モラン・ノラン。鬼才あるいは変態。もしくは伝説。
リハビリに書いてみた。
モラン・ノランは齢28歳という“若年”にして工房を開くことを許され、帝国新進気鋭の造形師にして彫刻家であり、モランが手掛けた作品は『命を息吹が感じられる』と評されていた。
歳若くして名声と富を得ているため、周囲の嫉妬も大きい……と思いきや、帝国芸術界のモランに対する眼差しはなんというか、生温かい。もしくは呆れているというか。
というのも、この若き芸術家はその卓越した才能と技術に反比例し、ちょっと埒外な奴だったからだ。
たとえば、制作に煮詰まったモランはしばしば奇行に走る。
『神経がざわつくんだよぅっ!』と叫びながら家具や台所用品を窓から投げ棄てたり(帝国警察が踏み込んで取り押さえる事態になった)。
『もっともっとリビドーを高めなければっ!』と喚きながら全裸になって彫刻用石材に抱きつき、べろべろと舐め回し、体を――特にナニとケツを激しく擦りつけたり(連絡が取れなくなって様子を見に来た依頼人と仲介人が絶句した)。
冒険者ギルドに飛び込み、周囲の冒険者達に取り押さえられながら、『モンスターを寄こせ! 資料にするからモンスターを寄こせ! さあ早く寄越せ!』と繰り返したり(恐怖した受付嬢が泣きだした)。
これらはまだマシで、制作が進まず鬱に陥った時は、もう目も当てられない。
帝国が誇る大聖堂礼拝堂の祭壇前で突如全裸になり、聖霊像へ向かって両手を高々と掲げて、『ボクに啓示をくださああああああああああああっ!!』と号泣。司祭達も聖堂騎士達も信徒もドン引きしたこの事件は、後世にまで語り継がれることになった。
取調室。
調査官:何で脱いだの?
モラン:聖霊様の愛と啓示を全身で感じ取りたかった。
これで、モランがシックスパックバキバキのマッチョだったり、ナニが逸物雄渾だったら、まぁ多少の見栄えもあろうが、作業に没頭して頻繁に寝食を忘れるモランはみすぼらしいヒョロガリのショボいアレだから、見せられる方はただただ迷惑である。
諸賢はもう察しがついたであろう。
モランが歳若くして独立工房を開くことが出来た背景には、こういう迷惑行為の悪評に巻き込まれることを厭った親方衆による隔離策であった。
ついでだ。親方衆や同業者の評価を記しておこう。
『聖霊はノランに素晴らしい才能を与えた。ただし、それでは他の人間に不公平なので、正気を奪った』
『芸術家はノランの作品に羨望と嫉妬を抱き、ノラン本人を見て、自分がノランでなくてよかったと安堵する』
『悪魔に取り憑かれてるんじゃねーか?』
おおよそ、彼の人なりを理解いただけただろうか。
○
とはいえ、モランは天才である。
彼が手掛ける作品は例外なく傑作、名作、逸品であった。
その名声は国の内外はもちろんのこと、帝室にも届いていた。
で、だ。この頃、帝国の国母たる皇妃陛下がお隠れになられ、皇帝陛下は愛妻を亡くして意気消沈していた。
なんせ皇帝と皇妃両陛下の婚姻は両人齢8歳という早婚だった。帝国動乱期の真っ只中ゆえ政略婚以外の何ものでも無かったが、皇帝と皇妃は深く愛し合い、仲睦まじいオシドリ夫婦であった。
いわば、皇帝にとって細君は手を取り合って激動の時代を乗り越えた同志であり、共に帝国を切り盛りした共同経営者であり、肝胆相照らし合えるソウルメイトであり、唯一無二の存在だった。その愛は御国や民や我が子達へ注ぐものよりも深い。
ゆえに、細君に先立たれた皇帝は憔悴しきっており、皇太子に禅譲を決意さえしていた。
ついに帝冠を被れる皇太子とその派閥は大いに禅譲を歓迎したが、その他派閥はとても許容できない。帝位継承は時間の問題だったと言えど、こんな急に事態が進んでは諸々困る。
というわけで、その他派閥の面々はあの手この手で皇帝の翻意を試み、留意を促し、そして――
「皇帝陛下の御宸襟をお慰めすべく、何か心尽くしの贈り物をしてはどうか」
どこかの誰かが至極真っ当な案を出した。
