堕性
空気が澄んでいた。雲一つない、夜空。
僕の優しさに付け込んで、君は僕を拠り所にした。
悪い気はしなかった。
ただ、その時に抱いた気持ちは、確かに久しい気もしたけれど、君にも、僕ですら、分からなかった。
僕が異端であることは、中学一年生の時に気づかされた。
当たり前に生きていたんだ。当たり前に生きていたはずだった。
初めて、僕は同性に恋愛感情を抱いた。きっかけは分からない。
ただ中学生らしく一緒に勉強して、同じ部活に入って、一緒にゲームをしていただけだった。
それなのに、独り占めしたいと思ってしまったんだ。
最初は疑いもしなかった。
でも、時が経つにつれて、僕の中には依存と束縛心という異物があると必然的にも知ることになってしまった。
こいつと一緒にいたい。こいつの隣は僕がふさわしい。誰とも関わらないでほしい。こいつがいないと僕は生きていけない。
こんな気持ち、今思えば、ただの友達に思うわけがないと分かる。
でも、分からなかったんだ。未熟で社会も経験して いないような中学生には。
ただ、その気持ちが「愛している」と説明できるぐらいには自信があった。
しかし、気持ちとは抑えられないもので、自己中心的な生活を送ってきた。
気持ちをあらわにすれば、
「気持ち悪い。」
「近づかないでほしい。」
「俺の事狙うなよ。」
言葉のナイフは永遠と僕の心を突き刺した。
何も言わずに去っていったやつもいた。
その行動ですら、僕の心に傷をつけた。
その時、気づいた。僕は異端なんだと。異端のやつが普通のやつになじめるわけがない。
なじもうとするだけ無駄なんだ。そう思った。
時は経ち、高校生になった。
最悪な中学生活を終え、僕の中でも何かが変わるきっかけとなった。
「同性を好きになる」ことを自身のアイデンティティとして、それを含めて自分を好きになろうと努力をした。
幸い、高校での友人は、差別や軽蔑はせず、ありのままの僕を友人として受け入れてくれた。
持ち前のコミュニケーション能力のおかげで友人も多かった。
もちろん、高校でも同性を好きになった。結果は失敗。
このあたりから、同性を好きになっても、この気持ちは報われないと思うようになった。
それからというもの、同性を好きになっても、片思いを楽しんで、気がなくなれば「好きだったんだ。」と諦めの告白をする。
これは、自分の気持ちを伝えながらも、関係を保つ魔法の言葉。
でも、薄々気づいていた。この魔法の言葉を言うたびに、僕の心はすり減っていると。
僕が傷つけば、周りはうまくいく。
友人の存在が僕を僕たらしめてくれるんだ。
僕の存在価値は友人によって定義される。
自己犠牲の精神を覚え、これが「僕」なんだと思い込んだのはこの時だった。
2024年4月、僕は大学に進学した。
中学の時から英語に自信があった。
将来は、英語を使えるような仕事に就こう。
そんな軽い考えで英語を重点的に学べる大学に入学した。
晴れ晴れとした気分だった。
大学の木々は桜色に芽吹いていて、意気揚々と部活動勧誘をする先輩たちがいて、僕は大人になった気分だった。
僕が所属するのは少数クラスが特徴の英語専攻。
慣れない施設、慣れないスーツでオリエンテーションに臨んだ。
周りを見れば、髪を染めている人、奇抜なファッションをしている人、ピアスを開けている人、高校までの生活ではあまり見ないような人ばかりで正直怖かった。
こんな人たちとうまくやっていけるのだろうか。
人と関わることに自信のある僕でさえ、不安が押し寄せた。
「以上で、オリエンテーションを終わります。大学バスの台数には限りがあるので、できる限り早く帰宅をするようにしてください。お疲れさまでした。」
事務の人がそう言うと同時に、教室が騒がしくなった。
「ねえねえ、名前なんて言うの?インスタ交換しようよ。」
そんな言葉があちらこちらで聞こえてきた。その中でも、即座に帰宅するものもいた。
自分は呆気にとられた。こんなすぐに連絡先って交換するものなのか?
