第1話 召喚と裏切りの始まり
午後の陽光が教室の窓から斜めに差し込む中、星川悠斗は机に突っ伏して眠っていた。数学の授業は彼にとって子守歌のようなもので、いつものように意識は夢の中を彷徨っている。
「おい、悠斗。また寝てるのか」
隣の席から聞こえる声に、悠斗はゆっくりと顔を上げた。茶髪の少年——カイン・ヴェルナーが呆れたような表情で自分を見下ろしている。
「別にいいだろ。どうせこんな授業、将来何の役にも立たない」
カインの顔に、一瞬だけ苛立ちの色が浮かんだ。悠斗のそんな投げやりな態度が、いつも彼の神経を逆撫でしていた。なぜ悠斗はいつもそんなに余裕そうなのだろう。成績は決して良くないのに、なぜか女子たちは悠斗の方に関心を向ける。まるで世界が自分を中心に回っているかのような、その無関心さ。
「お前、そんなこと言ってて大丈夫なのか?来月のテストだって——」
「カイン」悠斗が小さく笑った。「お前、真面目すぎるよ。もう少し力抜けって」
その言葉に、カインの胸に小さなとげが刺さった。悠斗には分からないのだ。自分がどれだけ必死に努力しているか。どれだけ認められたいと思っているか。
悠斗は欠伸を一つして、再び机に顔を向けようとした。しかし、その時だった。突然、教室全体が眩い光に包まれた。
光が収まると、悠斗たちは広大な石造りの大広間に立っていた。天井は見上げるほど高く、巨大な柱が並んでいる。そこには華美な装飾を施した王座があり、威厳に満ちた中年の男性が座っていた。
「ようこそ、勇者様方」
王——アルバート三世は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「我々の世界は今、魔王の脅威に晒されております。どうか、我々をお救いください」
クラスメイトたちの間でざわめきが起こった。誰もが戸惑い、恐怖し、そして——一部の者は興奮していた。
「異世界転移ってやつか?」「まさか、本当にあるのか?」「俺たち、勇者になれるのか?」
しかし悠斗だけは違った。彼は静かに状況を観察していた。王の言葉、周囲の建物、そして空気の匂いまで——全てが現実だった。その冷静さが、またしてもカインの心をざわつかせる。
「皆様には、それぞれ『職業』が与えられます」
王の言葉と同時に、生徒たちの前に光る文字が現れ始めた。「『勇者』」「『剣士』」「『魔導士』」「『僧侶』」と華々しい職業名が次々と表示される。
カインの前に現れた『勇者』の文字を見た瞬間、彼の心は爆発的な喜びに包まれた。ついに来た。自分が特別である証明が。しかし同時に、ふと悠斗の方を見てしまう。あいつはどんな職業を得るのだろう。まさか、自分より優れた職業では——
そして、最後に悠斗の前に現れたのは——『錬金術師』。
カインの胸に、安堵と共に言いようのない優越感が広がった。しかし、なぜか心の片隅に小さな罪悪感も芽生える。
「錬金術師?何それ、聞いたことないけど」
後ろの席から田中の声が聞こえた。普段は大人しい彼が、こんな時だけは声を大きくする。
「きっと、薬でも作るんじゃない?」山田が鼻で笑った。
「戦闘には向かなそうだな」
クラスメイトたちの視線が次第に冷たくなるのを、悠斗は肌で感じていた。今まで感じたことのない、露骨な軽蔑の眼差し。それは彼の心に、針のような痛みを与えた。
王もまた、困ったような表情を浮かべている。「錬金術師は確かに貴重な職業ですが……戦闘面では他の職業に劣ることは否めません」
その言葉が決定打だった。悠斗を見る目が、同情から軽蔑へと変わった。
「悠斗……」
カインが声をかけようとした瞬間、複雑な感情が胸を駆け巡った。同情、優越感、そして——かすかな罪悪感。幼馴染として励ますべきなのか、それとも勇者として距離を置くべきなのか。
「悠斗、災難だったな」結局、カインが選んだのは曖昧な言葉だった。肩を叩く手にも、以前のような温かさはなかった。「でも大丈夫、俺が守ってやるよ」
