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夢幻の如くなり

作者: A5

 はじめから、報われない恋だと知っていた。

 報われてはならない恋だと、私は知っていた。




 私はレスタ王国の第四王子、メルヴァ。

 貴方は敵対するデイリル帝国の王太子、ゴーシュ様。

 この戦乱の時代に、私達は出会ってはならなかった。

 拮抗する両国の力は益々戦火を広め、それはもう他国でさえ止めることが出来なくなっていた。

 優しく強い貴方は私に誓ってくれた。


 ―――必ず和睦してみせる。

 その時にはお前を我が后に―――


 嬉しかった。

 例えそれが夢物語だとわかっていても、貴方の気持ちが私には嬉しかった。

 私がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのでしょう。

 貴方と添い遂げる強さがあれば。

 貴方と別れる強さがあれば。

 歴史は変わっていたのかも知れない。

 少なくとも貴方は、幸せになれていたはずです。


 最後の戦の前にと、貴方から逢瀬の場所を記した文が届いた時、私は決意しました。

 もう、貴方に会うことは出来ないと。

 二人が初めて出会った場所、約束の場所にはもう二度と行くことは叶わない。

 貴方を残して行くことは胸を引き裂かれるほど辛いけれど、これからの貴方の幸福を思えば堪えることは容易いでしょう。

 だから、貴方への想いだけを胸に私は旅立ちます。

 またいつか、戦乱ではない時代に互いが生まれることが出来たなら、今度こそ貴方の幸福を邪魔しないようひっそりと生きていこうと思います。

 ゴーシュ様、弱い私をどうか早く忘れてください。

 逞しく美しい貴方なら、いい縁談に恵まれるでしょう。

 貴方が即位する姿を見たかったけれど、それが私への罰と潔く諦めます。

 私の声はもう届かないでしょうが、どうかお元気で。

 貴方の幸福だけを祈っています。




 ***




 前世と呼ぶには鮮明過ぎる記憶。

 まさに生まれ変わりとはこのことだと思う。

 レスタ王国にメルヴァという王子がいたのは今から三百年前。

 その時のデイリル帝国の第一王子はゴーシュという名前だったらしいから、僕のこの記憶は病気や妄想ではなく現実のものなのだと随分前に受け入れた。

 つまり僕は、メルヴァの生まれ変わりということになる。

 いや、メルヴァ本人だといってもいいほど、僕とメルヴァを隔てる境界線はないに等しい。

 だって、鏡を見る度に違和感を感じてしまうのだから。

 メルヴァは蜂蜜色の髪と目を持つ美しいと褒め讃えられた容姿だったけど、今の僕は黒髪黒眼の平凡な顔立ちだ。

 しかも、ゴーシュ様のいるデイリル帝国の下働きとして生活している。

 レスタ王国の王子として生きてきたから、デイリル帝国の庶民として生まれ時には驚いた。

 だけど窮屈な城での暮らしよりも、貧しいながら愛に溢れた庶民の暮らしの方が僕には合っていたようだ。

 両親も優しく近所の人達は親切で、友人達は気の良い者ばかりだった。

 そして何より、かつてはゴーシュ様が治めたこのデイリル帝国の民として生まれたことが何よりも嬉しかった。

 詳しい歴史を庶民の僕が知る術はないのだけど、きっとゴーシュ様は名君だったに違いない。

 それは今の皇帝を見ればわかる。

 遠目でしか見ることが出来なかったけれど、あの姿はゴーシュ様に違いなかった。

 前世と変わりのない精悍な顔に、声、佇まい。

 民の前でお言葉を述べる姿を初めて見た時には、溢れ出す涙が止まらなかった。


 そして、彼が迎えた婚約者を見た時確信した。

 現皇帝ラオフェル様がゴーシュ様の生まれ変わりだと。

 ラオフェル様がご婚約されたのは、今はデイリル帝国の属国となったレスタ王国の第四王子で、メルヴァを彷彿とさせる蜂蜜色の髪と瞳を持つ人だったからだ。

 あの方は、メルヴァを覚えている。

 その時の感動を、胸が震える想いをどう言葉にしたらいいのかわからない。

 それほどまでに僕は激しく心を揺さ振られた。

 だけど、決して名乗り出ることは出来ない。

 メルヴァの記憶が、ゴーシュ様と出会うことは許さないと自分自身を縛り付けている。


 そして僕は、城の下働きとして奉公することにした。

 例え会うことが出来ないとしても、僕は少しでもゴーシュ様…ラオフェル様のお傍でラオフェル様の為に働きたかった。

 城での生活は楽しいばかりではなかったけれど、とても充実していた。

 城下街で働くよりも給金はいいし、そのお陰で家族に十分な仕送りができて親孝行になっていると思う。

 16年育ててくれた両親。

 その両親に秘密にしていた前世の記憶。

 メルヴァの記憶が僕を苦しめる。


 ラオフェル様がご婚約されて一月経ち、とうとう婚礼の日取りが決まってしまった。

 本心から幸せになってほしいと願っているのに、ラオフェル様が后を迎えられる事実は思いの外僕の心を傷付ける。


 先程婚礼の準備をする為に婚約者であるリャム王子がデイリル帝国に入国した。

 これから婚礼までの一月をこの城で過ごし、礼節や后としての教育を受けることになる。

 多くの従者を引き連れて大広間へと向かう姿を少しだけ覗き見たけど、リャム王子の容姿はまさにメルヴァそのものだった。

 小柄で華奢な身体に蜂蜜色の長髪、大きな目に桜色の唇。

 違ったのはまるで女性が着るような、布をふんだんに使った豪奢な服くらいか。

 昔の自分と酷似した別の誰かが、ラオフェル様と結ばれる。

 血が出ていないのが不思議なほど痛む胸は、僕に課せられた罰なのだろうか。

 三百年もの昔、ゴーシュ様との約束を破ってしまった僕への罰。

 僕は一人、与えられた小さな部屋で枯れるほど涙を流した。




 ***




 使用人の朝は早い。

 掃除夫として働く僕も例外じゃなく、夜明けよりも早く目を覚まし軽く顔を洗って持ち場へと着く。

 日によって掃除する場所は変わるんだけど、5人一組で行動するから割と何処に割り振られても不安はない。

 他の同僚も楽しい人ばかりだし、班長のおじさんも何かと世話してくれる。

 今は春だから手がかじかむこともないし、奴隷制度はないからお城での下働きはかなり人気の職業だ。

 僕の痛む気持ちに目をつむりさえすれば、結構恵まれた生活だと思う。


 今日割り振られたのは書庫の整理と掃除。

 真ん中が吹き抜けになっている三階建ての書庫は、世界中から集められた本がところ狭しと並べられていてしかもその順番がバラバラだ。

 僕達の班は1週間をかけてここを使いやすいものにしなければならないらしい。

 というのも、婚約者であるリャム王子の勉強に使う本を探しやすくする為だとか。

 みんなで話し合った結果、文字が読める班長と僕が本の整理、残りの三人が掃除をすることになった。

 三人は貧しい家の出だから文字が読めないそうだけど、実は僕も学校に行けるほど裕福じゃない。

 文字が読めるのはメルヴァの記憶のお陰と、三百年経っても変わらなかった文字のお陰だ。

 3階を担当することになった僕は、たくさんある本棚の中でも一番奥の棚から手を付けることにした。

 この辺りの本は余り読まれていないようで、割と簡単に分類できそうだから安心した。

 1階よりも随分と古い本。

 梯子を使って本を確認しながら、抜き出したり入れたりを繰り返す。


 ひとつ目の棚が終わると次へと移る。

 そこはデイリル帝国の歴史を記した本の棚だったみたいだ。

 建国から連綿たるデイリル帝国の歴史を、一代の王につき一冊という単位で書き記している歴史書。

 その厚さは様々だけど、それを初代から並べていくのは中々に楽しい。

 長い歴史を誇るデイリル帝国のことは王子の時に嫌というほど学んだから、答え合わせをしているようで懐かしさが込み上げてくる。

 棚の5段目に差し掛かった時、とうとうゴーシュ様の父君の名前が出てきた。

 その本は開く勇気がなくて静かに棚に収めたけれど、続くゴーシュ様の本を手に取って誘惑に負けてしまった。


 ゴーシュ様の本は厚く、それだけ長生きしたのだろうと単純に嬉しくなっていたが、本を読み進める内に高揚した気持ちがどんどんと冷めていく。

 王子時代の記述は少なくもちろんメルヴァの名前すら出てこなかったけれど、若くして即位したゴーシュはどうやら戦に明け暮れたらしい。

 本がぶ厚いのはその功績を讃えているからだった。

 和睦を約束してくれていたのに、レスタ王国を属国にしたのはゴーシュ様だったようだ。

 様々な国と戦を繰り広げ、后を娶ることなく30歳という若さで死去。

 世継ぎはなく、次の皇帝には従兄弟が即位したと書いてある。

 30歳…若過ぎる。

 僕がゴーシュ様との約束を破った時、彼は22歳だった。

 あれからたった8年の間に、王になり国土を広げ生き急ぐように死んでしまったなんて信じたくもない。

 あの優しかったゴーシュ様を歪めてしまったのは、きっと僕の裏切りだ。

 やっぱり僕達は出会うべきじゃなかった。

 今名乗り出ないのは、苦しいけれど最良の選択だったと改めて思う。

 床に座り込み本の山に埋もれたまま、僕はしばらくその本を見下ろしていた。


「ゴーシュ皇帝を慕っているのか?」