僕もこの波に乗って誰かに連絡先を聞こうか、それともすぐさま帰ろうか、迷っていた時だった。
「あの、これって帰っていいやつですかね?」
話しかけてきたのは茶髪の男の子だった。
「ああ、多分、いいんじゃないですかね?帰っている人、いましたし。」
焦って早口で答えてしまった。変な人って思われてないだろうか。
「ですよね。あ、インスタ交換しませんか?」
その男の子は、僕が考えていたことを当てるかのように、優しい声色で聞いてきた。
「あ、もちろん!」
嬉しさでいっぱいになった。大学で初めての友達だった。
「俺は、佐野優樹。これからよろしくね。」
「あ、僕は、日比野愛生。よろしく。」
何度も経験したような挨拶を交わして帰宅した。
お風呂を済ませ、あとは寝るだけとなった時、ふと彼のことが気になり、インスタグラムのアカウントを見ていた。
ありきたりな誕生日と名前を混ぜたユーザーID と、○○高校 から × × 大学、部活動。
見慣れたプロフィールのテンプレートもどこか新鮮に見えた。
僕は勇気を出してメッセージを送ってみた。
「よろしく!」
返事はすぐに返ってきた。
「よろしく!これからあっきーって呼ぶね!」
呼ばれ慣れたあだ名も少しむず痒かった。
「じゃあ、ゆうきくん、でいいかな?」
「ゆうきでいいよ」
うぶらしいやり取りが始まった。
大学生活の不安から、私服通学への違和感、履修選択など大学生らしい会話をしていた。
少し打ち解けたような雰囲気のなか、二度目の対面。
少し恥ずかしい気持ちもありながら、僕は呼び掛けた。
「優樹!おはよ!」
優樹はにこやかな笑顔で返してきた。
「あっきー!おはよ!」
僕の中の不安が解けた気がした。
優樹といると気が楽だ。ありのままでいられる。
……ありのまま?ふと思った。
優樹に僕が同性愛者であることを打ち明けたらどう思われるんだろう。
慣れない大学生活で、そんな急に打ち明けてもいいのだろうか。
嫌われやしないだろうか。とうの昔に忘れていた不安と恐怖が一気にこみ上げてきた。
そう悩んでいたら、声をかけられた。
「あっきー、どうしたの?早くしないと授業遅れるよ?」
「あ、ごめん。なんでもないよ。」
気持ちを悟られまいと一生懸命に作った笑顔で言葉を返した。
もう少し、もう少し仲良くなって、言えるようになったら伝えよう。
大学に入って初めての友達を失いたくはない。
もう離れてほしくないんだ。そう思った。
2024年5月、気温もだんだんと過ごしやすくなってきて、あれだけ初々しかった僕らも大学生らしくなっていた。
毎朝早起きをして、満員電車に揉まれ、英語で行われる授業に圧倒され、大学食堂でお昼ご飯を済ませ、授業が終われば帰宅する。
「飲み行こうぜ!」
やんちゃな奴の声が聞こえる。
それに乗っかるやつも大勢いた。
「未成年だよな……?」
小声で呟いたはずだったが、聞き慣れた声が答えた。
「まあ、大学生なんてそんなもんでしょ。」
振り向くと、そこには優樹がいた。
「優樹、いたなら声かけてよ。びっくりしたんだけど。」
「ああ、すまにい。」
優樹はふざけながら、僕にもたれかかってきた。
「ちょ、重たいよ。」
「いいじゃんか別に。筋トレだと思ってさ。」
優樹に悪気はないのだろう。それにしても距離が近い。
言うなれば、恋人のような距離感だ。
このままじゃ、僕の気持ちが持たないんだけど……!
心の中で悶えながらも、澄ました顔でやり過ごした。
次の日も、席自由のオンライン授業で、優樹は僕に肩を寄せて授業を受けていた。
「この授業、何言ってるか全く分からないんだけど。」
優樹は有名なパズルゲームをしながらそう言った。
「そもそも、優樹聞く気ないじゃん。何してんの。」
「パズルゲームだよ、あっきーもやる?」
「僕は真面目に授業受けるんで。」
お互いに気を遣うことがなくなるぐらいには打ち解けていた。
ただ、僕の心の中は平穏ではなかった。
同性愛者である僕にとっては、こんなにも距離が近い男の子を意識しないなんて無理がある話だ。
このまま僕の中の気持ちが拗れたら、僕も優樹も嫌な思いをするだろう.