その瞬間、悠斗はカインの表情に見た。かすかな、しかし確実な変化を。上から見下ろすような、優越感に満ちた眼差し。
「ああ……そうか」悠斗は小さく呟いた。「カイン、お前もか」
「え?」
「いや、何でもない」
その夜、城の客室で一人になった悠斗は、窓の外の星空を見上げていた。胸の奥に、これまで感じたことのない重苦しい感情が沈殿している。軽蔑、失望、そして——見捨てられることへの恐怖。
でも、まだ大丈夫だ。きっと何とかなる。俺だって、努力すれば……。
彼は自分に言い聞かせた。しかし、心の奥底では既に、不安の種が芽吹き始めていた。
三日後、一行は初めての実戦訓練に向かった。城の近くにある小さな森で、弱い魔物を相手に実力を試すのだ。悠斗は与えられた『錬金術の基礎』という薄い本を手に、後方で待機していた。
カインの剣技は見事だった。『勇者』の力を得た彼は、以前とは比べ物にならないほど強くなっている。魔物を次々と倒していく姿に、クラスメイトたちから歓声が上がった。
「すげぇ、カイン!」
「さすが勇者だ!」
その声を聞くたびに、カインの心は満たされていく。これまで味わったことのない、純粋な称賛と尊敬。しかし同時に、後方でただ立っているだけの悠斗の姿が目に入ると、複雑な感情が胸をよぎった。
悠斗……でも、これは仕方ないんだ。俺には俺の責任がある。
戦闘が終わった後、カインは悠斗に近づいた。
「悠斗、大丈夫か?」
「ああ、別に」悠斗は本を閉じて答えた。「お前、強くなったな」
「そうかな」カインは照れたように頭を掻いた。しかし、その表情には確実に自信が宿っている。「悠斗も、その……錬金術、頑張れよ」
「頑張る……か」悠斗は苦笑した。「何を頑張ればいいのか、正直よく分からないけどな」
その言葉に、カインの胸に小さな痛みが走った。しかし、それも一瞬のことだった。
「やっぱり足手まといだな」
少し離れた場所から、そんな声が聞こえてきた。振り返ると、『弓使い』の職業を得た女子生徒——佐藤美咲が仲間たちと話している。
「あいつがいると、みんなの足を引っ張るだけよ」
美咲の声には、明らかな嫌悪感が込められていた。しかし、よく見ると彼女の表情にも迷いがある。言いながらも、どこか罪悪感を感じているようだった。
「そうそう。正直、邪魔なのよね」
しかし、同調する声が上がると、美咲の迷いは消えた。集団の中にいる安心感が、個人の良心を押し潰していく。
悠斗の心に、氷のような冷たさが流れ込んだ。カインがそれに気づき、何かを言おうとした瞬間——
「カイン」田中が声をかけた。「作戦会議をするから、来てくれ」
「あ、ああ……」カインは振り返り、そして悠斗を見た。「悠斗、俺——」
「いいよ」悠斗は小さく手を振った。「行けよ、勇者様」
その言葉に込められた皮肉に、カインは気づいていた。しかし、もうクラスメイトたちが待っている。
「また後で話そう」
カインが去っていく後ろ姿を見つめながら、悠斗は静かに呟いた。
「後で……か」
その「後で」は、二度と来ることはなかった。
一週間の訓練期間中、悠斗への風当たりは日に日に強くなった。食事の時間には誰も隣に座らず、作戦会議からは除外され、夜の雑談からも自然と遠ざけられた。
しかし、最も辛かったのは、クラスメイトたちの態度の変化だった。
「おはよう、悠斗」
朝の挨拶も、だんだんと義務的になっていく。以前は自然に交わされていた何気ない会話も、今では意図的に避けられているのが分かった。
カインもまた、複雑な心境だった。悠斗と話す時間は確実に減っていた。それは意図的なものでもあり、同時に自然な流れでもあった。勇者としての責任が、彼の時間を奪っていく。
「カイン、今度の作戦についてなんだけど」
「カイン、魔法の使い方を教えて」
「カイン、カイン」
常に誰かが彼を必要としていた。そして、その輪の中に悠斗の居場所はなかった。
