型のようだった。この場所で、すべてが決まる。
「ついに来たのね」
振り返ると、ダリアが静かに立っていた。黒髪を後ろで結い、深紅のローブに身を包んだ彼女の瞳は、氷のように冷たく、それでいてどこか哀しみを湛えているように見えた。夕陽が彼女の横顔を染め、まるで血を流しているかのような錯覚を覚えた。
「お前が黒幕だったのか」
悠斗は拳を握りしめた。隣に立つリアの弓が僅かに震え、ミラの杖先に青白い魔力が宿る。三人は警戒を解かず、ダリアを見詰めた。
「黒幕……そうね、そう呼ばれても仕方がないでしょう」ダリアは苦笑を浮かべた。「でも、私はただ帝国のために働いただけ。この国を守るために」
「守る?」悠斗の声が震えた。「俺たちを召喚して、カインたちを操って、民衆を苦しめて、それが守ることか?」
「そうよ」ダリアの表情が一瞬揺らいだ。「あなたたちには分からないでしょうね。この世界がどれほど危うい均衡の上に成り立っているか」
彼女は振り返り、窓の向こうの街を見詰めた。遠くで鐘が鳴っている。夕方の祈りの時間だった。民衆たちの何気ない日常の音が、この血塗られた塔の最上階まで届いている。
「魔王は実在した。でも、それは私たちが生み出したものではない。古代から存在する、この世界の闇そのもの。勇者召喚は……それを封じるための儀式だった」
「嘘だ」悠斗が一歩前に出る。「俺たちはただの道具だったんだろう?」
「最初はそうよ」ダリアが振り返った。その瞳に、初めて感情らしきものが宿る。「でも、あなたを見ていて気づいたの。力に溺れる者と、力を制する者の違いに」
悠斗の心臓が高鳴った。彼女の言葉には、何か深い意味が込められているような気がした。
「お前は何を知っている?」
「すべてよ。あなたが奈落で手にした禁断の錬金術書も、カインがあなたを裏切った本当の理由も」
リアが息を呑んだ。「カインの裏切りに……理由があったというの?」
その時、リアの心に複雑な感情が渦巻いた。彼女は悠斗の復讐心を止めようと必死になってきたが、もしその復讐に正当な理由があったなら……。エルフの村で人間に裏切られた記憶が蘇る。あの夜、人間の商人たちが「友好の証」と言いながら、実は古い森の魔力を盗み取ろうとしていた。彼女の両親は、その裏切りに気づき、森を守るために命を落とした。
あの時の痛みと怒り。人間への不信。でも、悠斗と出会って、人間にも信じられる者がいることを学んだ。ミラという、同じように傷ついた人間の少女とも友情を育んだ。
今度は自分が信じる番だった。仲間を信じ、未来を信じる番だった。
ダリアは静かに頷いた。
「彼は知ってしまったの。勇者召喚の真実を。そして、あなたたち全員が最終的にどうなるかを」
「どういう意味だ?」悠斗の声が掠れた。
「召喚された勇者は、魔王を倒した後……生きて帰ることはできない。それが、封印を維持するための代償」
静寂が部屋を支配した。風が窓を叩く音だけが響く。外では街の人々が何も知らずに日常を送っている。子供たちの笑い声、商人の呼び声、恋人たちの囁き。すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
「カインは……俺を救おうとして……」
「そうよ。彼はあなたを奈落に突き落とすことで、この運命から逃がそうとした。でも、それが結果的にあなたを更なる力へと導いてしまった」
悠斗の膝が震えた。これまで抱き続けてきた復讐心が、一瞬で崩れ去ろうとしていた。
「だったら……だったら、俺が今まで積み上げてきた怒りと痛みは何だったんだよ……!」悠斗の声が裏返った。「毎晩、カインを殺す夢を見て、復讐のために力を求めて、リアやミラを危険に晒して……全部、全部勘違いだったのか……?」
彼の拳が震え、涙が頬を伝った。積み重ねてきた憎しみという土台が一瞬で崩れ、自分が何者なのかすら分からなくなる恐怖が彼を襲った。
「悠斗……」リアが手を伸ばそうとしたが、ミラが制した。
「待って」ミラの声が冷たく響いた。「ダリア、あなたは嘘をついている」
「何?」ダリアが振り返る。