そう。この段階では至極真っ当だった。しかし、この案が喜劇的変遷を得たのか、あるいは何某の悪意が混入させられたのか、巡り巡って実動現場に届いた時には、次のようになっていた。
『皇帝陛下の御心を慰撫すべく、亡き皇妃陛下の彫像を贈ろう』
実にセンシティブでギリギリの線を狙ったプランであろう。下手すりゃ即退場物の反応を呼びかねない。
しかし一度動いた話はそう簡単に止まらないもので、皇妃陛下の彫像製作は実行に移された。
彫像は全部で四体作られることになった。
一つは皇帝と出会った少女時代のもの。
一つは皇帝と共に動乱へ立ち向かった乙女時代のもの。
一つは母となった頃のもの。
最後が晩年の御姿。
集められた帝国最高峰の彫刻家4人にそれぞれ一体ずつ依頼することに。
ここで問題になったのは、選抜された一人がモラン・ノランだった点だ。
ノランは腕が良い。帝国屈指の卓抜した天才だ。それは誰しもが認めるところである。しかし、人間性は狂人と紙一重……いや、どこに出しても恥ずかしいキチガイである。
彫っている最中に皇妃陛下の彫像に“粗相”したら? モランはもちろん、モランに任せた奴まで不敬罪でしょっ引かれかねない。
モラン本人はともかく、関係者はそんな理由で咎人になったら末代までの恥であるし、こんな理由で失脚したら泣くに泣けない。
だが、選抜してしまった以上は任せるしかない。誰だよ、選んだ奴。
では、モランにどの時代の作品を任せるか?
幼女時代はどうか。
皇帝陛下と馴れ初めの頃である幼女時代の像に“粗相”なんぞしようものなら、帝国彫刻界はおしまいだ。その点を抜きにしても、アラサー男が幼女の像に破廉恥極まる所業をしている様など帝国人の一般倫理から言って、おぞましいにもほどがある。
乙女時代はどうか。
これも幼女時代と似たような理由から任せたくない。
母となった頃のものは?
これは不味い。“粗相”が起きた時、皇帝陛下はもちろん、皇太子殿下や他の宮様方の御怒りを買いかねない。破滅だ。
国母たる晩年の御姿は?
老婆に“粗相”する30前男もゾッとしないが、それ以上にこのお姿に粗相なんて大問題になる。なんせ晩年の皇妃陛下は方々に熱烈な崇敬者がいる。焼き討ちされかねない。
どうしよう。
冷汗を掻き、腹痛を覚えながら苦慮する関係者を余所に、モランは手を上げた。
「ボクは幼女時代を」
「待て」
帝国彫刻界の重鎮がモランを制し、言った。
「お前は陛下の乙女時代を担当せい」
それが一番マシに思えたから、と彼は後にそう語った。
最善の案はモランを選出しないことだった、とも。
○
モランは天才だ。常人とは隔絶した感性と感覚を持ち、凡人をはるかに凌駕する技術と技量を持つ。
でも、変態だ。それはもうどうしようもないレベルの。
「ボクは皇妃陛下に恋をする」
乙女時代の彫像を委ねられ、工房に戻ってきての第一声。
弟子兼助手のヨッヘン・ヨアヒムはぽかんとして、また何か変なこと言いだした、とげんなりする。
「……どういうことですか、ボス」
モランは物知り顔で語る。
「女性を一番美しく捉える情動は何か。それは恋だ。恋が女性を最も美しく、魅力的に捉える。だから、まず制作を始めるに当たって、皇妃陛下に恋をするっ!」
商売女以外と寝たことないくせに、その確信はなんなんですか? とヨッヘンは思う。
「恋は盲目ってよく言いますけど……あと、恋は人をバカに変えるとも」
ボスは恋をしなくてもバカになりますけど、とヨッヘンは心の中で呟く。
モランはぐりんとキマり気味の目を向け、にたりと唇の両端を吊り上げた。
「ヨッヘンッ! 乙女時代の皇妃陛下について色々調べるぞっ! 身長体重、スリーサイズ、趣味に生活習慣、食べ物や服の好悪からどんなことにどんな喜怒哀楽を抱くか、全てだ! おお、そうだ! 皇帝陛下との初体験はいつだったか、どんな体位が好みで、どんなオーガズムを迎えていたのかも必要だな!」
「後半はぜったい必要ないと思いますけど」