そんなことを思いながら、二週間を過ごした。
いい加減、我慢の限界だった。
しかし優樹に非は無い。ただ僕の心が限界だった。
覚悟を決めて僕が同性愛者であることを伝えることにした。
幸いにも、ちょうどよく二人きりになる時間ができた。
「次の授業って課題あったっけ?」
優樹が聞いてきた。
「あ、うん、あるよ。教科書のこのページ……。」
覚悟を決めたが故の緊張感で、いつも通りの会話でさえ、不自然に感じられるような答え方だった。
「ねえねえ、あっきー、これってどんな意味?」
「ああ、これは、えっと、『明らかな』って意味の形容詞……だよ。」
目を合わせられなかった。いつもなら合わせられるはずなのに。
否定される怖さを考えてしまった。
そんな尋常でない僕の違和感に、優樹はすぐに気づいた。
「あっきー、どうしたの?なんかあった?今日、ちょっと元気なさそう。」
優樹の言葉に涙が出そうだった。
その言葉に答えたい気持ちとその言葉がナイフに変わる恐怖が葛藤していた。
優樹なら受け止めてくれるんじゃないか。
ありのままを好いてくれるのではないか。
そんな小さな希望を抱いてしまった。
今までの経験上、この希望は絶望に変わる。
でも、信じたいと思ってしまった。優樹は僕を受け止めてくれると。
「あのさ、優樹。」
震える声で呼び掛けた。
「うん、どうしたの?」
優樹はまれにみる真面目な顔で返した。
優樹は寄り添おうとしてくれている。僕はそう感じた。
でも、単刀直入に聞く勇気は無かった。
「……LGBT って知ってる?」
同性愛者のような性的少数者を表す呼称。
最近では、ニュースでも取り上げられているため、この
言葉がとっかかりやすいと思った。
「うん、知ってるよ。よくテレビにも取り上げられてるよね。」
想像していた言葉が返ってきた。
「……どう思う?」
僕は一層震えた声で聞いた。
「うーん、まあ、そういう人もいるんだーって感じ?」
どっちだよ。そう思った。
この「どっち」というのは、それについて嫌悪感を持っているか否かのことだ。
「そっか……。」
いつもならすぐに言葉が出てくるはずなのに頭の中で文字だけがぐるぐると渦巻く。
ただ文字を並べて言葉にするだけなのに言葉の整理すらできない。
言葉を作らなきゃ。伝えたいことを言わなきゃ。優樹の優しさに応えなきゃ。
そう考えているうちに、自分が泣いていることに気づいた。
「あっきー?どうしたの?ねえ、なんで泣いてるの?ごめん、俺なんかした?」
焦っている優樹を見て、不思議と緊張が解けた。涙が頬に一筋の線を描いた。
「僕さ、同性愛者なんだ。男の子が好きなの。」
自然と言葉が出てきた。優樹は驚いた表情をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「なんだ、そんなこと?」
僕は驚いた。
否定されると思っていたのに、どっちの立場とかではなく、本当の意味で優樹は気にしていな かった。
「……驚かないの?」
想像もしない答えに、小声で聞いた。
「さっき言ったじゃん。そういう人もいるんだって感じって。別にあっきーがそっちでも関わり方を変える必要はないでしょ?」
その言葉を聞いて心が満たされた気がした。
不安と恐怖が安堵に変わった。
それと同時に気づいた。僕、優樹のことが好きなんだ。
ありのままを受け入れてくれて、僕との時間を大切にしてくれる。
僕には優樹が必要なんだ。
「ありがとう、僕を受け入れてくれて。」
僕は笑顔で言った。
「おう、なんかあったらいつでも相談しろよ。親友。」
優樹は屈託のない笑顔でそう言った。
「さあ、次の授業行こうぜ。」
「うん。」
いつも通りの大学生活が、少しきらきらとしたようだった。
それからの日々は、夙夜夢寐だった。
2023年10月、夏季休暇を終え、後期が始まろうとしていた。
うだるような暑さの中、僕はいつも通り優樹と一緒にいた。
そのころには優樹だけではなく、ほかの友人も数人い た。
そのせいか、他県の喋り方が移ったりもした。
慣れ親しんだ私服通学に、退屈な授業、お昼はいつも大学食堂。
二限目を終えた僕たちは食堂に行くことになった。
「あっきーは今日何食べるの?」
優樹が聞いてきた。
「うーん、まあ、きつねきしめんかな。」
「あっきー、いつもそれだよね。」
「別にいいだろ。そういう優樹は?」
「俺はねー、台湾まぜそば!」
「お前もいつもどおりじゃねえか……」