「カインの裏切りの理由……それは確かでしょう。でも、勇者の死が封印の条件だというのは嘘よ」ミラの瞳が鋭く光った。「私は帝国の古文書を読み漁った。真の封印条件は『魔王の心を理解すること』。死ではなく、理解よ」
「どうして……どうしてそれを……」
「私の家族は帝国の学者だった。あなたたちに殺される前にね」ミラの声に氷のような怒りが宿った。「彼らが最後まで調べていた真実……それは魔王もまた、この世界の歪みの犠牲者だということ」
悠斗が顔を上げた。「ミラ……」
「つまり、ダリア」ミラがさらに一歩前に出る。「あなたは意図的に勇者たちを殺してきた。封印のためではなく、別の理由で」
ダリアの表情が変わった。仮面が剥がれ落ちるように、今度こそ本当の顔が現れた。
「……賢い子ね。でも遅すぎる」
「でも、もう遅いの」ダリアの声が再び冷たくなった。「魔王の封印が弱まっている。あなたが禁断の力を使うたびに、封印にひびが入っていく」
「何?」
「禁断の錬金術は魔王の力の一部。あなたがその力を使うたびに、魔王は現世に影響を与えることができるようになる」
悠斗は愕然とした。自分が復讐のために手にした力が、世界を破滅に導いていたというのか。
「だから……だから私は決めたの」ダリアが振り返った。その瞳に、静かな決意が宿っていた。「すべてを終わらせる」
ダリアの体から、漆黒のオーラが立ち上った。部屋の空気が重くなり、悠斗たちは身構えた。まるで夜が突然降りてきたかのように、辺りが暗くなる。窓の外の夕陽すら、その闇に飲み込まれていく。
「既存の体制は腐りきっている。帝国も、勇者システムも、魔王という概念そのものも」彼女の声が低く響いた。「だから私が新たな魔王となる。しかし、古い魔王のような暴走はしない。私は制御された闇となって、この世界に秩序をもたらす」
「それは支配じゃないか」悠斗が立ち上がった。
「支配? そうかもしれないわね」ダリアが微笑んだ。「でも、優しい支配よ。もう誰も選択で苦しむ必要がない。すべて私が決めてあげる。戦争も、裏切りも、復讐もない世界。完璧な平和」
「それは平和じゃない」リアが弓を構えた。「それは死んだ世界よ」
彼女の心に、故郷のエルフの森が浮かんだ。森の掟は厳格で、エルフたちは何百年も同じ生活を繰り返していた。変化を恐れ、外の世界との接触を拒み、ただ静寂の中で時を過ごす。
長老たちは言った。「これが平和だ」と。「争いのない、美しい世界だ」と。
しかし、リアには分かっていた。それは平和ではなく、停滞だった。成長も、発見も、出会いもない世界。もし森を出なければ、悠斗と出会うこともなかった。ミラという友に出会うこともなかった。
そして何より、自分自身の本当の強さを知ることもできなかった。
「私は森を出た」リアが静かに言った。「古い掟に縛られた、変化のない世界から。そこで初めて知ったのよ。本当の平和は、選択の自由があってこそ生まれるものだって」
「甘いのね」ダリアが微笑んだ。「でも、その甘さがあなたたちの強さでもある。だからこそ、私があなたたちを救ってあげる」
魔力が爆発的に膨れ上がった。ダリアの体が闇に包まれ、彼女の姿が歪んでいく。美しかった顔が影に覆われ、まるで絵画の中の悪魔のような威容に変わっていく。しかし、その変化の中に、深い悲しみが込められているのを悠斗は見逃さなかった。
「さあ、星川悠斗。あなたの信じる正義とやらを見せてちょうだい」
◇
戦いが始まった。
ダリアから放たれる漆黒の魔力が、部屋の壁を削り取っていく。悠斗は咄嗟に錬金術を発動し、床の石材を盾に変える。石が鉄に、鉄が水銀に、水銀が再び石に。目まぐるしく変化する物質が、まるで生きているかのように蠢いた。
「悠斗、左!」リアの矢が闇を切り裂き、ダリアの頬を掠めた。銀色の矢筋が暗闇に一筋の光を描く。その矢には、エルフの古い魔法が込められていた。自然の力、生命の力。闇を払う、希望の光。
「効かないわよ」ダリアが笑った。傷口から黒い霧が立ち上り、瞬時に治癒されていく。