 不意に低い声が聞こえてビクッと肩が震えた。

 この声には聞き覚えがある。

 三百年前ゴーシュ様の右腕として軍を指揮し、現在もまたラオフェル様の元25歳という若さで参謀として腕を振るうアデナ様。

 メルヴァの時に会った時のまま、全く変わることのない濃い茶色の髪に涼しげな顔を見た瞬間、恐怖と絶望が身体を支配していく。

 無意識の内に持っていた本を胸に抱え、そのまま勢いよく頭を下げた。


「……も、申し訳ございません! すぐに整理致しますので…」

「謝ることはない。ゴーシュ皇帝陛下を慕うのは私も同じだ。…しかし、その歴史書は読むのにかなりの学力がいると思うのだが…お前は下働きではないのか?」


 昔と変わることのない優しい彼の気質に涙が零れそうになる。

 記憶の有無はわからないけど、きっと彼もまた生まれ変わったに違いない。

 何という因果だろう…


「はい…私はただの下働きです。文字は、独学で…」

「ほぅ、我がデイリル帝国の文字は難解なことで有名だ。お前はかなり頭がいいのだな……ふむ、下働きには勿体ない。お前、名は何という?」

「あの、ルイ…でございます」

「所作も美しいな、これなら十分勤められるだろう。ルイ、ついて来なさい」

「……はい」


 デイリル帝国の参謀に否と言えるはずもない僕は、手にしていた本を大事に棚へと戻してから颯爽と歩くアデナ様の後ろを追いかけた。

 この後、あんなことになるくらいならこの時に逃げておけば良かった。

 そう、後悔することも知らずに。




 ***




 アデナ様の取り立てで、僕は従者になった。

 着るものもシンプルながらに高級なものへと変わり、与えられた部屋も少し大きくなった。

 アデナ様のお気持ちは嬉しいし、給金が上がれば弟達を学校に行かせることも出来る。

 けれど、一介の掃除夫がどうやったら未来のお后様の従者に成り得るんだろう。

 王様、王妃様、王太子様に次いで上等な部屋を我が物顔で使っているリャム様こそが、僕が今日からお仕えすることになった御人だ。

 さっきまで僕の紹介をしてくれていたアデナ様に、儚くも柔らかな笑みで快く了承してくださったリャム様に穏やかな人なのかと少し安堵した。

 けれどアデナ様が部屋から出て行った瞬間、リャム様の態度が一変した。


「こんな平凡な奴を傍に置くなんて、ホント最悪! アデナの紹介じゃなかったら今すぐ叩き出すところだよっ、有り難く思いな!」


 カウチに座ったリャム様が、まるで汚いものでも見るかのように僕に視線を寄越す。

 リャム様の周りにいるレスタ王国から連れてきたらしい侍女達も、口々に悪態をつきながらクスクスと笑っている。

 余りの豹変振りに怒りを感じる間もなく呆然としてしまって、さっきまでの儚いリャム様は白昼夢だったのかと思うくらい僕は心底驚いた。


 これは、予想外だった。

 メルヴァと似たような容姿で僕とは正反対の性格のリャム様に、どんどんとこれからの行く末が心配になってくる。

 僕はこの人の下できちんと働けるのだろうか。

 そして、この人とラオフェル様の婚儀を心穏やかに見守ることが出来るのだろうかと。




 ***




 デイリル帝国では、婚約した者は一月城に篭って勉学に勤しみ、その間夫となる者との逢瀬は叶わない。

 リャム様付きになったことで一瞬不安が過ぎったけれど、ラオフェル様とリャム様の仲睦ましい姿を見ることがないのは安心した。

 我が儘で自己中心的なリャム様にお仕えして早2週間。

 はじめは閉じ篭っている鬱憤を晴らすようにネチネチと小言を言われていたけど、何の反応も返さない僕に飽きたのか今じゃ空気のような扱いになっている。


 ここでの僕の仕事は、デイリル帝国側の従者からリャム様宛ての物を預かったり、部屋の花を変えたり、リャム様からの要望を城の従者に伝えたりと余り忙しいものじゃなかった。

 今朝届けられたクッキーの毒味も、僕の仕事のひとつ。

 僕が食べてから今度はリャム様方の侍女が食べて、そこでようやくリャム様の口へと運ばれることになる。

 僕も昔は経験したけれど、熱いものを熱い内に食べることが出来ない王族は可哀相だ。

 大きめの箱を開けると中からは従者から聞いた通り、様々な形のクッキーが入っていた。

 これ、全種類食べなきゃならないと思うと気が重い。

 僕ともうひとりの侍女が、部屋の隅に移動してクッキーへと手を伸ばす。

 娘の方は実に嬉しそうだけど、元々少食の僕は純粋に喜べない。

 規則で僕が先に食べないといけないから、娘が急かすままに丸いクッキーを口に入れる。

 瞬間フワリと香る微かな匂いに気付いて慌てて吐き出したけど、僅かに飲み込んでしまったらしい致死率の高い毒物に、僕の意識はあっという間に飲み込まれていった。




 ***




 激しい発熱に混濁した意識。

 今見ているものが現実なのか夢なのかさえわからない。

 燃えるように熱い身体に苦しんでいると、そっと抱き締めてくれる腕があった。


 これは夢だ。

 だって愛しい貴方が僕に笑いかけてくれている。

 夢だとは知りながらも、僕は零れる涙を拭うことも出来ずに掠れた声で愛しい名前を呼んだ。


「ごめ、なさ…っ…ゴーシュ、様…」


 久し振りに口にした名前は、それだけで胸が締め付けられるようだった。




 ***




 木目の天井が見える。

 ゆっくりと視界を巡らせば、そこは新しい僕の部屋だった。

 ベッドと小さな机に椅子しかない簡素な部屋は、まるで現実味がないけどここが僕の居るべき世界だと教えてくれている。

 カーテンが引かれた小さな窓に目をやると、額から何かが落ちた。

 これは、布?


「…目が覚めたのか?」


 不意にドアが開いたかと思えば、そこには桶を手にしたアデナ様が立っていた。

 横になったままでは無礼に当たるため、手をついて身体を起こそうと試みるけど全く力が入らない。

 そうか、そういえば毒を含んだんだ。


「安静にしていなさい。お前は3日も昏睡状態だったのだから」


 桶を机の上に置いたアデナ様が、傍らに落ちていた布を拾い水で冷やしている。

 まさか、僕の看病をしてくれていたのだろうか?

 こんな下働きの僕に、何故こんなにも良くしてくれるんだろう。


「アデナ様…あの、僕…」


 乱れた前髪を掻き上げて絞った布を額に置くと、アデナ様は布団をかけ直して傍らに置いてあった椅子に腰掛けた。

 僕の声が聞こえなかったのか、アデナ様は何処か思い詰めたような表情で僕を見詰めている。

 その茶色の瞳に吸い込まれてしまいそうで、僕は声をかけることを諦めてそのまま目を閉じようとした。


「………メルヴァ様」

「―――ッ!?」


 低い声が聞こえた瞬間、無意識に身体が硬直してしまった。

 言い知れない不安に拳を握り締め、努めて冷静を装って首を傾げて見せる。


「メル、ヴァ…様? どなたですか?」

「ルイ、お前はうなされている時、ゴーシュ様と呟いていた。そして何度も謝っていた…ルイ、私には…前世の記憶があるのだ」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。

 前世の記憶を持っているのは僕だけじゃなかった……アデナ様も、昔の記憶に苛まれているのか。


「アデナ様、あの、前世と言われましても…私には何のことだか…」


 困ったように笑う僕を見ても、アデナ様の確信に満ちた表情は変わらない。

 最早誤魔化すことはできないのか…


「メルヴァ様も記憶があるのでしょう? 貴方は隠されておいでのようだが、庶民が貴族よりも気品のある所作が出来るはずもございません。それに、忘れもしない…貴方の声はまさにメルヴァ様のもの」


 声―――?

 まさか容姿が全く違っているというのに、声が同じだなんて気付かなかった。

 いや、自分自身の声だからこそ気付けなかったのかも知れない。


「……もう、言い逃れは出来ないのですか…?」

「メルヴァ、様っ!」


 椅子に座っていたアデナ様が、端正な顔をくしゃりと歪めて床に両膝をついた。

 まるで祈りを捧げるようにベッドの縁で組んだ両手に額を押し付け、込み上げる激情に堪えるようにその肩を小刻みに震わせている。

 宥めようと手を伸ばすけれど、言うことを聞かない身体ではアデナ様に触れることも叶わなかった。


「申し訳ございませんっ、メルヴァ様! 私の浅はかな計略で貴方は…ッ…何度謝り償ったところで、この罪は未来永劫消えることはありません!」


 今も昔も冷静だったアデナ様の悲痛な声に、僕の胸が痛みだす。

 あの日の痛みが、時を経て今なお侵食しているかのように。


「……アデナ様、もう三百年も昔のことです。あの時の貴方の行動は、参謀として、ゴーシュ様の右腕として正しい判断でした」

「メルヴァ様は、恨んでおいでではないのですか? 私は貴方を…この手で殺めたのですよっ、失踪に見せかけて殺害した!」


 今でもはっきり覚えている。

 逢瀬を願うゴーシュ様からの最後の手紙を持ってきたアデナ様に、僕は胸を刺されて殺された。

 怖かったし苦しかったけれど、僕はあの日殺されることをわかっていた。


「アデナ様、貴方はあの時こうおっしゃいました。デイリル帝国とゴーシュ様の幸福の為に死んでくれと。私は『はい』とお答えしたはずです。ただ気にかかるのは、その後のゴーシュ様のことだけ…」