ヨッヘンはもはや何度目か分からぬ溜息をこぼした。
○
モランの創作活動に注ぐ熱量は常軌を逸している。これを狂気と呼ぶことは容易いけれど、それは凡俗の退屈な価値観でしかないのかもしれない。
モランにしてみれば、最高のものを作ろうと決意したならば、自身の全熱量を注ぐことは当然なのだから。たとえその結果、狂を発したとして、最高のものが出来たなら本望ではないか。
彼はまず皇妃陛下の乙女時代のブロマイドや姿絵を片っ端から手に入れた。
そして、片時も身から放さなかった。工房はもちろん自宅のあちこちに貼りつけた。居間にも寝室にもトイレにも、ベッドの脇にも天井にも、貼った。いきおい便器にも貼ろうとしたが、これはヨッヘンが全力で止めた。
食事中も作業中もブロマイドと姿絵を見つめ、夜にはブロマイドと姿絵でマスターベーションをしだした(ヨッヘンが『そんなことしてるって、絶対に余所で言わないで下さいよ、絶対ですよ』とマジ切れした)。
ヨッヘンに怒られ、モランは首を傾げた。今自分は皇妃陛下に恋しているのだ。懸想している相手を思ってセンズリぶっこくくらい、男子たれば自然であろうに(暴言)。
なお、娼館に行って乙女時代の皇妃陛下に似た顔立ちの娘を買い、皇妃陛下の御名を叫びながら腰振り運動を始めるも、女将と用心棒に叩き出されたりしたことも、記しておく。
頭がおかしい? 今更だ。
もちろん、伝手を頼って皇妃陛下についてもあれこれ調べた。
乙女時代の身長体重スリーサイズに趣味や生活習慣、服や食べ物の好悪。お気に入りだった諸々、嫌いだったあれやこれや。交友関係や皇帝陛下との関わり方。そして、性生活。
「本当に勘弁してくれ。命がいくつあっても足りねぇよ」
かつての師匠がすっ飛んできたし、モランの担当役人が顔を赤青させながら工房へ突撃してきた。
ともかく、だ。皇妃陛下の四像制作は進められた。モラン以外は。
モランの手は止まっていた。
方々に大迷惑を掛けながら亡き皇妃陛下の乙女時代の情報を集めに集めたのに、モランは作業に移らない。それどころか、便秘にでもなったような顔で悩みこんでしまった。
「ボス。いったいどうしたんです? 今回のお仕事は納期オーバーが許されませんよ?」
ヨッヘンがカレンダーを横目に問えば、モランは哲学に目覚めた大学生みたいな顔つきで反問する。
「皇妃陛下の乙女時代。ボクは何を描くべきだ?」
漠然とした反問にヨッヘンは師の意図が読めず困惑する。そんなヨッヘンから視線を切り、モランは作業場にデンと鎮座する石材を見つめ、自問するように言葉を連ねていく。
「乙女時代の皇妃陛下を描く。これはいい。だが、そこから先は? 若き美貌? 溌溂とした生命力や活力か? 動乱の時代に立ち向かった強さ? 帝国の民を奮い立たせたカリスマ性? それとも、皇妃陛下が乙女時代に直面した出来事の場面を描くべきか?」
分かってはいる。こういうことを頭で考えているうちはダメなのだと。作品のテーマに沿ったヒラメキ、天啓、福音、霊験、呼び名はなんでもいいが、そういうスピリチュアルな感覚がピカッと頭の中で輝かなければ、自身が納得のいく作品は創れない。それだけは確かな事実だ。
つまるところ、モランの数々の奇行はこのインスピレーションの確保にある。
まぁ、珍しい話ではない。芸術家や学者が神憑りの発想を求めることはよくある話だ。
そして、発想が得られず神経衰弱に陥ったり、精神を病んだり、奇行に走ったり、なんとかして閃きを得ようと、あるいは発想が得られないストレスから逃れようと危険な薬物や酒やセックスに溺れたりする。
たとえば、現代芸術家には向精神薬やマリファナに頼っていたり、コカインやヘロインで心臓をパンクさせたりする奴が少なくない。創作のストレスに屈して首を括ったり、頭に鉛玉をぶち込む奴もいる。変態セックスにハマって身を破滅させる奴もいる。
モランもそういう文脈に身を置く人間だった。酒や薬物に手は出さないけれど、精神衰弱と躁鬱と奇行の常連だ。窒息オナニーを試みて死にかけたこともある。