しかし、リアは諦めなかった。故郷で学んだ古い歌を口ずさみながら、次の矢に更なる力を込める。それは祖母が教えてくれた歌だった。森が人間たちに荒らされた時、母が歌った歌だった。
"緑なる風よ、生命の調べよ
闇を払いて、希望を運べ"
ミラの魔法弾がダリアを直撃するが、同様に効果がない。青白い光が闇に吸い込まれ、まるで何もなかったかのように消えていく。
「物理攻撃は無意味よ。私はもう、人間ではないから」
悠斗は歯を食いしばった。禁断の錬金術を使えば、ダリアと対等に戦えるかもしれない。胸の奥で、黒い力が脈動している。その力を解放すれば……
(だめだ。その力を使えば、俺も同じになってしまう)
「悠斗!」リアが叫んだ。ダリアの攻撃が悠斗に迫る。漆黒の触手が彼を貫こうとする。
悠斗は錬金術で床を変化させ、攻撃を逸らした。しかし、威力の差は歴然だった。
「どうしたの?あなたの本当の力はそんなものじゃないでしょう?」ダリアが挑発する。
「俺は……俺はもうその力は使わない」
「なぜ?」
「その力を使えば、俺はお前と同じになってしまう。大切な人たちを傷つけてしまう」
ダリアの表情が一瞬柔らかくなった。
「大切な人……そうね、私にもいたわ。でも、もういない」
彼女の瞳に、一瞬だけ人間らしい悲しみが宿った。それは、長い間封印してきた感情の破片だった。
そこに、何かが見えた。幼い少女の姿。金髪の、優しい微笑みを浮かべた少女。ダリアが大切にしていた……
「妹さんね」ミラが静かに言った。「あなたには妹がいた」
ダリアの動きが止まった。
「どうして……それを……」
「私の家族が調べていたの。帝国の秘密と一緒に、あなたのことも。アリシア・ダリア・フォン・ルミナリス。帝国の第二皇女。そして、あなたの双子の妹、エリス」
ダリアの体を覆っていた闇が、一瞬だけ薄くなった。
「彼女は病気だった。古い魔法の病気で、帝国の医術では治せなかった。だから、あなたは魔王の力を借りようとした。でも……」
「やめて」ダリアの声が震えた。
「でも、その代償として、エリスの命と引き換えに、あなたは魔王の封印を管理する呪いを背負った。彼女を救うつもりが、結果的に彼女を殺してしまった」
「やめてって言ってるでしょう!」
ダリアの攻撃が激しくなった。しかし、その攻撃には以前のような冷静さがなかった。感情が溢れ出し、制御を失い始めている。
「なら尚更だ」ミラの声が割って入った。「あなたは大切な人を失った痛みを知っている。なのに、なぜ他の人から大切な人を奪おうとする?」
「黙りなさい」ダリアの攻撃がミラに向かう。
「ミラ!」悠斗が飛び込み、錬金術で爆煙を作り出してミラを庇った。
「ありがとう」ミラが小さく微笑んだ。「でも、私は大丈夫よ。復讐に囚われた人間がどれだけ脆いか、私はよく知ってる」
彼女の言葉が、ダリアの攻撃を一瞬止めた。その隙を突いて、悠斗は錬金術で特殊な薬品を生成した。
「これは……」
「魔力中和剤だ。ミラから教わった理論を応用した」
液体が霧状になってダリアを包む。彼女の魔力が一時的に弱まった。
「今よ!」リアの矢が的確にダリアの肩を貫く。古いエルフの魔法が込められた矢が、闇の力を一時的に中和する。
「くっ……」ダリアがよろめいた。
## 第四章:心の扉を開く鍵
その時、戦いは一瞬止まった。ダリアの力が弱まり、部屋に夕陽の光が差し込む。そして、悠斗はゆっくりと彼女に歩み寄った。
「ダリア」悠斗が膝をついた。「お前が守りたかったものは何だ?」
「……この国よ。この国の人々よ」
「なら、なぜ自分が魔王になろうとする?それじゃあ結局、人々から選択する権利を奪うことになる」
「選択?」ダリアが苦笑した。「選択があるから人は苦しむのよ。私のように」
彼女の瞳に、深い孤独が宿った。何年も、何十年も一人で重い責任を背負い続けてきた疲労が、その表情に刻まれていた。
「私は……私は十二歳の時から帝国の秘密を知っていた。魔王のこと、勇者のこと、すべてを。そして選択を迫られた。真実を隠して帝国を守るか、真実を明かして世界を混乱に陥れるか」