ある夜、悠斗は一人で城の中庭を歩いていた。そこで、偶然カインと出会った。
「悠斗……こんな時間に、どうしたんだ?」
「眠れなくて。カインこそ」
「俺も……考え事があって」
二人の間に、気まずい沈黙が流れた。以前なら、こんな時は何時間でも語り合えたのに。
「なあ、カイン」悠斗が口を開いた。「俺たち、変わっちゃったな」
カインの胸が痛んだ。「変わったって……」
「お前は勇者になった。みんなから慕われて、頼られて。俺は……」悠斗は空を見上げた。「俺は何にもなれなかった」
「そんなことない」カインは慌てて言った。「悠斗だって、きっと——」
「きっと何だ?」悠斗の声に、初めて苛立ちが混じった。「きっと役に立つ時がくるって?きっと認められるって?」
カインは言葉に詰まった。実際、そう思っていたからだ。
「悠斗……」
「もういいよ」悠斗は歩き出した。「お前には、お前の道がある。俺にも……俺なりの道を見つけるさ」
その後ろ姿を見つめながら、カインは胸の奥で小さくつぶやいた。
ごめん、悠斗……。
しかし、その謝罪の言葉は、声にはならなかった。
そして、運命の日がやってきた。
「悠斗、ちょっと来い」
カインに呼ばれ、悠斗は森の奥深くまで連れて行かれた。そこは『奈落の迷宮』と呼ばれる、巨大な穴の入り口だった。他のクラスメイトたちも集まってきている。しかし、全員の表情が妙にこわばっていた。
悠斗の心臓が激しく鼓動し始めた。何かが起こる。悪い予感が、背筋を冷たく撫でていく。
「みんなで決めたんだ」カインが口を開いた。しかし、その声は震えていた。「お前は、もう俺たちと一緒にいられない」
「え……?」
悠斗の世界が静止した。言葉の意味が理解できない。いや、理解したくなかった。
「お前がいると、俺たちの成長が遅れる。魔王を倒すっていう大事な使命があるのに、足手まといを背負ってる余裕はないんだ」
カインの言葉に、他のクラスメイトたちが頷く。しかし、その中には明らかに躊躇している者もいた。美咲は下を向き、田中は視線を逸らしている。山田でさえ、いつもの調子がない。
だが、誰も声を上げようとはしない。
「カイン……まさか……」
「これまで一緒に過ごした時間は楽しかった」カインの声に、かすかな震えが混じった。「でも、これは俺たち全員の未来のためなんだ」
悠斗は仲間たちの顔を一人一人見回した。そこには罪悪感と、同時に安堵の表情があった。面倒な問題を処理できるという安堵が。
「そんな……カイン、俺たちは友達じゃ……」
「友達?」カインの表情が歪んだ。「友達なら、なんで俺がこんなに——」
言葉が途切れた。カインは自分の心の奥底にあった本音を、危うく口にするところだった。
悠斗の心に、絶望と共に別の感情が芽生え始めた。それは——怒り。しかし、それはまだ小さな炎だった。
「お前たち……本気なのか?」
誰も答えなかった。その沈黙が、全ての答えだった。
「分かった」悠斗は静かに言った。「分かったよ。お前たちの気持ちは」
その瞬間、悠斗の心の中で何かが音を立てて壊れた。友情への信頼、仲間への期待、そして——自分自身への希望が。
「でも、カイン」悠斗はカインを真っ直ぐに見つめた。「俺は忘れない。絶対に忘れない」
その言葉に込められた感情に、カインは背筋が凍った。
「ごめんな、悠斗。でも、これが最善なんだ」
そう言うと、カインは悠斗の胸を強く押した。
「カイン!!」
悠斗の体は宙に舞った。足元の地面が遠ざかり、仲間たちの顔が小さくなっていく。その瞬間、悠斗の心の中で最後の理性が崩壊した。
なぜだ……なぜ俺だけが……俺は何も悪いことをしていない……なのに……なのに!
奈落の闇が彼を呑み込んだ。落下する間中、悠斗の心に様々な感情が駆け巡った。恐怖、絶望、そして——激しい憎しみ。しかし、その憎しみの中にも、まだかすかな人間らしさが残っていた。
本当に……これで良かったのか?俺は……俺は本当に邪魔だったのか?