 ゆっくりと顔を上げたアデナ様の表情が、痛みに堪えるように険しいものへと変わっていく。

 やっぱりあの歴史書の内容は真実だったのか。


「約束の場所に現れないメルヴァ様にゴーシュ様はまずレスタ王国を疑いました。再三文でメルヴァ様の安否を確かめておいででしたが、レスタ王国からも消息不明だとしか返ってこずに、ゴーシュ様はレスタ王国がメルヴァ様を監禁しているのではないかと攻め入ったのです。しかしそこにメルヴァ様がいるはずもなく、ゴーシュ様は貴方を捜すように近隣諸国を次々に侵略していきました。そして見付からない絶望の中、過労と心労によりお亡くなりになられました」


 何ということだろう。

 僕がいなくなれば幸せになれると思っていたのに、あの歴史書を厚くしていた数々の戦争は全て僕が原因だったなんて。

 僕のせいでゴーシュ様を死なせてしまうなんて…

 涙が零れる。

 もう三百年も前の話だというのに、後悔してもし足りない。

 やっぱり僕達は出会ってはいけなかったんだ。


「アデナ様も、お辛かったでしょう。そんなゴーシュ様を傍で見続けなければならなかったなんて…私ならとても堪えられません。もう、罰は十分に受けました。貴方は私に謝る必要などありません」


 8年もの間、アデナ様は己を責め続けていたのだろう。

 祖国と主を一心に思い続けていた誠実な人だからこそ、僕一人の為に衰弱していくゴーシュ様を見るのは辛かったはずだ。

 彼は今もラオフェル様に尽くし、消えない罪に苦しんでいる。


「私を、お許し下さるのですか…?」

「許すも何も、私ははじめから貴方を恨んでなどいません。貴方も私も、ゴーシュ様を慕い、そして今なお己の罪に苦しんでいる。そういった意味では私達は同じなのですよ」

「メルヴァ様も、苦しんでおられるのですか? 貴方に何の罪があるというのです。メルヴァ様はいつも慎ましやかで、私のような庶民の出の者達にも分け隔てなく接して下さった」


 アデナ様の表情が暗くなっていく。

 きっとまた昔を思い出して己を責めているんだろう。

 今度こそ精一杯の力を振り絞って、布団から出した手でアデナ様の肩に軽く触れた。


「そもそも私があの庭で迷わなければ、出会うことも、惹かれ合うことも、苦しむこともなかったのです。全て私の浅はかな行動が原因…だからこそ、私はもう二度と同じ過ちは犯さない」


 僕が触れた手を恭しく両手で包み込んだアデナ様は、僕の言葉にサァッと顔色を失ってしまった。

 もしかしたらアデナ様は、僕とラオフェル様を引き逢わせるつもりだったのかもしれない。


「メルヴァ様…それでは、このままでおられるおつもりですか? いくら庶民の出とはいえ、貴方がメルヴァ様だと知った以上召使のようなことはさせられません! それに、貴方がここにおられるということは、あの婚約者は真っ赤な偽物。ラオフェル様と偽物の婚儀を見て、貴方は堪えることが出来るのですか!?」


 僕の手を握るアデナ様の手が震えている。

 きっと僕よりも激しく憤ってくれているのだろう姿に、不謹慎だけど少し嬉しくなってしまう。

 同じ痛みを持つアデナ様に代わりに怒ってもらえて、僕はようやく誰にも話せなかった胸の内をわかり合えたような気がした。


「有り難うございます、アデナ様。けれど噂では、ラオフェル様はリャム様を心から愛しておられると聞きました。ラオフェル様が幸福なら、今更私が出て行って場を乱す必要などないでしょう?」

「それはっ、リャム様をメルヴァ様の生まれ変わりだと信じておられるからです!」

「…え、それは…」

「ラオフェル様にも記憶があるのです。ご自分や私がこうして容姿も変わらずに自国に生まれたものですから、メルヴァ様の生まれ変わりもレスタ王国に変わらぬ姿でいるはずだと…。まさかデイリルに生まれ容姿が変わられているなんて、露ほどにも思っていなかったのです」


 記憶が、ある?

 リャム様の容姿は偶然なんかじゃなく、ラオフェル様はやはり僕を捜してくれていたんだ…

 リャム様の肩書はメルヴァと酷似していたし、顔も特徴も似通っているから勘違いしてしまったのだろう。

 もしかしたらリャム様には前世の記憶がないだけだとラオフェル様は思っているかも知れない。

 三百年もの間変わることなく想い続けてくれたラオフェル様に、今こそ報いる時ではないか。


「アデナ様、決して私のことは他言しないで下さい」

「メルヴァ様!」

「例えリャム様を私と思い込んでいたとしても、愛には変わりありません。私はお二人のご婚礼を見届けたら、もう二度と関わることのないよう城を下がります。貴方も私のことは早く忘れて、ラオフェル様とリャム様を見守ってください。今度こそ間違えないように」


 嗚呼、視界が歪む。

 目が覚めたばかりだというのに、少し話し過ぎてしまったらしい。

 霞む視界でアデナ様が渋々頷くのを見届けて、また僕の意識は暗闇に飲まれていった。




 ***




 アデナ様と話し込んだ日から4日。

 僕はまたリャム様の従者として働いている。

 毎日のように人目を忍んで看病してくれたアデナ様には止められたけど、婚礼を1週間後に控え慌ただしい城の中で僕だけがいつまでも寝ていられないと頼み込んだのだ。

 リャム様を毒殺しようとした犯人は未だ目星すらついていないみたいで、アデナ様のせいじゃないのに何度も謝られて本当に困った。


「おい、平凡。今日はもう誰にも会わないから、誰か来たら追い返しとけよ」

「はい、わかりました」


 たくさんの侍女を連れて、リャム様は奥にある湯殿へと消えていった。

 僕はリャム様の寝室を後にし、来客に対応できるように扉の傍に立つ。

 リャム様は相変わらずだ。

 今朝久し振りに会ったリャム様からは、毒程度で1週間も寝込むなと叱咤されてしまった。

 アデナ様が一緒の時にはあんなに心配した素振りを見せてくれたのに、本当にリャム様は僕に対してだけは厳しい人だ。


 遠くで水音がする中、ただ時が経つのをじっと待つ。

 リャム様の湯浴みはまるで女性のように長くて、ミルクをふんだんに使ったお湯に浸かり、香油を肌に塗り込めて髪には卵白を揉み込み、薔薇の石鹸で全身を清めるらしい。

 以前侍女が誇らしげに話していたのだけど、男がそこまでしなくてもいいんじゃないかと僕は思う。

 やっぱりデイリル帝国の王妃ともなれば、それくらいしてしかるべきなのかな。


 不意に扉がノックされた。

 ゆっくりと開くと、そこには書類を手にしたアデナ様が立っていた。


「リャム様は今夜はもう誰ともお会いにならないとおっしゃっているのですが…」

「それは困った。この書類は今日中に署名が必要なのだ」


 僕が頼み込んだ通りに、今までと変わりないよう接してくれるアデナ様に自然と口元が綻んでいく。


「でしたら、私がお預かり致します。ご署名を頂いたらアデナ様の書斎までお持ちすればよろしいですか?」

「あぁ、頼むぞ…ルイ」

「はい、確かに」


 去り際に何処か申し訳なさそうな眼差しで見詰められ、苦笑が込み上げる。

 こうやって僕の代わりに胸を痛めてくれる人がいるお陰で、前よりも随分と気持ちが楽になった。

 アデナ様に小さく頭を下げてから書類を抱えたまま扉を閉める。

 寝室から賑やかな声が聞こえるということは、恐らく湯浴みは終わったのだろう。

 扉をノックしても聞こえていないらしく、仕方ないと僕はそのまま扉を押し開いた。


「申し訳ありません、アデナ様から今日中にご署名頂きたい書類が、ある…と……」


 侍女に囲まれて深く椅子に座り、優雅にワインを傾けているのは恐らくリャム様だろう。

 だけど長く美しい髪は碧色で、瞳も綺麗な翡翠色をしていた。

 蜂蜜色の髪と瞳は、まさか…人工?


「…なっ、何で勝手に入って来るんだよ!?」


 明らかに動揺したリャム様が、慌てたように椅子から立ち上がって僕に詰め寄る。

 侍女達の顔も青ざめているから、もしかしたらデイリル帝国の者達には秘密にしていたんだろう。


「申し訳ございません。あの、ノックはしたのですがお返事がなくて…至急の書類がありましたから仕方なく…」


 今にも掴みかかってきそうなリャム様に向かって持っていた書類を差し出すと、一瞬固まった後にニヤリと笑いながら書類を受け取ってもらえた。


「ふーん…ねぇ、お前…庶民の出なんだろう?」

「はい、そうです」

「このこと黙っていてくれたら、今の給金の3倍出してあげる。だけどもし他言したら、お前の家族がどうなるか知らないよ?」


 これは、脅迫されているのだろうか。

 今思えばこれだけメルヴァに容姿が似ていて、髪や目の色までもが同じだなんて偶然あるわけない。

 人工で染めていたことは元々他言するつもりはなかったけれど、ここは大人しく頷いていた方が得策かも知れない。


「わかりました。決して他言は致しません」

「そう、なら良かった。はっきり言ってお前に隠すのは大変だったんだよ、これでお前も僕の言いなりなわけだし隠す必要ないよね」


 再び椅子に戻って書類に署名しはじめたリャム様は、実に楽しそうに口を開いた。


「実は僕さ、王族でも何でもないただの男娼なんだよねぇ。デイリル帝国の皇帝様がメルヴァとか何とか言う男を捜してるってお触れが出てさ、レスタ王室が昔の肖像画を引っ張り出してそれに似た男を見繕ったってわけ。レスタは属国だし、デイリル帝国との強い繋がりが欲しかったんだろうね~。ホント運が良かったよ、この顔のお陰で后になれるらしいし、ラオフェル皇帝もカッコイイし? メルヴァ様々だよねぇ」


 聞いてもいないことを話すリャム様に、僕はお伽話を思い出していた。

 秘密は誰かに喋りたくなるものらしいし、その鬱憤を晴らすように弱みを握った僕に話しているんだろう。

 嗚呼…どうしたらいいのかな。

 この人と結婚して、果たしてラオフェル様は幸せになれるのか?