「そういうことなら、他の時代を担当しているマエストロ達にお伺いを立てては? 今回は4体の合作みたいなものですし」
ヨッヘンが善意から提案するも、モランは純朴な顔つきで不思議そうに問い返す。
「なんでボクが他の連中と足並みを揃えなきゃいけないんだ?」
「そういうとこ。そういうとこですよ、ボス」溜息を吐くヨッヘン。
「テーマは皇妃陛下の乙女時代。では何を描く? この天才たるボクが恋愛の目で彼女を捉えたうえで、どう描けばいい?」
「ボスの目は恋愛というより妄想性情欲と大差ないですけどね」辛辣なヨッヘン。「もはや色情魔ですよ。色情魔。完全に自分のために創ろうとしてるでしょ? お忘れでしょうから言っておきますけど、今回のお仕事は傷心の皇帝陛下をお慰めすることが一番の目的なんですよ。そこを間違えたらダメでしょ」
小言を並べるヨッヘンは不意に気付く。
モランがゾッとするほど集中した目で自分を見ていることに。
思わずヒエッと悲鳴が溢れ、ヨッヘンは慌てて頭を下げた。
「な、生意気な口を叩いてすいませんでした、ボス!!」
だが、モランは何の反応も返さない。バッチバチに決まった眼でモランから石材へ視線を移し、ぶつぶつと口の中で言葉を舐っている。
「そう。そうか。そうだ。そうだな。皇帝陛下のためだ。皇帝陛下のための像でなくてはならない。であるならば描くべきは――」
ヨッヘンは宇宙から電波を受信しているような顔つきのモランを見て、思う。
あ、降りてきたな。
モランは再びヨッヘンに顔を向け、命じる。
「担当官を呼べ。皇帝陛下と皇妃陛下の最もお傍に長く居た人物を紹介して欲しい、と」
○
季節が変わり、豪奢な宮殿大広間に亡き皇妃陛下を記念した4体の彫刻像が並べられる。
はずなのだが、式典開始時刻になっても、宮殿大広間に絹のカバーを被ってお披露目を待つ像は3体しかない。
少女時代、母の時代、晩年の時代。乙女時代がなかった。
関係者の顔は赤かったり青かったり。
顔を真っ赤にして憤慨している者達はモランと直接関わりのない連中。この状況に怒る“余裕”がある幸運な者達。
顔から血の気を引かせ、死人のケツより蒼くなっている連中はモランと関わりがあり、この状況によって寿命が縮む不幸な者達だ。
無関係な諸侯諸官が対岸の火事をニヤニヤと眺め、王宮警備隊が無表情に大広間を見回している。そして、主賓たる皇帝は玉座の肘置きを用いて頬杖を突き、 顔つきで赤かったり青かったりしている者共を無情動に眺めていた。
萎れてしまっていた帝国を一代でヴァイスラント最大国家まで再建した名君は、覇気も活気もなく倦怠な顔つきで宰相に問う。
「像が足りぬようだが……どうするミヒェル。式を先送りするかね?」
皇帝に名前で呼ばれた宰相は恭しく首を垂れる。
「件の像は今、こちらへ搬送中とのこと。もう少しお待ち頂きたく」
「いや、こちらへ搬送しておるのだろう? 先に始めてしまおう。わしは今日、温室の花の手入れをしたいでな……」
皇帝はそう告げ、小さく手を振るう。
「始めよ」
帝国最高権力者の命令により、除幕式が始まった。
最初に純白の絹布が剥がされた像は少女時代のもの。
東の名匠ドールソン作『少女時代・妖精姫』
陳腐な表現を用いれば、題に偽りなし。花の間を舞う妖精のように可憐で美しい少女像が露わになった。
皇妃陛下は少女時代からダンスが得意だったという逸話から、躍動感ある造形が取られている。
大理石の持つ暖かな色味を最大限に活かし、少女特有の華奢さと柔らかさを表現していた。技巧面に注目するなら、少女像がまとう髪とドレスの彫刻だろうか。彫り込まれた髪一本、ドレスの皺一つまで物理学的正当性の説得力を持ち、躍動感を伝えてくる。
何より少女像の表情。活き活きとした微笑みは、見る者まで微笑ませてしまう魅力に溢れていた。
「これは見事ですなぁ」