たわいもない会話をして、席に着いてそれぞれ注文したものを食べる。
「あれ、優樹って辛いの苦手じゃなかったっけ?」
「これはいけるの!」
その割には、涙目だけどな。
心の中でそう思ったが、あえて言わなかった。
僕がご飯を食べ終わりそうなとき、優樹が話しかけてきた。
「あのさ、あっきー。今日、放課後時間ある?」
「放課後?うん、まああるけど。」
「相談乗ってほしいんだ。」
「お、おう。わかった。」
いつになく真面目な顔の優樹に戸惑いながらもそう答えた。
「今じゃ、ダメなの?」
「今は、その……」
優樹が何かを言いかけた時、高らかな声が聞こえた。
「お、優樹!あっきー!」
その声の主は、同じクラスの南紫音だった。
「ああ、紫音。どうしたの?」
優樹はさっきの顔が嘘に思えるような笑顔で答えた。
「お前らを追いかけてたんだよ!俺を置いて昼飯食いやがって!」
紫音は少々不機嫌な様子で僕の前に座った。
「ごめんごめん、食い終わるまで待っててあげるから食べや。」
僕は紫音にそういって、水を汲みに行った。
紫音と優樹は仲良さそうに話していた。
ふと、僕の心に何かもやもやしたものが生まれるのを感じた。
なんだ、この気持ち……。
胸のもやもやを感じながら、席に戻った。
「てかさ、優樹、お前まじで抜けてるよな?」
紫音が口火を切った。
「え、どういうこと?」
優樹は戸惑いながら聞いた。
「いや、頭のねじ何本か抜けてんじゃねって話、お前顔はいいのに、そういうとこマジで蛙化だわ。」
紫音はからかうかのように笑いながら言った。
優樹が気まずそうにしているのに僕は気づいた。
「うーん、でもそれが優樹のいいところじゃない?ありのままの優樹ってことだし。俺はそういう優樹が好きだよ。」
自分でも驚くほど、流暢に優樹のことを庇っていた。
「え、もしかして、あっきー。優樹のこと好きなの?」
釘を刺された気分だった。紫音には話していなかったから。
「そういうんじゃないよ。」
焦りながらも平静を装ってそう答えた。
「ふーん、てか、俺次授業だわ、じゃあお先に。」
そう言って、紫音はそそくさと去っていった。
優樹はいつになく静かで、詮索するのは野暮だと思うほどだった。
それからの授業は、いつもより集中できなかった。
授業が終わり、放課後。
学校近くの公園で優樹と話すことになった。
「ごめんな、俺のために時間割いてもらっちゃって。」
「んーん、別にいいよ。それよりどうしたの?優樹が相談なんて珍しい。」
僕らは、公園のブランコに座って話し始めた。
「いやさ、最近、周りに いじられることが多くてさ。」
すぐに、今日の昼の出来事が思い浮かんだ。
「この性格上、よくいじられるんだ。まあ、おかげでみんなと仲良くやれてるとは思うんだけど。もちろん、それがネタだって分かってる。でも、最近は俺のことをよく知らない人の前でもいじられるようになってきて。」
優樹の目には、涙が溜まっていた。
「俺、本音を言おうとすると、詰まっちゃうんだ。だから、言いたいことがあっても言えないし。でも言わないと俺の心が死んじゃうって分かってるのに……。」
言葉に詰まってしまった。僕も同じだからだ。
本音を言おうとすれば、恐怖心から口に出せず、焦りに焦って涙が出てくる。
僕もこんな自分が大嫌いだし、直したいと思っていた。
でも、それは難しくて、何度も死のうと思ったほどだった。
ただ、その時の僕は自信に満ち溢れていた。
この辛さを分かっているからこそ、親友には同じような経験をしてほしくはない。
僕にできることがあるなら全部して、 優樹には嫌な思いをしないでほしい。そう思った。
「その気持ち分かるよ。僕もそうだったから。」
優樹は不思議そうな顔で僕を見た。
「僕も同性愛者であることをいじられて、本当は嫌だったのに何も言えなかったんだ。できるのは笑うことだけだった。」
気づけば、僕の目にも涙が溜まっていた。
「よく言うじゃん。いじめはいじりの延長線上だって。それは本当なんだ。僕は同性愛者であることで周りにいじめられて、仲良かった友人でさえ離れていった。でもね、それですら好きになろうって思ったんだ。傷のある自分ですら好きになれば最強だって思った。」「もう終わりにしたいって思ったことはないの?」
優樹が泣きそうな声でそう言った。
「もちろんあるよ。でも、小さな希望に縋りたかったんだ。僕を受け入れてくれる何かが現れるって。おかげさまで、僕はそれを見つけられたよ。優樹が僕を受け入れてくれたから。」