 王の后は庶民が思うほど楽な立場じゃないし、王を支え外交の手伝いもしなければならない。

 リャム様にそれが務まるのだろうか…

 また僕は、選択を間違えようとしているのかも知れない。




 ***




 あんな話、聞かなければ良かった。

 あれから3日経ったけれど、秘密を暴露したせいでリャム様は以前にも増して歯に絹着せぬ物言いをするようになった。

 一応僕がデイリル側の人間だからと控えていたらしい悪態は、デイリル帝国の風習や食文化にはじまり、遂にはアデナ様やラオフェル様への不平不満にまで及ぶ始末で手がつけられない。

 唯一の救いは、リャム様が痛くラオフェル様を気に入っていることだろうか。

 愛のない結婚にならなかっただけマシなのかも知れない。

 だけど、いつまでも欺き続けることは出来ないと思う。

 ラオフェル様は賢い方だったし、水に濡れると落ちてしまう染料ではこの先支障をきたすだろう。

 今は互いに会うことが叶わないけれど、夫婦となり共に生活するようになればいずれは露見してしまう。

 いや、もしかすると結婚してしまえば後はどうとでもなるということなのだろうか。


 ここ最近、僕はリャム様のことで頭を悩ませてばかりいる。

 リャム様からのお許しを得て部屋に戻っている道すがら、美しい月に照らされた庭園が目に入った。

 ゴーシュ様の遺言により維持し続けられている、三百年前と変わることのない見事な庭園。

 迷路のように複雑に入り組んで植えられている木々に、今は美しい薔薇が咲き乱れている。


 懐かしい―――…

 もう二度と見ることが出来ないと思っていた光景に、人影がないことも手伝って唐突に入ってみようという気になった。

 果たされることのなかった約束の場所。

 父王に連れられてやって来た僕が、従者達とはぐれてこの庭園で迷っていた時、助けてくれたのがゴーシュ様だった。

 一目見て、僕はゴーシュ様に惹かれた。

 あの時は太陽の光りが眩しかったけれど、今は青白い月明かりが煌々と降り注いでいる。

 こうやって庭園を歩いていると、まるで三百年前に戻ったような錯覚を覚える。

 しばらく歩くと、庭園の中央に位置する場所に東屋があった。

 此処こそが、遠い昔果たせなかった約束の場所。

 この白いベンチに腰掛け途方に暮れていたところに、ゴーシュ様が現れて助けてくれたのだ。

 愛しい想いが胸を占め、昔と同じようにゆっくりとベンチに腰を下ろしてみる。

 これで三百年越しに約束を果たせたことになるのだろうか…

 月明かりに浮かんだ白い薔薇を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えてしまう。

 ゴーシュ様はどれほどの間、このベンチで来るはずのない僕を待っていてくれたのだろう。

 その時間が短ければいいと思う。

 だけど、とても優しい人だったからずっと…日が暮れるまで待っていたのかも知れない。

 それを思うと、切なさに胸が締め付けられるようだ。


「………何者だ」


 ゴーシュ様も見ていたのかも知れない光景を何となしに眺めていると、不意に背後から声がかかった。

 僕がこの声を聞き間違うはずがない。

 愛しくて切なくて涙が溢れそうになる。


「何者だと聞いている」


 例え冷たい言葉でも、もう二度と話かけられないと思っていた僕にとって、それは喜びでしかない。

 返事をしたい。

 だけど、僕の声はメルヴァと同じらしいから話すことが出来ない。

 決して声を上げてはならない。

 僕は振り返ることなく、静かに首を横に振った。


「お前、声が…」


 どうやら誤解してしまったみたいだけど丁度いい。

 話せないことにすれば、もう少しだけこの人といられるかも知れない。


「……済まない、驚かせてしまったか?」


 柔らかくなった口調に苦しくなる胸を押さえ付け、また小さく首を振った。

 すると背後から横へと移動して来た彼が、何を思ったのか僕の隣に腰を下ろした。

 恐々と隣を伺えば、海よりも深い蒼の髪に瞳を持つラオフェル皇帝陛下が静かに座っていた。

 長い時を経て、ゴーシュ様の生まれ変わりである彼と隣り合っている事実に、肌が震えるほどの感動が込み上げる。

 しかしそれ以上見ていることが出来ずに、すぐにラオフェル様から目を逸らして膝の上で組んでいる自分の手へと視線を落とした。


「お前はこの城の下働きか?」


 ラオフェル様の言葉に辛うじて頷くと、やんわりと髪の毛を撫でられた。

 昔と変わらない、大きくて温かな掌。


「いつもご苦労。……お前もこの庭園が好きなのか? 俺もここが大切でな、いつも暇を作っては訪れているのだ」


 俯き涙を滲ませている僕には気付かずに、ラオフェル様が言葉を続ける。


「昔…途方もない遥か昔に、大切な人と約束したのだ。この場所で待っていると。俺はここで二人だけの婚儀を行うつもりだったのだ……その人は来てはくれなかったのだけれどな」


 そうだったんだ…

 戦の前に僕と誓いを交わそうとしてくれていたなんて、知らなかった。

 堪えきれなかった涙がポタポタと太腿に落ちていくのが見えるけど、ゴーシュ様の想いを知った今とても止めることなんて出来ない。


「………泣いてくれるのか。お前は不思議だな、初めて会ったというのに心が安らぐ。このような思い出話…誰にも話したことなどないのに、何故だかお前には聞いてもらいたくなる」


 困ったように笑いながら、ラオフェル様が僕の頬をハンカチで拭ってくれる。

 その優しい仕種に僕は益々涙が止められなくなってしまう。


「ほら、泣くでない。その人とはもうすぐ正式に結婚することになっているのだ。今度は二人きりではなく、正々堂々と民の前で。まぁ、約束のことは忘れてしまっているようだが、俺は変わらずにその人を愛している」