万事、言葉に皮肉と嫌味を交ぜねば気が済まぬ辺境伯が珍しく手放しで絶賛した。皇帝より老齢の彼は幼き頃の皇妃を知る今や少数派の1人であり、帝室主催の夜会で幼き頃の皇妃と踊る栄を得た1人だった。
「ああ。本当だな。かつての善き日々を思い出す」
倦怠に満ちていた皇帝の顔が薄く和らぐ。少女像の周りをゆっくりと巡り歩いた後、名匠ドールソンへ顔を向けて大きく頷いた。
「見事である」
「もったいなきお言葉。感謝の極み」ドールソンは誇らしげに深々とお辞儀した。
続いて除幕された像は『母の時代』。
帝国動乱期が終焉に向かい、皇妃が皇子皇女達を設けた頃のもの。
白い絹布が剥がし落され、照明に照らされるものは、台座に腰かけて“お包み”を愛おしげに抱く若き母親の皇妃。
老練の巨匠ヴォラック作『母の時代・慈』
その慈愛に満ちた表情、生まれたばかりの我が子を抱く所作、全体から発せられる母性的美容と神聖性。この場の同業者達はその凄まじき表現力にただ讃嘆あるのみ。名匠ドールソンも脱帽の所感に至っていた。
皇太子と皇子皇女達が思わず息を飲み、もしくは目頭に熱いものを覚えた。
長男の皇太子は自身が幼い頃、母が弟妹を抱いて微笑む姿を色鮮やかに思い出す。他の皇女も皇子も同様だ。温かいパステルカラーで彩られた美しい思い出が脳裏をよぎり、涙ぐむ者もいた。
皇太子が皇帝の隣に立つ。今や自身も父親となった彼は、息子として皇帝へ言った。
「……素晴らしいですね、“陛下”」
「ああ。お前達が生まれた時のことを思い出す」
血塗られた覇道の中で人生最良の時。妻がもたらしてくれた素晴らしき喜び。父親になれたことの純粋無垢の感激と少しの不安。
もっとも、こうした心情を皇帝は息子に語らない。公式の場において、父子は皇帝と皇太子という役割を務めねばならないから。
それは息子の皇太子も同様だ。強く感動しながらも父ではなく皇帝と呼びかけた。弟妹達のように人前で『父上』『お父様』などと“甘ったれた”言葉遣いは出ない。
皇帝はしばし彫像を見つめて感傷に耽った後、似た年頃の巨匠へ大きく頷く。
「貴殿の技、帝国の宝である」
「ありがたき幸せ」恭しく頭を垂れるヴォラック。その所作は自信に満ち溢れていた。
そして、三度目の除幕が行われた。
照明に晒される像は皇妃の晩年時代。もっとも表現は『国母の時代』だが。
此度唯一選抜された女性彫刻家マリアンヌ作『皇妃』
凛と佇む老婆の像は帝国における女性最高権力者の威厳と円熟した女性特有の淑やかさと優しさを見事に表現している。身にまとう衣装は皇妃が生前に愛したものを採用しており、生前の姿を思い出した者達が涙ぐんだり、寂しそうに眉を下げた。
皇妃は誰からも敬愛される人柄であった。大国中枢の伏魔殿において政敵達すら敬意を抱かずにいられない女傑だった。帝冠を戴かず市井で教師でもしていれば、無数の教え子達が絶えず会いにくるような、そんな女性だった。
皇妃が方々を説き伏せて成した政策――篤志法によって人生を切り拓かれた者が少なくない。現内務省長官は貧しい家の出であった。篤志法の援助が無ければ、この場に立つことはおろか、今頃は野垂れ死んでいたかもしれない。
そうした者達にとって、亡き皇妃は国史刻まれる偉人以上に個人的恩人であり、崇拝の対象ですらあった。
皇帝もまた寂しげに皇妃像を見上げ、幾度か小さく頷き、女性彫刻家へ柔らかな眼差しを向けた。
「困ったな。余はまた泣いてしまいそうだ」
「ありがとうございます。陛下」マリアンヌは謙虚に一礼した。
齢40過ぎの彼女もまた篤志法の恩恵に与った者だった。皇妃がいなければ悲惨な人生を免れなかった貧民出だ。
皇帝は三体の像を見回し、ゆっくりと大きく深呼吸する。
いずれも素晴らしい作品である。亡き妻との美しい思い出がよみがえる傑作。各々の事情はともかく気落ちした自分のため、このような贈り物をしてくれたことには謝意を禁じ得ない。
だが、要らぬお節介を、という感情もまた真実であった。
魂から結ばれた妻がもうこの世に居ない、という事実を再び突きつけられただけだ、という感覚が拭えない。