泣きながらも自信に満ちた笑顔で優樹を見た。
「何かあれば、 僕を頼ればいい。僕がどうにかしてあげる。全員に好かれる必要なんてない。自分の心とありのままを受け入れてくれる関係性だけ好きでいればいいんだよ。」
優樹はただ泣き崩れていた。
言葉を出すのもままならないほど嗚咽をあげて泣いていた。
僕の言葉への答えは無くとも、優樹の涙は悲しさや辛さによるものではなく、安堵と感謝であることは明確だった。
優樹が泣き止むまで、僕はそばに寄り添っていた。
30分ほどして、優樹は泣き止んで、震えた声で話しかけてきた。
「ありがとう、あっきー。あっきーのおかげで心が軽くなった気がする。あっきーがいなかったらどうなってたか……。」
優樹は小さな笑みを浮かべていた。
「僕はいつでも優樹の味方だよ。」
真剣な顔でそう伝えた。
「うん、俺もあっきーの味方だよ。」
二人で笑いあって少し涼しい夜を公園で過ごした。
空気が澄んでいた。雲一つない、夜空。
僕の優しさに付け込んで、君は僕を拠り所にした。
悪い気はしなかった。
ただ、その時に抱いた気持ちは、どこか、どこかで経験した悪夢と似ていた。
2024年6月、あれから時は経ち、二年生となった。
否が応でも先輩になることは免れなかった。
少数クラスの英語専攻は縦のつながりもある。
持ち前のコミュニケーション能力で後輩とはすんなり仲良くなった。
コミュニティが増えていっても優樹を思う気持ちは変わっていなかった。
いつも通り優樹は距離感が近くて、僕の心は穏やかではなかった。
僕から近づいてもいいのだろうか。
近づいて否定されたらどうしようか。
またも不安が僕を襲ったが、打ち明けた日のことを思い出した。
あの日、優樹は「あっきーがそっちでも関わり方を変える必要はないでしょ。」と言っていた。
優樹が近づいてきているんだから、僕が近づいたっていいじゃないか。
少し意地を張った気持ちだった。それからというもの、優樹の行動に呼応するように僕も距離を縮めていた。
ある日の授業、いつもなら僕の隣に 座っていたはずの優樹が別の友達のところに座っていた。
あれ……いつもなら僕の隣にいるのに。なんであいつの隣に?
明確な嫉妬心だった。
優樹は僕に心を許してくれた。僕も優樹に心を許していた。
だから、僕の隣は優樹でいるべきだ。
……僕の隣は優樹でいるべきだ?
僕はようやく気づいた。
このもやもやの正体は、あの時、悪夢のように忌み嫌った中学の時に感じた、依存と束縛心と同じものだと。
二限目が終わり、お昼の時間。
いつもなら優樹と一緒に食堂に行くはずだが、何の連絡もない。
仕方ないと思い、一人で食堂に行こうとすると仲良くしている数人の友人が列に並んでいた。
その中に優樹の姿があった。優樹の姿を見て、足が勝手に動いていた。
話しかけようとしたとき、友人の一人の声が聞こえた。
「愛生って、まじでうざくね?距離感近いし気持ち悪い。」
足が止まった。聞き間違いだろうか。何度も頭で考えた。
しかし、その友人の発した言葉は、間違いなく僕のことを言っていた。
その友人の言葉に優樹は答えた。
「え、わかる。まじで気持ち悪い。」
裏切られた。そう思った。僕は何も考えられなかった。
ああ、また知らないうちに人に嫌な思いをさせてしまった。
友人が僕を定義するのに、友人の中で僕は最悪な奴と定義されてしまった。
優樹にさえ、そう思われてしまった。
理解が追い付かず、心の中を満たしていたものが消えたのを感じた。
それからの授業は無断欠席。
放課後、いつもクラスの友人が集まるスペースに優樹がいた。
僕は信じたくなかった。優樹が僕にそんなことを思っているなんて。
だから、いつも通りに話しかけた。
「優樹!お疲れ!」
「ああ……お疲れ。」
優樹は目を合わさなかった。
「今からバイト?」
「うん。」
「塾だっけ?」
「うん。」
明らかにおかしかった。
いつもなら笑顔で返してくる優樹が、まったく目も合わさずに「うん。」の一点張り。
僕はその状況に焦ってしまい軽い気持ちで聞いてしまった。
「なんか今日冷たくない?もしかして僕のこと嫌い?」
ネタ交じりに聞いた。その言葉に反応をして、優樹が目を合わせた。
「うん、嫌い。」
「……え?」
僕はまた何も考えられなかった。一瞬の出来事を整理できなかった。
僕が呆然としていると、優樹は用がないかのように身支度を済ませその場を去ってしまった。