疑問、後悔、そして自己嫌悪。人間らしい複雑な感情が、彼の心を最後まで苦しめた。
「カイン……みんな……どうして……」
悠斗の声は闇に吸い込まれ、やがて地面に激突する鈍い音だけが響いた。
意識を取り戻した時、悠斗は湿った石の床に横たわっていた。体中が痛み、左腕は明らかに骨折している。だが、奇跡的に命に別条はなかった。
生きてる……でも、ここは。
周囲は完全な暗闇だった。かすかに聞こえる水滴の音だけが、この空間が洞窟であることを教えてくれる。
悠斗は痛む体を起こし、しばらくその場に座り込んでいた。心の中で、様々な感情が渦巻いている。怒り、悲しみ、絶望……そして、まだ完全には死んでいない、かすかな希望。
もしかしたら……もしかしたら、これは悪い夢なのかもしれない。
しかし、体の痛みが現実を告げていた。
本当に……俺は見捨てられたんだ。
その事実を受け入れた時、悠斗の心に静かな変化が起こった。悲しみが怒りに変わり、絶望が憎悪に変わっていく。しかし、それでもまだ、彼の中には人間らしい感情が残っていた。
でも……俺だって悪かったのかもしれない。もっと努力すれば……もっと頑張れば……。
自分を責める気持ちと、仲間を恨む気持ちが交錯する。それは、まだ人間らしい複雑さだった。
悠斗は手探りで周囲を探った。すると、何か硬い物体に触れた。それは本だった。
古ぼけた革表紙の本で、表面には複雑な魔法陣のような模様が刻まれている。本に触れた瞬間、悠斗の指先に奇妙な感覚が走った。まるで本が生きているかのような、脈動するような温かさ。
「これは……」
本を開くと、不思議なことに文字が血のように赤い光を放った。しかし、その光を見た瞬間、悠斗の心に一瞬の戸惑いが生まれた。
この光……何か不吉な感じがする。
しかし、好奇心が恐怖を上回った。文字が浮かび上がってくる。
『真なる錬金術の書——復讐者のための禁断の知識』
「復讅者のための……」
悠斗の心臓が激しく鼓動した。しかし、同時に心の奥底で小さな声がささやいた。
復讐なんて……本当にそれでいいのか?
だが、その声は仲間たちの冷たい視線の記憶に押し潰された。
ページをめくると、そこには今まで見たことのない錬金術の理論が記されていた。文字の一つ一つが悠斗の怒りを吸い取り、それを力に変換しているような感覚があった。
『憎悪錬成法——恨みを力に変える術』
『復讐の刃——敵の血肉を素材とする武器錬成』
『絶望の毒——相手の心を蝕む呪いの調合』
読み進めるにつれて、悠斗の心に複雑な感情が湧いた。一方では力への渇望、他方では深い不安。
「これを使えば……奴らを見返すことができる」
しかし、同時に別の疑問も浮かんだ。
「でも……これは本当に俺が望んでいることなのか?」
本の知識が、悠斗の意識に直接流れ込んでくる。それは快感に近い感覚だった。しかし同時に、何か大切なものが心から流れ出していくような感覚もあった。
何かが……変わっていく。
しかし、カインたちの裏切りの記憶が蘇ると、その不安も薄らいでいく。
本の最後のページに、警告文が記されていた。
『この力を使う者よ、覚悟せよ。憎悪は力を与えるが、同時に魂を蝕む。復讐の道を歩む者は、やがて自分自身と戦うことになるであろう』
悠斗は一瞬、手を止めた。
魂を蝕む……自分自身と戦う。
しかし、次の瞬間、カインの冷たい眼差しを思い出した。仲間たちの軽蔑の表情を。そして——一人で奈落に落ちていく絶望を。
「もう……失うものなんて何もない」
そう呟いた時、本から立ち上る赤い光が悠斗の瞳に映り込んだ。その瞬間、彼の影が壁に投影され——それは確かに、人間のものではなかった。角の生えた悪魔のような、おぞましい形をしていた。
しかし、悠斗はまだそれに気づいていない。
「でも……」
彼は最後に一度だけ、自分に問いかけた。
「本当に……これでいいのか?」
心の奥底で、かすかな良心が最後の抵抗を試みた。しかし、それも憎悪の炎に呑み込まれていく。
悠斗は本を胸に抱き、立ち上がった。折れた腕の痛みなど、もはや感じなかった。心の中の復讐心が、全ての苦痛を力に変えていた。
「見ていろ、カイン。お前たちを心の底から後悔させてやる」
そう言いながらも、悠斗の声には微かな震えが残っていた。完全に人間性を失ったわけではない証拠だった。
「俺を……俺を裏切ったことを……」
最後の言葉が途切れた。そこには、怒りと同時に深い悲しみがあった。
奈落の迷宮の底で、一人の少年が復讐を誓った。しかし、その心の奥底では、まだ小さな人間らしさが息づいていた。それは希望の光でもあり、同時に——これから歩む道への最後の疑問符でもあった。
暗闇の中で、赤い光を放つ本を抱いた少年の表情は複雑だった。復讐への決意と、それに対する深い不安。人間らしい矛盾した感情が、彼の顔に刻まれていた。
彼はまだ知らない。この選択が、やがて彼をどこへ導くのかを。しかし、今この瞬間の彼には、復讐以外の道は見えなかった。
それでも——彼の心の奥底では、まだ小さな声がささやき続けていた。
本当に……これでいいのか?
その問いかけこそが、星川悠斗が完全に人間性を失っていない証拠だった。