皇帝はさっさと温室へ去るべく、適当な謝辞を並べようとした。
矢先。
大広間の扉が開かれ、玉体のおわす場に不適切な大音声が轟く。
「遅れました―――――――――――――――――っ!!」
帝国が誇る鬼才にして帝国が恥ずかしむ変態。
モランの登場であった。
○
帝国指折りの奇人の登場に、皇帝は諧謔的好奇心を見出す。
この変人は亡き妻をどのように表現したのだろうか。他の者達のように尊敬や敬愛か。あるいは純粋な女性美の追求か。
激動の時代を制し、帝国をヴァイスランド一の大国に育て上げた皇帝は、他国から『国食い』と恐れられ、国内からは『賢帝』と畏れられているが、決して文化や芸術を介さぬ無粋者ではない。それどころか帝国でも有数の教養人であり文化人だ。
当然である。皇帝は愛する妻と出会って以来、彼女に恥を欠かせぬため、彼女に自分の妻であることを誇ってもらうため、常に努力と研鑽に勤めてきた。
今もどれだけ気落ちしていようと、酒に溺れたり、若い愛人を設けてまたぐらに鼻を突っ込むような所業は決してしない。鬱屈した思いを他者へ八つ当たりするような所業など皆無だ。
皇帝は天上の楽園にいる妻を失望させることを決してしない。
「余を待たせる者はそう多くおらんぞ、奇才殿」
皇帝が冗句を告げると、多くが驚く。なにせ賢人たる皇帝は自らの言葉の重みを知っているから、公式の場では口数がそう多くない。
「お待たせするに値する作品を作ってまいりました」
モラン・ノランは頬がこけ、目の下に黒々とクマが刻まれ、何日も風呂に入っていないだろう髪が強張っている。ヒデェ有様だ。そんな貧貌に不似合いな不敵さを湛え、皇帝へ臆することなく宣う。
業界関係者が一斉に赤くなったり蒼くなったりしている。師匠は胃を押さえていた。
「百聞は一見に如かず。ご覧ください」
モランは自信たっぷりに告げ、自ら彫像を覆う絹布を剥がし落した。
衆目に晒される皇妃四像『乙女の時代』。
稀代の奇才モラン・ノラン作『無題』。
皇妃の乙女時代をかたどったその彫像は、技巧的に神業と評すべき次元にあった。他の巨匠名匠達が思わず息を飲む。
彫刻は『今にも動き出しそうな』と形容されることが多いが、ノランの作り上げた乙女像は動き出しそうどころではない。本当に血が通っているのではないか、と錯覚するほどに艶めかしく瑞々しい。
モランの手掛ける女性像は総じて官能性が見えるけれど(彼は人間の真実美を裸体に見出す男だ)、この皇妃像にはそうした艶気はない。それどころか像がまとう着衣は凡庸で地味でつまらない。だが、装飾――女性が女性として主張する属性や特性、あるいは媚といった類のものが皆無なため、却って皇妃個人が持つ人間的魅力と女性が持つ本能的魅力――生物学的雌性が強烈に伝わってくる。
然して、この彫像の見るべきはそこではない。
表情だ。少女像とも母子像とも晩年の皇妃像とも一線を画すその表情。
険しく厳しく、怒気交じりの叱咤の声が聞こえてきそうな、けれど繊細に彫りこまれた双眸の奥から確かな愛情と献身が伝わってくる、そんな表情。
名匠ドールソンは思わずこの絶技と表現力に対して嫉妬に駆られる。
巨匠ヴォラックは舌を巻く。この技巧。やはり悪魔の類か。
才女マリアンヌはただただ見惚れた。こんな彫像を人間が創り出せるのかと。
「おぉ……」
皇帝は身を震わせ、モランの手掛けた乙女像の前にフラフラと歩み寄り、その場に崩れ落ちるように膝をつく。
「陛下!!」「父上っ!」
慌てふためく諸侯諸官。然して真っ先に駆けつけたのは皇太子であった。
「おおおおおおおお……っ!」
皇帝は両手で顔を覆って慟哭していた。大国の頂点に立つ男が発する悲と哀が込められたその泣き声は、今まで誰も聞いたことがないものだった。
親衛隊と皇子皇女の一部がにわかに殺気立ち、皇帝をこのように悲しませた元凶を睨みつけた。業界関係者とモランの関係者が顔面を蒼白にさせる中、モランは満足げに頷いた。