体が動かなかった。本当に裏切られたと確信してしまった。
信じたくなかった事実を突きつけられてしまった。
大好きだった優樹の言葉は、ナイフとなって、僕の心を貫いた。
僕は寂寞の念に駆られながら帰路についた。
週が明けて憂鬱な一週間が始まった。
月曜日、いつも一緒にいたはずのオンライン授業、見慣れた優樹は隣にいない。
火曜日、英語専攻の必修授業、優樹は隣にいない。
水曜日、同じ空間にいるのにゆうきとは目も合わない。
木曜日、一緒に取った韓国語の授業、そいつとの会話はない。
金曜日、仲の良いメンバーが集まる授業、あいつは隣にいない。
僕の周りには、誰もいなくなった。
週を締める最後の授業、いつも通り一人で座った。
「じゃあ、レポートの準備ができた人から、印刷してきてください。そんで、そのあと見せて。」
先生はだるそうにそう伝えて椅子に座った。
教室は喧騒を取り戻し、何人かはノートパソコンとにらめっこ、何人かは教室を出ていった。
教室を出ていく友人の中にはあいつの姿もあった。
僕は、孤立した。
あいつから孤立した。
仲のいいグループから孤立した。
少数クラスから孤立した。
英語専攻の中から、孤立した。
味方が、いなくなった。
僕が傷つけば、周りはうまくいく。そう思っていた。
そのために友人に嫌われないよう努力していた。
友人の存在が僕を僕たらしめてくれる。
僕の存在価値は友人によって定義される。
それが「僕」なんだ。ということは……僕は死んだも同然ではないか。
どうしようもない虚無感と嫌悪感に吐き気がした。
耐えられなくなり、僕は教室を飛び出してトイレに走った。
現実を見すぎたゆえだろうか。
吐き気は抑えきれなかった。
その吐瀉物には胃の中の物だけでなく、毒物のような今までの記憶も含まれていた。
その毒物を吐けば楽になれるのではないか。
そう思い、吐いた。吐いた。吐き続けた。
しかし、もう手遅れだった。
不運にも、その毒物は長い時間をかけて、血管を通るように体全体に回ってしまっていた。
それはすでに僕の体を、脳を、心を蝕んでいた。
ああ、今の僕は、まさに、堕性だ。
憂鬱な一週間が終わった。
孤独と嫌悪を感じながら、帰路についた。
街行く人々のざわめき、音を鳴らす信号機、電車の到着を知らせるアナウンスに、がたんごとんとうるさい電車の音。
すべての音が雑音として聞こえるはずなのに、それらは無音のように感じた。
今の僕に存在価値はあるのだろうか。僕に味方はいなくて、友人は僕を見放した。
すべての事象を表す記号とは、その主体とイメージ を結びつけることで成り立つ。そう定義される。
定義をする主体がいなくなった「僕」という存在はいったい何者なのだろう。
定義されないということは定義される価値がないことと同じではないか。
僕には存在する価値なんて、無いんだ。
そう考えていたら自然と足が動いていた。
僕の足は、注意を表す黄色線を跨いで、存在するはずの地面を踏むことはなかった。
眼前の景色が、電車の顔でいっぱいになった時、頭の中にいろいろな景色が浮かんできた。
中学生の時、同性愛者であることを自覚した。
友人に軽蔑され、いじめられた。僕の中の異物を自覚した。
高校生の時、そんな自分でも好きになろうと努力をした。
僕の恋は報われないもので、必ず誰かが苦しんでしまう。
大学生になって、改めて人とのつながりを意識した。
けど、そこにあるのは幻想で、皆、僕を裏切った。
僕は使い捨ての駒だったんだ。必要がなくなれば捨てられる。そんな都合のいい存在だった。
友人にさえ捨てられた僕には、こんなバッドエンドは逆にお似合いなのではないか。
そう思ったら、不思議と涙と笑みがこぼれた。
一秒後、僕の意識は途切れた。
空気が澄んでいた。雲一つない、青空。
病院のベッドで意識が覚醒した。
「あれ……死んだはずじゃ……。」
小声で呟いた。その瞬間、廊下の方から声が聞こえた。
「愛生!愛生!」
聞き慣れた母親の声だった。焦りながら病室に入ってきた母親に続いて、父親が息を切らしながら入ってきた。
「愛生!大丈夫なのか!」
「あ、ああ、大丈夫だよ。」
普段、あまり両親と話さない僕は少し緊張した。
「本当に心配したのよ。学校帰りに電車に跳ね飛ばされたって聞いて。幸い当たり所が良くて、轢かれることはなくて頭の打撲で済んだらしいけど。」
母親が心配そうな口調で状況を説明した。
「学校にはとりあえず連絡しておいた。病院の先生によると、一週間は入院した方がいいって。」