彼女の声が震えた。そして、悠斗の脳裏に映像が浮かんだ。十二歳の少女。まだあどけない顔をした、ダリアとそっくりな双子の姉妹。
「エリスは病気だった。でも、私は姉として彼女を守らなければならなかった。帝国の第一皇女として、国も守らなければならなかった」
ダリアの頬に涙が流れ始めた。
「だから私は両方を選んだ。エリスを救い、国も守る。でも……でも……」
「でも、どちらも救えなかった」悠斗が静かに言った。
「そうよ。魔王の力を借りて、エリスの病気を移そうとした。私に移せば、彼女は助かると思った。でも、その瞬間、魔王の封印が弱まって……エリスは魔王の力に飲み込まれて……」
ダリアは床に手をついた。三十年間封印してきた記憶が、まるで洪水のように溢れ出す。
「私の前で……私の目の前で……エリスは消えていった。『お姉ちゃん、ありがとう』って言いながら……」
そこで、ダリアの声が完全に途切れた。子供のように泣き崩れる彼女の姿は、先程まで恐ろしい魔王だった人物とはとても思えなかった。
「私は前者を選んだ。そのために、何百人もの勇者を死に追いやった。彼らには家族がいた。恋人がいた。夢があった。でも私は、それを全部奪った」
「エリスを失った痛みを、他の人にも味わわせたくなかった。だから完璧な世界を作ろうとした。誰も選択で苦しまない世界を」
「だから……だから私が悪者になればいいの。私がすべての罪を背負って、この世界を支配すれば、もう誰も選択で苦しまなくて済む」
リアが前に出た。彼女の瞳には、深い理解の光が宿っていた。
「ダリア」リアが静かに言った。「あなたは間違っていない」
「え?」ダリアが顔を上げた。
「妹を救おうとしたこと。国を守ろうとしたこと。それは間違っていない。でも……」
リアは膝をつき、ダリアと同じ目線になった。
「でも、その痛みを一人で背負い続けることは間違ってる。私も同じだった。両親を失った時、私は人間を憎んだ。そして、その憎しみを一人で抱え続けた」
リアの声に、深い経験に基づく重みがあった。
「でも、悠斗と出会って知ったの。痛みは分かち合うことができるって。そして、分かち合うことで、その痛みは憎しみじゃなくて、愛に変わることができるって」
「愛……?」
「そうよ。あなたがエリスを愛していた気持ち。その愛は消えていない。ただ、間違った方向に向かっただけ」
「違う」悠斗が立ち上がった。「お前は間違ってる」
ダリアの表情が再び硬くなりかけたが、悠斗は続けた。
「お前が本当に恐れているのは、自分の選択が間違いだったと認めることだ。だから、選択そのものを否定しようとしている」
「やめて……」
「でも、間違いを認めることは終わりじゃない。そこから始められるんだ」
悠斗は錬金術を発動した。しかし、今度は攻撃のためではない。彼の手の中に、小さな光の花が咲いた。それは純粋な錬金術で創られた、希望の象徴だった。
しかし、その花は完璧ではなかった。花びらの一部が欠け、茎が少し曲がっている。でも、だからこそ美しかった。
「俺も間違った。復讐に囚われて、大切な人たちを危険に晒した。でも、それに気づけたから、今度は正しい選択ができる」
光の花が宙に舞い上がり、ダリアの前でゆっくりと回転した。その光に照らされて、彼女の闇に覆われた顔が少しずつ見えてくる。
「お前も同じだ。今からでも、正しい選択ができる」
「でも……でも私がしてきたことは……」
「消えない」ミラが静かに言った。「でも、それを背負って生きることはできる。私がそうしているように」
ミラが前に出る。彼女の瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
「私の家族は、あなたの命令で殺された。最初は、私もあなたを憎んでいた。復讐したいと思っていた」
ダリアが息を呑んだ。
「でも、悠斗とリアと旅をして分かったの。憎しみは何も生まない。ただ、新しい憎しみを生むだけ」
「だから私は選ぶ」ミラの声に、強い意志が込められていた。「あなたを憎むのではなく、理解する道を。そして、同じ間違いを繰り返さない未来を作る道を」
