1 戦国女帝と龍のひげ
「龍のひげが見つかっただと?」
その報告を聞いた龍夢の地の女王・翔華は、下らぬことだと内心舌打ちした。
龍のひげ。
それは、この大陸に伝わる伝承の一つだ。
曰く、龍のひげは、多くの富をもたらす。
曰く、龍のひげは、あらゆる病をいやす。
曰く、龍のひげは、すべての願いを叶える。
人であれば、それを求めざること適わず、人が七欲にまみれる限り、その存在は至宝であり続けると――。
(七欲――貪食、淫蕩、財、悲嘆、憤怒、怠惰、自惚れ、傲慢……。欲に骨の髄までまみれたるこの身だが、龍のひげには興味がないな)
くすりとほほ笑んだ翔華に、報告をしてきた官吏がごくりと息を呑む。
その様に軽く驚いた彼女は、自らの行いを振り返る。
思えば、翔華が公の場で笑うときは、あれを侍らせるときか、苛烈な施策に着手するときくらいのもの。
(それは……さぞ恐ろしかろう)
自分の微笑みの力に内心苦笑しながら、翔華は右手を振る。
「報告については、自分で書簡を読む。皆下がれ」
「かしこまりまして」
冢宰と天官達を下がらせ、玉座から立ち上がると、翔華は執務室へと歩みを進めた。
後ろをついて歩くのは、大量の書簡を持った秘書省の官吏と、翔華の身の回りの世話をする侍従侍女だ。
煌びやかな王宮。
その主人である天子・翔華も、この龍夢の地の象徴である赤色、そして貴色である黄色をふんだんに使った豪奢な衣装を身にまとい、紅を引き、艶やかな美しさを演出されている。
それでも、他国の王や長に比べれば、その身を飾る装飾は最低限に抑えていた。
それは彼女が、自らの身を飾ることに興味を持たぬが故だった。
(女の身というのは、煩わしいことだ)
身を包む重たい衣装に、翔華はため息を付く。
翔華は王の血を継ぐ承継者としての王ではない。
彼女は龍夢の地で最も強い仙の力を持つ者として、王を奪い取った武勇の主なのだ。
小さな頃から王族として蝶よ花よと育てられたわけではない。
仙としての力を戦で誇示し続けたが故に、今の地位がある。
故に、煌びやかな衣装や女としての贅沢には、いまいち心が躍らない。
(戦の最中であれば、簡素な仙衣に替えてしまうものを)
休戦時である今、その様なことをすれば、かの者は毛を逆立てて叱りにくるだろう。
(それはそれで愛らしいことだが、小言で耳にタコを作るのは気が進まないな)
かの者が嫌味の言葉を次々に投げつけてくる様を想像し、翔華は再び息を吐く。
翔華は字を翔麗花。
王号を武龍王という。
麗らかな花という字からは連想できない厳つい王号を、彼女自身は割と気に入っている。むしろ、王号に合わせて字を変えたいのだが、これもやはり、かの者が反対するので変えることができない。
翔華は、結局のところ、あれに弱いのだ。
そんなことを思いながら、執務室の扉を侍従らが開いたところで、室内から鈴の音が鳴るような声がした。
「おかえりなさい、阿花!」
身内か恋人のような呼び方で名を呼ぶ彼女に、翔華は苦笑する。
王である翔華の守役。
名を翔凛、字を翔颯懍。
彼女こそが、先ほどまで武龍王・翔華の頭を悩ませていた人物であった。
美しい黒髪、きりりとした涼やかな目元、白い肌に赤い唇。
氷のような美しさを体現したような彼女は、見目は十八歳頃、実年齢も五十歳に及ばぬ年若い仙であるにも関わらず、王に最も傍近く使える三公が一、大保を担っていた。
実権を持たない名誉職である三公のうち、太師、太傅は適任がおらず置いていないので、もはや一公と言ってしまっても良い気もする。
とにかく、彼女がその若さでこの名誉職に就いたのは、王である翔華が彼女を気に入っているからに他ならない。
彼女は美しい。
そして、翔華を好いているため、愛嬌がある。
それだけならば、お気に入りの侍女として傍に置くだけなのだが――彼女には治の才がある。
「ただいま、翔大保」
「あら。そんな他人行儀な呼び方をするなら、後が怖いですわよ」
「自分で言うことか。ほら、阿懍。気を損ねるな」
「まったく。主上ときたら、気が浮ついていらっしゃるようですわね。龍のひげがそうさせるのかしら」