まるで完璧な仕事をやり遂げたと言いたげに。
おべっか使いの警察長官がモランをひっ捕らえさせようとした時、皇帝が右手を小さく上げて周囲の動きを制する。
何度も深呼吸して乱れた感情を抑え、息子と娘の手を借りて立ち上がる。
涙に濡れた目元を拭い、皇帝はモランを睨み据えた。
「小僧」その冷厳無比な声音は周囲を圧倒する。「どういうつもりだ」
「この像は陛下のためのものです」
しかし、モランはさらりと答えた。
「美術館や広場に置き、評論家が好き勝手に文言を並べるためのものではありません。さらに言えば、私が自身の創作意欲を発露させたものでもない。これは皇帝陛下、貴方お一人のためだけに制作したもの。よって、皇帝陛下の御心を最も震わせるべき像を為すことにしました」
皇帝は厳粛な面持ちの乙女像を見つめながら、モランに問う。
「……いずこに尋ねた?」
「元皇妃侍女長ゾフィー様をお尋ねして。些か曖昧になられておられましたが、幾度も詣でたところ、お話を伺えました」
「なるほど」皇帝は深く頷いて「ゾフィーであれば存じてもいよう。あれは我が妻の育て親に等しい故」
皇帝は目を閉じ、記憶を巡る。
あれは動乱期のこと。弟が叛いた。心から可愛がっていた弟だった。当時の宮中にあって心から信じられる数少ない味方だった。弟の乱には信頼する将校や官僚、諸侯も少なからず含まれていた。
彼らに叛かれた時、皇帝は心が挫けた。愛する者や信じた者が自分を殺そうとしたからではない。裏切られたからではない。彼らが自分を理解してくれていなかったという失望からだ。
信じてくれなくてもいい。ただ理解して欲しかった。自分がどれほどの重責を担い、どれほど苦悩しながら責任を果たすべく努めていたか。
そんな皇帝に、妻は慰めの言葉でも、励ましの声でもなく、叱咤を浴びせた。
――貴方は帝国を救うのでしょうっ! しっかりしなさいっ!
――私が一緒にいるからっ!!
そして、弟を殺し、軍や宮廷を粛清し、諸侯を討伐した。
あの日、妻に叱咤されなければ、帝国の、この世界の歴史はまったく違っただろう。
妻と自分だけの秘密……そう思っていたが。妻の方はゾフィーに話していたか。
何もかも分かち合ってきたが……知らぬことはあるものだな。
皇帝は大きく、とても大きく深呼吸し、背筋を伸ばして目を見開いた。瞬間、まとっていた倦怠が払拭され、凄絶な威厳と圧倒的存在感が発せられた。
その威容は大国の頂点権力者に相応しく、大広間にいる全ての者が自然と居住まいを正した。この老人に敬意を示さねばならない、と細胞単位から反応したために。
皇帝は乙女像を注視しながら、圧倒されている息子へ告げた。
「ジーク。二年だ。二年後に帝冠を譲ってやる。備えよ」
「は」唖然とした皇太子はハッと我に返り「は、はいっ! 陛下っ!」
「“俺”の目が啓いているうちは好きに出来ると思うな。お前がヴァイスランド最大版図を担うに相応しいか、とくと見定めてやるゆえ、覚悟せよ」
「見守っていただけるうちに、必ずや」
皇太子が恭しく頷き、皇帝は踵を返してモランに向き直る。
「欲しいものを言え。能う限り何でも叶えてやるぞ」
それは皇帝による最大限の讃辞に他ならない。
「無用です」
モランは堂々と答え、にんまりと笑う。
「既に得ました。陛下のおかげで私は伝説になりました」
「ふん。抜かしよる」
皇帝はにやりと口端を歪めた。男性的魅力が滴る笑みだった。そして、改めて全員を見回して、朗々と告げた。
「諸君。大儀であるっ!」
○
モラン・ノランは変態である。どこに出しても恥ずかしいキチガイである。
しかし、モラン・ノランは天才である。
後に彼がその身を土に返しても、彼の手掛けた作品達が彼の名を後世に伝えている。
多くの名声ともっと多くの醜聞で以って。
モラン・ノランは鬼才である、と。
転生令嬢ヴィルミーナの場合。
彼は悪名高きロッフェロー
ノヴォ・アスターテ。
年内に更新できるよう鋭意執筆中です。多分。