「赦される」リアが優しく微笑んだ。「私たちみんなで、その重荷を分けて持とう」
ダリアの瞳に、初めて希望の光が宿った。
「本当に……本当にそんなことができるの?」
「できる」悠斗が確信を込めて言った。「俺たちが一緒なら」
しかし、ダリアはまだ迷っていた。三十年間背負い続けてきた罪悪感は、そう簡単には消えない。
「でも……私は……」
その時、不思議なことが起こった。光の花の周りに、もう一つの光が現れた。それは温かく、優しい光で、まるで…
「エリス……?」ダリアが震え声で呟いた。
光の中に、幼い少女の輪郭がぼんやりと浮かんだ。金髪の、優しい微笑みを浮かべた少女。
『お姉ちゃん』
声が聞こえたような気がした。ダリアだけでなく、悠斗たちにも。
『もういいの。お姉ちゃんは十分頑張った』
「エリス……エリス!」ダリアが手を伸ばした。
『でも、もうやめて。お姉ちゃんが苦しんでいるのを見ているのは辛いの』
光がより鮮明になった。エリスの姿が、はっきりと見えた。
『みんなと一緒にいて。一人で背負わないで』
「でも私は……私はあなたを……」
『私は消えていない』エリスが微笑んだ。『お姉ちゃんの心の中に、ずっといる』
光の花がダリアの胸に吸い込まれた。その瞬間、彼女の体から完全に闇が消え、人間の姿に戻った。部屋には再び夕陽の光が差し込み、すべてを温かく包んでいた。
ダリアは床に崩れ落ち、子供のように泣いた。しかし、今度は解放の涙だった。長い間溜め込んでいた罪悪感と孤独が、ついに洗い流された瞬間だった。
「私……私は……もう疲れたの……」
「休んでいいよ」悠斗が優しく言った。「でも、その前に、カインに会わせてくれ」
ダリアは震える手で頷いた。
◇
地下牢は湿気と絶望の臭いに満ちていた。しかし、そこには希望の光も差し込み始めていた。鉄格子の向こうで、カインが膝を抱えて座っていた。彼の周りには、誰かが差し入れた食事が手つかずで置かれている。
「カイン」
彼が顔を上げた。やつれた頬に、驚きと恐怖が浮かんだ。
「悠斗……なぜここに……まさか復讐に……」
「迎えに来た」
「迎えに?」カインが困惑した。「俺はお前を裏切ったんだぞ?お前を殺そうとしたんだ」
「違う」悠斗が格子に手をかけた。「お前は俺を救おうとしてくれたんだろう?」
カインの瞳が見開かれた。そして、長い間堰き止められていた感情が一気に溢れ出した。
「お前……知ってるのか?」
「ダリアから聞いた。勇者の運命を。お前がなぜ俺を奈落に突き落としたのかも」
カインの目から涙が溢れた。三年間、一人で背負い続けてきた罪悪感が、ついに言葉として外に出ようとしていた。
「すまない……すまない、悠斗……」カインの声が震えた。「俺は……俺はお前を守りたかっただけなのに……結果的にお前を更なる苦しみに追い込んでしまった……」
悠斗は錬金術で格子を溶かし、中に入った。そして、かつて最高の友だった男の肩に手を置いた。
「でも、おかげで俺は本当に大切なものを見つけることができた」
「何を……?」
「リアと出会えた。ミラと出会えた。そして、力だけじゃない、本当の強さを知ることができた」
カインは混乱していた。自分が犯した罪を責められるのではなく、感謝されている。
「悠斗……俺なんか……俺はお前を裏切って……」
「お前は俺の親友だった。今でもそうだ」悠斗が力強く言った。「だから今度は一緒に戦おう。この歪んだ世界を変えるために」
しかし、カインはまだ自分を責めていた。三年間の自己嫌悪は、そう簡単には消えない。
「でも俺は……俺は弱かった。真実を知った時、お前に話すべきだった。一緒に解決策を探すべきだった。なのに、勝手に判断して、勝手にお前を突き落として……」
「カイン」リアが牢の入り口に現れた。「あなたは間違っていない」
「リア……」
「私も同じことをしたかもしれない」彼女が静かに言った。「大切な人を守るために、その人を傷つけてしまう。愛しているからこそ、間違った選択をしてしまう」
ミラも現れた。「完璧な人間なんていない。みんな間違いを犯しながら生きている」
「でも……」