 ゴーシュ様の人生を狂わせたというのに、彼はメルヴァを少しも恨んでいなかった。

 今なお愛し続け、約束も覚えてくれていた。

 もうそれだけで十分だ。

 僕は立ち上がって深々と礼をすると、呼び止めるラオフェル様の声を振り切って走り出す。

 時々薔薇の刺が肌を掠めるけれど、それさえも気にならないほど僕は一心不乱に部屋まで走った。




 ***




 ラオフェル様と過ごした月夜の出来事を忘れようと、あれから僕はいつもに増して仕事に打ち込んだ。

 日を追うごとに忙しくなっていく状況も、僕にとっては都合が良かった。

 このままラオフェル様のことも、ゴーシュ様のことも忘れることが出来たなら……そう、何度考えたかわからない。


 そして、婚礼の日。

 リャム様の部屋では侍女達が世話しなく動き回り、本日の主役でもあるリャム様を美しく着飾っていた。

 蜂蜜色の髪の毛は綺麗に編み込まれて結い上げられ、簪のような宝石とプラチナでできた髪飾りが沢山差されている。

 少し動く度にシャラリと涼しげな音が響く、まさに一級品の髪飾りだ。

 ドレスも素材の違う白い布を何枚も重ねていて、銀糸でシンプルながら豪華に刺繍が施されているこの国独特の花嫁衣装も良く似合っている。

 胸元に輝くのは国宝のネックレス。

 丹念に施された化粧に整えられた爪は、まるで女性のような美しさだった。

 ここしばらくは后教育で苛立ちを見せていたリャム様だったけれど、今日は今まで見たことがないほど機嫌が良い。

 最後に細やかな刺繍が裾にあしらわれた長いベールを被ると、遂に準備が終わった。


 この後リャム様は控えの間でラオフェル様と一月振りに会い、神の御前に向かう前に清めの間に入って祈りを捧げることになる。

 そこに向かうまでの廊下でベールの裾を持つのが今日の僕の勤めだ。

 まだズキズキと胸が痛むけれど、きっと2人の幸せな姿を見られたら諦めることが出来るだろう。

 前世に縛られ続けて生きることは馬鹿げている。

 アデナ様が罪悪を感じる必要がないのと同じで、現世では現世の幸福をラオフェル様には掴んでもらいたい。


「何ボーッとしてるんだよ! 今日は大事な日なんだから、失敗したら許さないからな!!」


 歩き出そうとしたリャム様がこちらを睨み付けるのに気付いて、慌ててベールを手に取り後ろに控えた。

 触れているのかわからないほど柔らかなベールを手に、部屋を出たリャム様の後に続いてゆっくりと歩を進める。

 この部屋から控えの間までは渡り廊下を通って結構な距離がある。

 しかしそれも、城内の者達に王妃の存在を知らしめる意味も込められているため一切気は抜けない。

 侍女達を引き連れて先頭を堂々と歩くリャム様は、メルヴァなんかよりも余程度胸があるように思う。

 廊下の端に寄って跪く城内の者達の視線すら、リャム様は心地良くさえ感じているようだ。


 渡り廊下に差し掛かり人影がなくなった時、不意に庭の方からこちらにやって来る女性に気が付いた。

 淡い桃色のドレスを身に纏っている可愛らしいその女性は、確か今日の宴に招かれていた他国の王女だったはずだ。

 前ばかり見ているリャム様や、リャム様ばかりを見ている侍女達はその存在にすら気付いていない。

 仮にも王女に対して挨拶もしないのは礼儀に反するとリャム様に声をかけようとした瞬間、視界の端で何かがキラリと光った。

 これは、覚えがある。

 遥か昔僕が王族だった頃、頻繁に起こっていたことだ。

 それからは考える暇もなかった。

 反射的にベールを離してリャム様の横に飛び出すと、そのまま僕の胸に王女が飛び込んできた。

 脇腹に焼け付くような痛みが走った瞬間、侍女達の布を裂くような悲鳴が上がる。

 運が悪いことに僕から離れた王女様の手には血に塗れた小刀が握られていて、噴き出した僕の血があろうことかリャム様の純白のドレスを赤く染めてしまった。

 慌てて傷口を押さえて血を止めようとするけど、余りの痛みに立っていることも出来ずその場で膝をつく。


「リャム、様…ドレスが…っ」


 床を引き擦るドレスの裾が血溜まりに触れ更に赤くなる光景に、呆然としているリャム様を離れさせようと振り返る。

 血を流し過ぎて霞む視界に、走ってくるラオフェル様とアデナ様の姿が見えた。

 王女を捕らえるアデナ様と、青ざめているリャム様を抱き締めるラオフェル様を見て、張り詰めていた気が緩んだのかそのまま意識が遠退いていった。

 死の間際、一目だけでもラオフェル様を見ることが出来て、僕はもう何も思い残すことはない。

 今はただ、愛しい貴方の幸福を想って―――




 ***




 夢を見ていた。

 貴方と笑い合う、優しい光景。

 けれどそれは、必ず覚める夢。

 僕はいつも、夢幻の彼方に消えていく貴方の面影を黙って見詰めることしか出来ないんだ。




 重たい瞼を押し上げると、眩しいほどの白い天井が見えた。

 少し顔を傾けて部屋の様子を伺うけど、そこは全く見覚えのない真っ白な部屋だった。

 そしてまた、傍らの椅子にはアデナ様が座っている。

 疲れ切ったような顔色のアデナ様は、きっと僕が毒を含んだ時のように献身的に看病してくれていたんだろう。


「ア…デナ、様…申し訳、ありません…」

「……メルヴァ様っ」


 僕が掠れた声で謝ると、あのアデナ様が顔をくしゃりと歪ませて涙を零した。

 その余りに悲痛な表情に、こっちまで胸が痛くなってくる。


「泣かないで、下さい…。私のことなんかで…」

「メルヴァ様、貴方は1月も目をお覚ましにならなかったのですよっ? 傷は塞がったとはいえ、意識の戻られない貴方をどれだけ心配したことか!」


 僕の手を取って歯を噛み締めながら呻くように呟かれた言葉に、どれだけ心配させてしまったのかがわかって更に申し訳なくなってしまう。

 きっとあの後中止になってしまっただろう婚礼に目を回すほどの忙しさだったはずなのに、こうやって僕に付き添ってくれていたアデナ様の優しさが身に染みる。

 一月もの間眠っていたということは、もしかしたらもう婚礼は終わっているのかもしれない。


「あの…婚礼は…」

「無期延期となりました」

「そんな…っ」


 滲んだ涙を拭ってはっきりと言われた言葉に、今度は僕の顔が真っ青になっていく。

 きっとあの時の血で汚れたドレスのせいで、婚礼が延期されてしまったんだ。

 リャム様もラオフェル様もあんなに婚礼を待ち侘びていたのに、僕の軽率な行動のせいで台なしにしてしまった。


「メルヴァ様のせいではありません。ドレスはすでに仕上がっているのですが、問題はデイリルと友好関係にある国の王女が犯行に及んだということです」


 僕の心を読んだようにアデナ様がゆっくりと首を振る。

 アデナ様の話によると、リャム様を襲った王女は今客間に監禁されているそうだ。

 いくら罪人とはいえ一国の姫を牢に入れることは出来ず、かといって無罪放免にするのはラオフェル様が許さなかったらしい。

 今はその処遇について外交的に話し合いが進められていて、婚礼はそれが済んでからとのことだった。

 自分のせいではなかったけれど、何処か釈然としない気持ちがしこりのように胸につっかえる。

 やはりアデナ様の忙しさは並ではないらしく、話が終わるとそのまま足早に部屋を出て行ってしまった。

 再び室内に静けさが戻ってくる。


 消毒液の匂いが満ちているということは、きっとここは城内の病室なんだろう。

 ゆっくりと手で腹を撫でると、服の下には丁寧に包帯が巻かれていた。

 痛みも余りない。

 自分の置かれている状況を確認していると、不意にノックもなしに扉が開かれた。

 そこにいたのはお供も付けずに一人で立っている、美しい人…リャム様だった。

 すぐに扉は閉められ、室内は二人きりになる。


「………」

「………」


 何かを話さなければと思うのに、リャム様の悲痛な表情に口を開くことさえ憚られる雰囲気だ。

 リャム様は扉の前に立ったまま動くこともなく、見たこともないほど険しく眉を寄せて僕を見詰めてくる。

 もしかしたら横になっているのが気に障ったのかもしれないと、起き上がるためにシーツに手をついて上半身を持ち上げようとした時、微かだけど声が聞こえたような気がした。


「あの、今何て…」

「……城から、この国から出てってよ」


 唐突過ぎるリャム様の言葉に思考がついていけず、僕は目を丸くしてただただリャム様を見詰めるしか出来なかった。


「メルヴァは僕だっ、お前じゃない!! 出て行け!! 出て行けよっ!!」


 射殺さんばかりのリャム様の眼差しを受けて、僕は今出来る最善の方法を見付けた気がした。

 僕は、夢から覚めなければならない。




 ***




 side:アデナ




 三百年もの間、背負い続けてきた私の罪。

 デイリル帝国の為、ゴーシュ様の為とあのお優しい方を手に掛けてしまった私の業は、結果的にデイリル帝国の繁栄とレスタ王国の衰退を招いた。

 そしてゴーシュ様の人柄さえも変えてしまった。

 寝食すらままならないゴーシュ様が若くして亡くなられ、私は次代の皇帝が即位したのを見届けて自決した。


 再び私がこの国に生を受け、そして王子であるゴーシュ様に生き写しのラオフェル様を遠目に見た瞬間、前世の記憶が洪水のように押し寄せてきたのを覚えている。

 当時幼かった私はそれから身体を鍛え、前世からの知識と経験により20歳という異例の若さで王族付き近衛兵にまでのし上がった。

 そして初めてラオフェル様と直接謁見し、皇帝もまた前世の記憶をお持ちだと知った。

 前世の想いを断ち切ることが出来ずに今なおメルヴァ様を探しているラオフェル様を見て、私はこの業から、罪から、決して逃れることは出来ないのだと悟った。

 否、これこそが私に与えられた罰なのだ。

 浅はかな思惑で引き裂かれたお二方への罪悪を抱く私には、盲目なまでにたった一人を捜し求めるラオフェル様を現世でもまた止められはしなかった。


 そして、今は属国となったレスタ王国にメルヴァ様に瓜ふたつの第四王子がいると知り、喜びに涙するラオフェル様を目の当たりにして私がどうして言えるだろうか。

 その方は本当にメルヴァ様の生まれ変わりなのでしょうか、等と。

 結果、私の勘は正しかった。

 ルイという少年に会い、見た目こそ変わってしまっていたが優しげな声に美しい心は正しくメルヴァ様その人だった。

 これで三百年越しに切れた糸が再び繋がったと喜びに震えたのも一瞬で、メルヴァ様は頑なにご自分の正体をお隠しになろうとしていた。

 ゴーシュ様ではなく今のラオフェル様の幸福を守ろうとする健気なお姿に、何度身を切られるような痛みを感じたことか。