「……」
龍のひげという言葉に眉根を寄せる翔華に、大保・翔凛は目を丸くした後、くすくすと笑う。
「まあ、そんな嫌そうなお顔をなさらないで。――ほら、皆は書簡をそこに置いて。優先度の低いものは、隣の秘書省の部屋の二の棚に並べて置いてちょうだい」
大保・翔凛は白地に赤色が映える美しい衣をふわりと翻しながら、一緒に入室してきた秘書省の官吏に指示を出す。
実は、秘書省というのは、この大保・翔凛が作った部署なのだ。
三公は通常、実権を持たない。
その下に六官が存在し、彼らが実務を行うのだ。
官吏はすべからく天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官に分かれ、それぞれに執務を所掌する。
そして、龍夢の地の女王・翔華の秘書を行っていたのは、以前は国の政治の中枢を担う天官達であった。
その天官達が担う秘書部を、大保・翔凛が自分の配下である『秘書省』として、組織を改めたのである。
(散々な反対を受けての改革であったが、よくまあ涼しい顔で実現したものよ)
大保・翔凛は天官からの反対を押し切り、この秘書省を作り上げた。
そして、彼女がこの改革を行ったのは、すべて翔華のため、それだけであった。
六官の頂点には、最高事務官たる六卿が存在する。そして、それぞれの官は当然ながら、卿の指示に従うよう、組織立てられているのだ。
武勇の王である翔華よりも、冢宰の影響が色濃い天官達。秘書部を天官が担い、彼らに囲まれながら生活していた頃は、さしもの翔華も気が抜けない日々を過ごしていた。
しかし新たに作られた秘書省は、実権がないはずの大保配下の組織である。
六官に割り振られていない省の官吏は、その長である大保に似たのか、政治の喧騒から解き放たれたのか、ピリついたところのない穏やかな人間が多かった。
そしてなにより、派閥に寄ることなく、王・翔華に正しい情報を集めることに心を尽くしてくれる。
この組織改革により、翔華は優秀な腹心の部下を得ることとなったのである。
(旗下が増えるのは望ましいことだが、頼んでもいないうちから、よくぞ成したものだ)
強制的に王・翔華直属の旗下を作り上げた大保の功績は、瞬く間に大陸に広まった。
彼女はこれにより、『龍夢の王は武勇のみで立つものではない』という噂を作り上げたのである。
若く美しい腹心の手腕に、実のところ、政務に疎い翔華は頭が上がらない。
(この配下に捨てられたら、私は首を失うのだろうな)
戦国の世とは、得てしてそのようなものだ。
国の政治的頂点に辿り着いた者の末期は、定まっている。
そのような想いに耽っていると、翔華の旗下筆頭たる彼女は、眉根を寄せてこちらに近づいてきた。
「まあ、主上。またよからぬ考えに浸っているお顔をなさっておられますよ」
「そのようなことを私に言えるのはお前くらいだよ、阿懍」
「大司馬の翔才俊は間違いなく同じことを言うと思いますわ」
「ふん。夏官は別だ」
「天官も別にしてもらいたいものですわね」
さらりと嫌味を述べてくる大保に、翔華は不満を隠さない。
翔華は武勇の王だ。なればこそ、軍政を担う夏官とは相性が良く、そもそもの知り合いや伝手も多い。
けれども、王として立つからには、国政を成す天官にも旗下を持つことが必要だ。
自身の王がそれを苦手としていることが分かっているからこそ、この大保は自身の下に秘書省を設けたのであろうに、王がその苦手分野を放棄することを許してはくれないらしい。
「それはそうとして、龍のひげ。どうなさるおつもりで」
「そんなことは決まっている」
可愛い大保の問いかけに、翔華はニヤリと不遜に笑う。
「そんなものは叩き壊してくれる。覇道は我が手にあり。龍の助けなど必要とはせぬ」
その存在は至宝ではないのだと切り捨てる主君に、それでこそ我が王であると、大保は華のような笑みを浮かべた。
【呼び方ファンタジー設定】
本名:これで呼ぶのは目上の者。または煽り目的で使ってくる敵。
字 :名誉ある通称。近しい間柄の呼び名。
王号:王としての通称。
阿〇:超仲良しの呼び方。