父親がそう言った。
「ああ、そうなんだ。」
少し気が楽だった。死ぬことはできなかったけど、あいつらに会わなくて済むんだと思えば。
それからの一週間は、惰性のような日々だったけど、穏やかだった。
規則正しい時間に起きて、薄味の病院食を食べて、備え付けのテレビで暇つぶし、振り返る価値もないほどの1日を過ごして寝る。
毎夜、願っていた。一週間という悪夢へのカウントダウンを目の前に、このまま一日が終わらなければいいのにと。
そんな願いはもちろん叶うわけはなく、あっという間に一週間が過ぎてしまった。
退院の日、どうにかしてまだ入院していられないかと考えていたら、ドアのノックが聞こえた。
「はーい、どちら様ですか?」
「愛生!入るよ!」
それは元気な母親の声だった。
ドアが開き、笑顔の母親と父親が入ってきた。
「ようやく退院ね。」
「まだ辛かったら全然学校休んでいいからな。」
両親が矢継ぎ早しに話しかけてきた。
僕は必要な会話だけして、退院の準備をした。
準備をしていると、母親が話しかけてきた。
「愛生。そういえば、事故の時にスマホ壊れちゃったみたいだから、買い替えておいたわよ。新しいやつ。」
そう言って、僕に新品のスマホを渡してきた。
「ああ、そうなんだ。ありがとう。」
笑顔で受け取った。
自宅へ帰ってから、スマホの初期設定をした。完全にまっさらなデータ。
そこに、入院前の出来事を残す記録なんてものはなかった。
週が明けた月曜日、憂鬱な一週間がまた始まった。
学校に行く気力はなかったし、父親にも休んでいいと言われたけど、単位を捨てたくはなかったから、重い腰を上げて学校へ行った。
早起きも満員電車ももう何も感じない。
予習のためにいつもより早い時間に学校についた。
この時間は確か空き教室があるはずだ。
そう思って、空き教室を探していると、忘れていたはずの優しい声が、僕の名前を呼んだ。
「愛生!」
理性が振り向くなと言っている。
しかし、本能はそれを無視して振り向いていた。
心のどこかで声を聴きたいと、姿を見たいと、触れたいと、その存在を噛みしめたいと、その匂いを感じたいと、そう思っていた存在がそこにはいた。
「優樹。」
震えた声でその名前を呼んだ。
優樹は息を切らしながら、もう一度僕の名前を呼んだ。
「愛生。」
「なに?」
「今時間ある?話したいんだ。愛生と。」
言葉が詰まってしまった。
話したい気持ちともう関わりたくないという気持ちが葛藤していたが、僕は自然とその言葉に頷いていた。
静かな空き教室、朝早い時間なのもあり、学生の姿は多くない。
時計が秒針を刻む音だけが響いていた。
どう口火を切ろうか考えているのは、お互いに気づいていた。
長い沈黙の末、優樹が口を開いた。
「元気だった?」
「うん。」
「先生が、『日比野くんは事故にあったらしくて、今入院をしています。』って言ってたから。」
何を勝手に言ってるんだ。心の中で先生へのいら立ちを抑えながらも優樹の言葉に返した。
「見ての通りだよ。元気。」
「そっか……。」
また、長い沈黙が訪れた。
優樹が僕に近づいて、頭を下げた。
「ごめん。今まで謝れずにいた。」
優樹は顔を上げて話し始めた。
「嫌いって言ったこと、愛生のことをハブったこと、本当はすぐに謝りたかったんだ。俺自身、距離は近い方だしなんともなかったけど、いざ愛生に近寄られたら嫌だなって思ってしまった。俺にとって愛生は初めての性的少数者で、どう対応すればいいのか分からなかったんだ。これは当事者の問題だし、すぐに話し合うべきだったのに、俺はいつもの仲良いメンバーに話してしまった。そしたら、みんなで愛生のことをハブることになっちゃったんだ。」
結局こうなる。自己犠牲の精神を持っていたはずの僕は友人に対していら立ちを感じていた。
優樹は話を続けた。
「起こしてしまったことは変えられなくて、あいつらに盾突くこともできなかったんだ。盾突いたら、俺が狙われ
るかもって思っちゃって。俺は、自分のしたことに責任を感じてる。だからこそ、愛生と仲直りがしたい。」
優樹の目はまっすぐに僕のことを見ていた。
その言葉を受けて、僕も気持ちを打ち明けた。この気持ちに誤解がないよう、丁寧に。
「ありがとう。気持ちを伝えてくれて。」
優樹が頷いた。