 叫び出したい想いも、それは全て私のエゴでしかない。

 1番辛いであろうメルヴァ様が堪えていらっしゃるというのに、この私が耐え切れなくてどうすると何度も自分に言い聞かせた。


 しかし、婚礼の日。

 ご自分の偽物であるリャムを庇い刺されたメルヴァ様を見た瞬間、このままでは駄目だと私はようやく気が付いた。

 メルヴァ様はゴーシュ様の為に命を投げ出し、今もまたラオフェル様の幸福の為にいとも簡単に己の身を投げ出してしまう。

 昏々と眠り続けるメルヴァ様を看護しながら、この方が目覚められた時に全てを話そうと決意した。

 例えメルヴァ様の意志に反することだとしても、この部屋にラオフェル様を引き込んでこの方こそがメルヴァ様だと。

 貴方が追い求めていた御仁だと告げよう。

 無期延期となった婚礼の式を裏から手を回して実行できないようにして、今日という日に備えてきた。


 なのに、つい半日前までには確かにそこにいたはずのメルヴァ様が、医務室から忽然と消えていた。

 すぐに城中捜させても、その痕跡すら見付からなかった。

 やっと、お二方の想いが通い合うと思っていたのに。

 私が断ち切ってしまった糸を、再び繋ぐことが出来ると信じていたのに。

 貴方はまた、私達の前から消えてしまった。

 前世から続くこの業は、今もなお私の身体を業火となって焼いているのです。

 貴方の言うように私の罪が許されるのだとしたら、それはお二方の幸福なお姿を拝見した時でしょう。


 メルヴァ様…

 ルイ様…

 だからどうか、ご無事でいて下さい。

 最悪の結末だけは、もう二度と見たくはないのです。




「ルイを何処にやった」


 目の前に座るメルヴァ様に良く似た顔を青ざめさせているリャム様を正面から見据え、挨拶も前置きも全て飛ばして問い掛けた。

 ルイ様が城から消えた日のことを調査しているうちに、このメルヴァ様の偽物が私が部屋から出た隙にルイ様の部屋へと入って行ったらしいことがわかった。

 そうなれば事情聴取するのも当然だろう。

 人払いしている室内で、重々しい空気がジワジワとリャム様を追い詰めていく。


「……お前、私とルイの話を聞いていたのか?」


 余りに顔色の悪い様子に最悪のシナリオが過ぎる。

 私が問い掛けると途端にビクッと震えるリャム様に、込み上げてくる怒りを懸命に押し殺して努めて冷静さを取り繕う。

 まだ、まだ感情に身を任せることは出来ない。

 だがもしこれで、ルイ様を手に掛けていようものなら生まれたことさえ後悔させてやる。


「……って…、だって! アイツがいる限り僕は怯えて暮らさなきゃならないっ、アイツが本当にメルヴァの生まれ変わりなら僕は…っ、僕は…!」


 膝の上で硬く拳を握り締めて震えているリャム様を見ても、同情すら微塵も沸いて来ない。


「出て行けって言ったんだ…僕はアイツが何処に行ったのかなんて知らない!」

「ふざけるな!!」


 もう、限界だった。

 自分のことしか考えないこの浅ましい人間によって、きっとあの優しい心が踏みにじられた。

 少しでも傍に居たいというルイ様のささやかな望みさえ、この男は無惨に摘み取ってしまった…こんな不条理が許されるのか。


「ルイにどれだけ助けられたかわかっているのか!? 自分の偽物のために毒を飲み刺されても誰を恨むことさえしなかったあの方を…、最愛のラオフェル様を貴様のような偽物に奪われても歯を食いしばって堪えていたあの方をっ、メルヴァ様の生まれ変わりであるあの方を! 貴様ごときが傷付けるなどこの私が許さん!!」


 普段は気丈に振る舞っているリャムだが、私の荒い言葉にぽろりと涙を零しはじめた。

 普通なら庇護欲を誘うであろうその姿でさえ、今の私には神経を逆撫でする以外の何物でもない。


「僕はっ、ここまで這い上がってきたんだ!! 最下層から王后になって、権力を手にするんだ!!」

「そんな下らないことのためにあの方を追い出したのか!?」

「煩い!! メルヴァは僕だっ、今更本物がのこのこ出て来たって…ッ」


 激しい怒りに立ち上がりながらも、メルヴァ様に似た顔を殴り飛ばすことも出来ずに拳を震わせていたが、不意に何の前触れもなく扉が開いた。

 その瞬間、さっきまで煩く喚いていたリャムさえ全身を強張らせて硬直する。

 それほどに冷たい殺気が入口から立ち上っていた。


「先程の話は、何だ」


 参謀の私ですら臓腑さえ凍りそうな恐怖が込み上げる余りに冷たい空気を纏ったラオフェル様の登場に、一般人のリャムが堪えることなど出来はしないだろう。

 これまで愛おしそうに見詰められたことしかなかったリャムにとって、この怒りをあらわにしたラオフェル様に見られるプレッシャーは凄まじい恐怖のはずだ。

 はじめからルイ様の正体を言うつもりではいたが、ルイ様が行方不明の今これは最悪の状況だ。


「……俺が聞いている。答えよ、何の話をしていた」

「お聞きに、なられた通りです。この者はただの偽物…本物は城を追われ今は捜索中です」

「ちっ、違います! 私は偽物なんかじゃ…」


 今なおラオフェル様に取り入ろうとする姿は浅ましいことこの上ないが、どんどんと威圧感が増す部屋の重圧にリャムの顔が紙のように白くなっていく。


「毒を飲み、刺されたと言っていたな。あの者は口が利けぬのではないのか」


 ラオフェル様の口振りからすると、驚くべきことにお二方は面識があるようだ。


「いえ、その…ルイ様のお声はメルヴァ様そのものですから、恐らくお隠しになられていたのかと…」

「あの者が、真のメルヴァだというのか…?」


 疑うような言葉を口にしながらも確信に満ちたラオフェル様の表情に、流石のリャムも何も言えなくなったようだ。


「毒を飲み瀕死に陥り、血に塗れて倒れたあの者が…メルヴァだと…、俺は…何と言うことを! メルヴァの前で他の者に愛を誓おうとしていたなど…」


 ラオフェル様の身体がゆらりと揺れる。


「メルヴァ…ッ、メルヴァッメルヴァ!! あ゛あァアアあぁあッッ!!!!」


 部屋が震えるほどのラオフェル様の慟哭を耳にし、私は既視を感じていた。

 嗚呼、戻ってしまう。

 ラオフェル様がゴーシュ様に…




 ***




 リャム様に言われるがまま城を出て3日が経った。

 有りったけの財産と城での給金は、短い手紙と共に全て実家に置いて来た。

 もうこの国にはいられない。

 あの時、リャム様なら僕を亡き者にすることができた。

 けれど彼はそうはせずに、悲痛な声を上げただけだった。

 だからこそ、僕はあの城を出た。

 僕はあの人の傍に居たいという利己的な考えで城にいたけど、僕さえいなければラオフェル様もリャム様も幸せになる。

 アデナ様だって、僕の顔を見て遠い過去の罪悪感に苛まれることもない。

 もう捕われるべきじゃない。

 前世は前世。

 現世は現世。

 メルヴァもゴーシュも遠い昔に死んだ人間で、今生きているのはルイとラオフェルという全くの別人だ。

 別人なのだから、過去の柵に捕われるのは間違っている。

 僕達の勝手な縁に巻き込んでしまったリャム様には、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。

 だからこそ、もう二度と婚礼の邪魔をしないように国を出ようとした…のだけど。


 目の前にそびえ立つのはこの国の外門。

 今や大陸で一番の強国であるデイリル帝国には、入国も出国も厳しい審査と通行手形が必要になる。

 お金がないから通行手形が手に入らないのは勿論だけど、あったとしても僕だとまず審査には通らない。

 何故なら今朝から物凄い数の兵士達が僕を捜しているからだ。

 それまでも僕を捜しているらしい兵士はいたんだけど、ここにきて帝国が誇る騎士団や近衛兵から町を警備する末端の兵までが血眼になって国中を捜索しはじめた。

 こんな状態では外門全てに手配書が回っているはずだから、僕は出国出来ずに近くの小さな宿に身を隠すしかなかった。


 気のいい女主人のおかげで下働きしながら屋根裏部屋を貸してもらってるけど、もし僕を匿っていると知られたら彼女もただでは済まない。

 いつまでもこの宿にお世話になるわけにはいかないと、行き先はまだ決まってないにも関わらず僕はまた荷物をまとめはじめる。

 どうしてただの従者にしか過ぎなかった僕をここまで捜しているのかはわからないけど、今捕まるわけにはいかない。

 マントのフードを目深に被って、3日間お世話になった宿を後にする。

 町から外れた北の外門にさえ、ちらほらと兵士の姿が見受けられる。

 ここで変に隠れたりしたら反って怪しまれると人に紛れて歩き出そうとした矢先、腕を何者かに掴まれた。

 一瞬ビクッと肩が跳ねるけど、恐る恐る掴まれている腕を見下ろしその腕を伝って顔へと視線を向ける。

 驚くべきことにそれは兵士ではなかった。


「……ルイ、だな」


 どう見ても平民ではない身なりの男に目を丸くしていると、そのまま近くに停められていた馬車に引き擦り込まれてしまった。

 ここで大声を出せば助けてもらえたかも知れないけど、例え命の危機にさらされても城にだけは戻れない僕は抵抗らしい抵抗も出来ず馬車の中で縛り上げられた。

 男の合図で動き出した馬車に不安が過ぎるも、向かいに腰掛けた男の顔を見て気付いたことがある。

 この男は婚礼のため招かれた王族に付き従っていた従者だ。

 確かあの日、リャム様を刺そうとした姫の父親…王様の隣にいた人だったはず。

 嫌な汗が背中を伝う。

 この人が僕を捕らえたとなれば、もしかすると交渉の材料にされるのかもしれない。

 十中八九帝国によって閉じ込められた自国の姫を救おうと、僕を城に突き出すつもりなのだろう。

 マズイ、このままでは…

 普通に兵士に捕まるよりも何倍も悪くなっていく状況に、縛られた無力な僕はどうすることも出来ずにただ車輪と蹄の音を聞き悔しさに唇を噛み締めていた。




 ***




 side:アデナ




 ルイ様が真のメルヴァ様の生まれ変わりだと知ったラオフェル様は、それから人が変わったようになられてしまった。

 まだ完全には完治していないあの傷ではそう遠くへは行っていないだろうと、外門内門全てにルイ様の手配書を回し、王直属の軍隊だけでなく普段なら街の治安を守るための兵士達まで捜索に駆り出されてしまった。

 そのせいで国中で軽犯罪が多発しているらしい。

 たった一日で国を傾けてしまいかねないラオフェル様の愚行とも呼べる行いが、メルヴァ様を失った時にゴーシュ様がとった行動と重なってしまい私には止めることが出来なくなってしまった。