「でも、間違いに気づいたなら、そこからやり直せる」悠斗が親友の手を握った。「俺たちは友達だろう?友達なら、一緒に間違いを正していこう」
カインは長い間、悠斗の目を見詰めていた。そこには、憎しみも怒りもなかった。ただ、昔と変わらない友情の光があった。
そして、ついにカインは子供のように泣いた。長い間背負い続けてきた罪悪感が、ついに洗い流された。
「俺に……俺にもう一度チャンスをくれるのか?」
「チャンスじゃない」悠斗が微笑んだ。「義務だ。お前も俺と同じように、この世界を変える義務がある」
「そうよ」ダリアが牢の入り口に現れた。彼女の顔には、もう闇の影はなかった。「私たち全員に、この世界をより良い場所にする義務がある」
◇
魔力塔の最上階で、五人は静かに立っていた。窓の外では、帝国の支配システムを支えていた魔法装置が次々と停止していく。それは終わりではなく、新しい始まりの合図だった。
街の明かりが、まるで星のように瞬いている。しかし、今夜の星々は特別に美しく見えた。自由の光を宿しているかのように。
「本当に終わるのね」ダリアが呟いた。「長かった……」
「終わりじゃない」悠斗が答えた。「始まりだ」
リア、ミラ、カイン、そしてダリアも一緒に、街を見下ろしている。
「これから大変になるだろうね」ミラが言った。「新しいシステムを作るのは、壊すよりもずっと難しい。でも……」彼女は小さく微笑んだ。「きっと面白いわよ。私たち全員が間違いを犯しながら、それでも前に進んでいくなんて」
「間違いを恐れない社会」リアが静かに言った。「失敗から学べる社会。それが本当の自由かもしれない」
彼女の瞳には、故郷の森を出た時と同じ決意が宿っていた。しかし、今度はより深く、より強い決意だった。
「でも、きっとできる」リアが明るく言った。「みんなで力を合わせれば」
「ああ」悠斗が頷いた。「今度は誰も置き去りにしない。みんなで一緒に歩んでいこう」
カインが恐る恐る口を開いた。「俺も……俺も一緒にいていいのか?」
「当たり前だろう」悠斗が笑った。「お前がいなかったら、この物語は始まらなかった」
「そうね」ダリアが微笑んだ。「私たち全員が、この物語の主人公よ」
夕日がルミナリスの街を染めていた。しかし、それは終わりの夕日ではなく、新しい一日への準備の夕日だった。長い戦いが終わり、新しい希望が生まれた瞬間だった。
復讐ではなく、赦し。
憎しみではなく、愛。
破壊ではなく、創造。
絶望ではなく、希望。
悠斗は錬金術で小さな花を創り出した。今度は光の花ではなく、本物の、土と水と空気から生まれた花だった。しかし、この花は特別だった。五つの花びらを持ち、それぞれが違う色をしていた。
赤い花びら:悠斗の情熱
青い花びら:リアの知恵
白い花びら:ミラの純粋さ
金の花びら:カインの忠誠
紫の花びら:ダリアの高貴さ
五つの花びらが一つの花となって、美しく調和していた。それは新しい世界の始まりを象徴するように、五人の手の中で美しく輝いていた。
「これが私たちの約束ね」ダリアが言った。「この花のように、みんな違うけれど、一つになって咲く」
「そして、次の世代にこの花を受け渡す」ミラが付け加えた。
「永遠に続く希望の花を」リアが微笑んだ。
「俺たちの友情のように」カインが言った。
「俺たちの愛のように」悠斗が最後に言った。
窓の外では、帝国の民衆たちが街に出て、自由の風を感じ始めていた。子供たちが広場で笑い、商人たちが新しい商品について話し合い、恋人たちが未来の夢を語り合っている。
長い支配の夜が明け、希望の朝が訪れようとしていた。
そして、魔力塔の最上階では、五人の友が新しい世界への第一歩を踏み出そうとしていた。それは困難な道のりになるだろう。間違いも犯すだろう。時には迷うこともあるだろう。
しかし、彼らには希望があった。友情があった。そして何より、愛があった。
それだけあれば、どんな困難も乗り越えられる。
それだけあれば、どんな闇も光に変えられる。
それだけあれば、本当の平和を築くことができる。
五人は手を取り合い、新しい明日に向かって歩き始めた。