「僕はね、辛かったよ。あの日、優樹に嫌いって言われて。仲良いって、親友だって思っていた人からそんなことを言われると思っていなかった。今までの思い出が全部、塵になったみたいだった。いつも一緒にいた優樹がいなくなって、優樹との思い出が消えて、僕の心は寂しくなった。」
声が震え、気づけば涙していた。
「分かるよ。どう接していいかなんて言われ慣れたから。でも、人の気持ちなんて分かるわけないじゃん。言ってくれなきゃ分からないんだよ。言ってくれればもちろん直すよ。だって、この関係性を壊したくないから。」
ほぼ泣き声でそう言った。
「そうだよね……。ごめん。」
お互いに気持ちを打ち明け、また長い沈黙が生まれた。
気持ちは打ち明けられたけど、この傷が癒えるわけではない。僕は人間不信になった。
誰にも、もう何も期待はしない。けど、君を好きで居たかった。中身でも顔でもなんでもない。
君のその日々の一部で居たかったんだ。
君という刺激のおかげで、僕は孤独というものを知れたんだ。
そんな皮肉を考えながらも優樹に向き合いたかった。
僕は優樹のことを見た。
「優樹。」
優樹が姿勢を正して僕の方を見た。
「なに?」
僕は覚悟を決めて口を開いた。
今までの自分にさようならを言うように。誠心誠意の気持ちで友人と向き合えるように。
「大好きだったよ、優樹のこと。今までありがとう。」
涙しながらも笑顔でそう言葉を紡いだ。
「ありがとう。」
優樹は今までにないくらい気持ちのこもった感謝を一言で表した。
「でもね、僕はいつも通りでいられる自信はない。こんなことが起きたんだから。」
その言葉に、優樹は数秒黙って口を開いた。
「じゃあ、 あっきーがいつも通りでいられるように努力する。もう寂しいって思わせないように。」
優樹は真面目な顔で僕を見た。
優樹が真面目な顔をするのはめったにない。
だからこそ、その顔は本気なんだと僕は知っている。
「分かった。じゃあ、僕もいつも通りでいられるよう努力する。優樹が嫌な思いをしないように行動するよ。」
優樹の言葉に呼応するかのようにそう答えた。
「……じゃあ、授業行こ?」
優樹は笑顔でそう言った。
「うん!」
僕は涙交じりの笑顔でそう答えた。
優樹は僕の手を引いて教室を出た。
2025年1月、新年を迎え、二年生の終わりを表す最後の週に差し掛かった。
僕の隣には優樹がいる。
でも、優樹には僕より大切にしないといけない人ができた。彼女だ。
僕は少し寂しい気もしたが、純粋な気持ちで祝福した。
優樹とは離れている時間も多かったけど、今では心の底から親友と言えるほどにまで戻った。
最後の週の金曜日、この一日を 過ごせばニ年生の授業は全て終わり。
次にクラスのみんなに会うのは約2か月後の4月だ。
最後の授業を終え、帰路につく。
その時、聞き慣れた声が僕の名前を呼んだ。
「あっきー!」
笑顔の優樹が走ってきた。
「もう二年生終わりだね。」
「そうだね。なんか早かった。」
僕は慣れた温度感でそう返した。
「この一年間、ありがとな。良い思い出作れてよかった。」
「僕は悪い思い出のほうが印象深いけどな。」
僕は意地悪にそう答えた。
「ああ、それは、ごめん……。」
「いいよ。帰ろ。」
僕は笑顔でそう返した。
そんなやり取りは慣れ親しんだものとなった。
大学生活を二年間終えて、多くのことがあった。
優樹とは今でこそ仲良くしているけれど、人間不信が直ったわけではない。
僕が異端であることは争いを生みかねない。
僕と関わりを持つことでトラブルが起きる。
それでも、ようやく理解した。
他人を理解することはできない。
それなら、最初から理解しないようにすればいい。
ありのままを受け入れてくれる人とだけ関わればいい。
最初から、他人に期待しなければいいんだ。
他人よりも自分を大事にしなければいけない。
以前の僕なら、簡単に命を投げ出していたんだろう。
でも今は、ありのままを受け入れてくれる人のためにこの命は捨てたくない。そうやって生きている。
それでも、たまに思い出してしまう。僕が異端であるがゆえに僕自身を傷つけてしまうと。
その傷さえ受け入れて、僕が僕を愛せるように生きることが僕に必要なのだろう。
今、僕は僕を愛せている、僕は友人を愛せている。それでも、他人に期待はしない。
ああ、人間を都合よく使っているのは他人だけでなく自分もなんだな。
今までの人生も、これから先の人生も、僕は堕性に暮れる日々を送るのだろう。
学校を出て空を見上げた。
空気が澄んでいた。そこには雲一つない、夜空があった。いつになく星が綺麗に見えた。