 リャムは平民が王族を名乗った出生詐称の罪で投獄された。

 レスタ王国にも厳しい処罰が待っているだろう。

 それほどまでにラオフェル様の怒りは凄まじかった。

 いっそ記憶などなければ良かったのかも知れない。

 三百年前の記憶が冷たい鎖となって、私達の身体を締め上げ苦しめている。


 そしてまた、あの悲劇が繰り返されようとしている。

 このままではまた、ラオフェル様が大陸中に戦の火種を撒いてしまう。

 しかし、今は三百年前と違ってひとつだけ希望がある。

 ルイ様は死んではいない。

 もしご無事に戻ってくることが出来たなら、ラオフェル様の愚行を止められる。




 その知らせが舞い込んできたのは、日も沈み何時もなら夕餉が始まる時間だった。


『ルイ様を保護した』


 その言葉に喜び安堵したのは私とラオフェル様だけではなかっただろう。

 しかし、それに続く言葉がまずかった。


『今夜中にガント国王の屋敷に来られたし』


 ガント…

 1月前、メルヴァ様を刺した姫君の父親。

 この状況でこの伝令からすると、取引と見てまず間違いはないだろう。

 ラオフェル様も同じことを考えていたのか、普段は涼しげな蒼い双眸が憎悪に燃えていた。

 それからのラオフェル様の行動は早かった。

 城近くにある来賓用の屋敷へと向かう中、塔に幽閉していた姫を連れて来るように手配し武装すらせずただひたすらに馬を走らせた。


 ガント国王は我が国に次ぐ大国の王で、表面上は友好的な振りをしながらも虎視眈々とデイリルを狙っている油断のならない男だ。

 若きラオフェル皇帝のことを良く思っていないことも、自分の娘を皇后にしこの国の王族にガントの血を刻もうとしていたことも知っている。

 彼の誤算はその姫が盲目的にラオフェル様に傾倒してしまったことと、ラオフェル様がリャム様に傾倒していたことだろう。

 結果あのような騒ぎを起こし、あわや戦争にまで発展しかねない状況に自らを追い込んでしまった。

 それが、今回の行動を起こさせたのだろう。

 ルイ様を餌に娘と国の安全を、優位な立場で交渉するつもりなのだ。

 そして、その内容がどんなに屈辱的であろうともデイリル帝国の存続が危うくなろうとも、そこにルイ様がいる限りラオフェル様は必ず呑む。

 参謀の私が止めたところで、私を斬り捨ててでもルイ様を求めてしまうだろう。

 それほどまでに飢えているのだ。

 悪しきことだとわかっていても自分の命さえも蝕むほど、メルヴァ様という存在を求めて止まない哀しいお方なのだ。


 屋敷に着き応接間でガント国王と対面した瞬間、ラオフェル様は手に持っていた書類を机に叩き付ける。

 そこには『姫の即時釈放』などの事項が書かれている。

 ガント国王はその書類に目を走らせると、優越感に塗れた醜悪な顔付きで指を鳴らした。

 ガチャリと音を立てて開いた扉から現れたのは、身体を紐で縛り上げられ男に引かれている紛れも無いルイ様のお姿だった。




 ***




 知らない屋敷の一室に縛られたまま閉じ込められて数時間、再び開かれた扉から引き擦り出すようにして歩かされ豪奢な扉の前まで連れて来られた。

 中には複数の気配がするものの、話し声が聞こえないから誰なのかもわからない。

 ロープの端を持って扉の前から動かない男の様子を横目で伺うけど、僕をちらりとも見ることなくまるで人形のようにじっとしている。

 息苦しいほどの沈黙に堪えていると、不意にパチンと指を弾くような音がした。

 恐らくそれが合図だったのか動くことのなかった男がすぐさま扉を開き、ロープを引っ張って僕を部屋に引っ張り込む。

 突然のことで倒れそうになったけど、足を踏ん張って何とか体勢を立て直した。

 途端に息を飲むような音がして反射的に顔を上げてしまう。

 嗚呼…何てことだろう。

 そこには椅子に座っているガント国王と、立ったままの見覚えがありすぎる二人の姿があった。

 そして机の上には数枚の紙。

 一瞬にして事態を理解した僕は、立っていることすらままならないほど全身の血の気が引いていくのを感じた。


「……メルヴァ、メルヴァなのか!?」


 ラオフェル様の言葉に震えが走る。

 何故、何故彼がその名を僕に向かって使うんだ…?

 ハッと目を見開いてラオフェル様の後ろに控えていたアデナ様に視線を向けると、険しく眉を寄せたまま小さく頷くその姿にドクンと鼓動が高鳴った。

 知ってしまったんだ、遂に…

 縋るように僕を見詰めてくる美しい蒼の双眸に、三百年振りに見る熱いその眼差しに僕の鼓動が激しさを増していく。


 だけど、僕はその問いに答えることは出来ない。

 僕は今、人質なのだから。

 自意識過剰というわけじゃないけれど、心の優しいラオフェル様は僕を見捨てられないだろう。

 僕がメルヴァの生まれ変わりだと知れば、ガント国王がどんなに不利な要求を突き付けたとしてもラオフェル様は承諾してしまうに違いない。

 それは駄目だ。


「メルヴァ、声を…お前の声を聞かせてくれっ」

「………」


 切なげなラオフェル様の声に叫び出したくなる気持ちを必死に堪え、僕は俯き様に大きく横に首を振った。

 僕の身勝手な感情でこの国の人達に迷惑をかけるわけにはいかない。

 そして何より、ラオフェル様の足枷にだけはなりたくない。


「…ッ…メルヴァ…」

「メルヴァ様、何を…っ」


 驚く二人の声が聞こえるけど、僕は俯いて必死に唇を噛み締めていた。

 そうでもしないと声を上げてしまいそうになる。

 ラオフェル様に縋ってしまいそうになる。


「ふんっ、何のことだかわからぬが、要は声を出させれば良いのじゃろう」


 頑なに声を出すことを拒む僕に焦れたのか、ガント国王がロープを握っている男に合図を出す。

 すると一瞬の間を空けて鋭い衝撃と共に頬が熱くなった。

 恐らく平手で打たれたのだろうけど、こんなことくらいで声を出す僕じゃない。

 もう一度男の手が振り上げられたのを見て、次にくるであろう衝撃に歯を食いしばった。


「……ぐぅっ!!」


 呻くような声が漏れた。

 僕からじゃない、目の前の男からだ。

 わけがわからずに目を瞬かせていると、振り上げていた男の腕に短剣が刺さっているのが見えた。

 すぐにラオフェル様の方を向こうとするけど、視界が塞がれてしまい見るは叶わなかった。

 いや、正確には見えているのかも知れない。


「……メルヴァ!」


 僕を強く抱き締めてくる温かな腕。

 頭上から聞こえる愛しくて愛しくて堪らない声。

 視界を覆い隠す逞しい身体。

 その全てが僕の心を激しく揺さ振って…


「……ッ…ゴーシュ、様…!」


 ギリギリを保っていた感情が、耐え切れず涙と共に決壊してしまった。

 次々と溢れてくる涙はラオフェル様の服に吸い込まれ、強くなっていく抱擁に呼吸さえも忘れてしまいそうだ。


「メルヴァッ、メルヴァ!! やっと逢えた…! もう離さない、離しはしない!!」


 懐かしいゴーシュ様の温もりに心を奪われそうになる。

 だけど今だけ、今だけはメルヴァとゴーシュとして再会を喜ばせてほしい。

 そうすれば、その思い出だけで生きていける。

 決意することが出来る。

 今度こそ完璧に、貴方の前から消える決意を。




 ***




 side:ラオフェル




 本当は知っていた。

 リャムがメルヴァの生まれ変わりではないことを。

 レスタ王国には第四王子などいないことを。

 俺は知っていた。

 メルヴァはアデナの手にかかって死んでいたことを。

 ゴーシュの愚行はメルヴァがいない世界に向けての、ただの八つ当たりに過ぎなかったことを。

 全て知っていた。

 全てわかっていた。

 けれど、俺にはメルヴァのいないこの世界は堪えられなかった。

 しかし自ら命を絶つことを、メルヴァは決して許してはくれないだろう。

 だから俺は待っていた。

 世界に戦火を広げながら、自分が死ぬのをずっと待っていた。

 衰弱していく自分の身体を感じる度に、俺は嬉しくなった。

 もう少し、後少しでメルヴァの元に行ける。


 そして最後の日、俺は確かに安らぎを感じていた。

 しかし、次に意識が戻った時、また俺は世界に絶望した。

 あの時と同じように傍らにはアデナがいるというのに、血反吐を吐くほど欲している唯一無二の存在は何処にもいなかった。

 捜して、捜して、捜して。

 レスタ王国からリャムを差し出された時、俺は自我を保つために無理矢理リャムをメルヴァだと思い込むことにした。

 これ以上メルヴァを求め続ければ、俺はまたゴーシュと同じ道を行くことに気付いていたから。


 しかし、婚礼を近日に控えたあの月夜に出会った少年。


 普段なら目の端にも入れないような極平凡な少年は、けれど俺の不安定な心を僅かに温めてくれた。

 メルヴァとは似ても似つかない、しかしとても似ている声を失った少年。

 彼に再び会ったのは婚礼の日だった。

 悲鳴に駆け付けると、彼は血塗れになって立っていた。

 反射的にリャムの傍に駆け寄るが、ゆっくりと倒れていく少年の唇が僅かに笑みの形を作った瞬間、俺の中で激しい衝撃が走った。

 涙が出そうになる。

 叫び出しそうになる。

 わけのわからない自分の感情を持て余し、それからは婚礼のことなど忘れて脇目も振らずに執務に明け暮れた。

 だがその間中、血に塗れ小さく微笑んだ少年の顔が網膜に焼き付いて離れてはくれなかった。


 リャムの元にアデナが訪れたと兵士から聞き、胸騒ぎを感じた俺はすぐにリャムの部屋へと訪れた。

 そして、真実を耳にする。

 あの少年こそがメルヴァだったのだと。

 毒を飲み生死の境を彷徨ったという少年が。

 血に塗れ一月もの間意識が戻らなかった少年が。

 俺の婚約者であるリャムの従者であった少年が。

 あの少年が、俺が捜し求めていたメルヴァだったのだ。

 俺は何という愚かなことをしてしまったんだ。

 自我を保つためとはいえ別人にメルヴァを投影していた俺を、婚礼を迎えるのだと約束の場所で笑った俺を、メルヴァは一体どんな気持ちで見ていたのだろうか。

 俺の婚約者に、どんな気持ちで仕えていたのだろうか。

 どんな気持ちでリャムを庇ったのだろうか。

 どんな気持ちでこの城を出たのだろうか。

 後悔しても遅過ぎる。

 己が犯した過ちに血を吐くほど声を上げた。

 叫び、歎き、胸を掻きむしったけれど、やはり俺は諦めることが出来なかった。

 国が傾くとわかっていても、全ての兵を捜索に当てた。


 ガント国王からの伝令がきた時にも、国の存亡よりメルヴァの安否を優先させようと決めてた。

 傍らにいるアデナが物言いたげな目を向けていることにも気付いていたが、俺には何を失ったとしてもメルヴァが必要だった。

 本物のメルヴァがいるとわかって、求めずにいることなど不可能なのだ。

 俺はその時まで確かにガント国王からの要求は全て呑もうと思っていた。

 だが、少年が打たれる姿を目の当たりにして、俺の中の何かが音を立てて切れた。

 男に短剣を投げ付け少年を抱き締める俺の後ろでは、アデナ周りに控えていた兵士達を次々に倒す音が響く。


「……ッ…ゴーシュ、様…!」


 少年の小さな声、しかしはっきりと呟いた言葉を聞いて、俺はようやく心が満たされていくのを感じた。

 メルヴァが俺の腕の中にいる。

 求めて求めて心までも砕けそうなほど求め続けていたメルヴァが。


「メルヴァッ、メルヴァ!! やっと逢えた…! もう離さない、離しはしない!!」


 俺は込み上げる激情のままに涙した。

 この温もりをもう二度と離しはしないと、心に硬く決意して。




 ***




 人質だった僕を奪われたガント国王は、まさに掌を反したような豹変振りだった。

 ほんの出来心だったから始まり、部下が間違って連れて来たから娘を想う親心と最後は涙で締め括られた。

 いくら大国であれデイリル帝国には歯が立たないのだから、ガント国王の必死さも理解できる。


 だけど僕は、はっきり言ってそれどころじゃなかった。

 後頭部と腰に回った腕により身動きはとれず、目元を綻ばせているアデナ様は助けてくれそうにない。

 ラオフェル様は懇願するガント国王など見向きもせず、僕をそのまま抱き上げたかと思えば素晴らしい早さで移動し馬車に乗ってしまった。

 離さないとの宣言通り、一刻でも早く僕を城に連れて帰りたいと思ってくれているんだろう。

 その間も抱き締めてくる腕を一切緩めることなく、とうとうラオフェル様の私室にまで辿り着いてしまった。

 カウチに座ってもなお離してくれないラオフェル様と、入り口近くで待機しているアデナ様を交互に見るけど僕が解放される気配すらない。

 僕だって本当はずっと抱き締められていたい。

 自分の命よりももっとずっと大切で愛しい人に抱き締められて、喜びを感じない人間が何処にいようか。

 だけど―――


「メルヴァ…ッ、すまなかった! 知らなかったとはいえ、俺はお前を傷付けた。この罪は命続く限り償い続けよう。だからメルヴァ、ずっと俺の元に…」

「メルヴァなど何処にもいません」


 だからこそ、もう二度と同じ道を歩まぬように。


「メルヴァもゴーシュも死んだのです。私……僕は下働きのルイ、貴方はラオフェル皇帝陛下。それ以上でも以下でもありません」


 僕はそっとラオフェル様の胸を押した。

 願わくば、この手が震えていることを気付かないで欲しい。


「…な、にを…言っている…」

「前世の記憶に何の意味があると言うのですか。今はあの時とは違う。世界も、状況も、時も、親も、名前も、心も…何もかもが違うのですよ。何故僕がメルヴァの時のように貴方を愛するとお思いですか? 僕には、ルイにはルイの人生があるのです」


 そう、貴方には貴方の人生がある。

 わざわざ自ら茨の道を選ぶことはない。

 互いが別々の道を歩き続けた先…過去に捕われず広い視野で見ることが出来たなら、いつの日か僕の想いにも気付いてくれる時が訪れるはず。

 視界の隅でアデナ様が驚愕の眼差しで僕を見ているのを感じる。

 だけどそれ以上の絶望を湛えた眼差しが、僕の意識を搦め捕って離さない。


「……離してください。助けて下さったことには感謝していますが、これ以上貴方の夢物語に付き合うつもりはありません」


 自分の言葉がラオフェル様の心を切り裂くのがわかる。

 ラオフェル様が今感じている痛みを思えば、僕のこの胸の痛みなんかいくらでも堪えられる。

 俯き小刻みに肩を震わせるラオフェル様の痛々しい姿に、皮膚が破けそうなほどきつく拳を握り締めて激情を押し殺す。

 僕はゴーシュ様を愛している。

 だけどそれと同じくらい貴方を、ラオフェル様を想っている。

 ラオフェル様が治めるこの国を見ていれば、どれほど賢い皇帝かは一目瞭然だ。

 それに、僕が現れる前まではリャム様とも仲睦まじかったと聞く。


「貴方が抱き締めるべきは僕じゃない。ラオフェル様に必要なのはリャム様で…んっ! ―――っ!!」


 無理矢理に口を塞がれてしまった。

 よもやルイとしてこの世に生を受け、再びこの人と口付けを交わせる日がこようとは思ってもみなかった。

 久し振りに感じるその口付けは、まるで時が戻ったのかと錯覚するほど変わっておらず、先程した決意が揺らいでしまいそうになる。


「ふっ、は…ッ…何をなさいますっ、ラオフェ…」

「知らん!!」

「…………え?」

「確かにルイはルイ、メルヴァはメルヴァなのかも知れない。だが、記憶がある以上割り切ってなど考えられん! あの日、約束の庭園で出会った時…お前は声を出さなかったが、俺は不思議な既視感を感じていた。リャムの傍でも、誰の傍でも感じたことのない心からの安らぎを、俺はお前に感じた。それだけでは足らんのか?」


 ラオフェル様が僕をそっとソファに座らせると、そのまま床に膝をついて両手を包み込むように握ってきた。

 まるでそこから想いを伝えようとするかのような手の強さと、真摯に見上げてくる蒼の瞳に僕は咄嗟に言葉が出てこなかった。

 あの夜、ラオフェル様がそんなことを感じていただなんて…

 足らないわけじゃない。

 ラオフェル様に不満があるわけじゃない。

 けれど僕を真っ直ぐに見詰め愛してくれる一途さは、一国を担う者として時に弱点になる。

 僕は…


「僕は、貴方の枷になるくらいなら死を選びます」


 メルヴァの意志は三百年の月日が流れようと、懸命に忘れようと自分自身に言い聞かせようと、僕の一番深いところに根を張っている。

 自虐的な想いじゃなく僕の矜持が、この人の重荷にだけはなりたくないと訴えかける。


「お前が死を選ぶなら、俺が選ぶのもまた死だ」

「なっ! 何を言うのです! 貴方はこの国の王、そのような無責任なことを…っ」

「王は人を愛してはならんのか? 王が幸福を願うのは愚かなことなのか?」


 強い言葉とは裏腹に、今にも泣き出してしまいそうなラオフェル様の表情を目の当たりにして蓋をしたはずの感情が溢れ出てしまいそうになる。

 捨てられた幼子のような不安に揺れる瞳を向けられて、どうして僕が貴方を拒めようか。

 だけど僕の存在は、必ず国王としてのラオフェルを堕落させてしまうだろう。

 だから、僕がとれる行動はたったひとつしかない。


「………焦れったいにも程がありますね」


 不意にそれまで沈黙を守っていたアデナ様が、苛立ったように口を開いた。

 その言葉に僕はもちろん、ラオフェル様でさえ振り返ってアデナ様をまじまじと見詰めている。


「ルイ様は聡明であられるのに何故わからないのですか? ラオフェル様は貴方がいるから堕落するのではありません、貴方がいないから堕落するのです。盲目的なまでに貴方を愛しているラオフェル様は、貴方をお傍に置くことで安心して全力で国政に励むことが出来るでしょう」

「……え、そんなこと…」

「アデナの言う通りだ。お前を求める余り俺は周りが見えなくなる。お前が死を選べば俺はこの世に絶望して後を追ってしまう。だが、お前が后に…俺だけの者になったのなら、こんなにも嬉しいことはない。俺はお前が誇れる夫になろうと国政に励むし、お前からの労いの言葉を聞くために喜んで身を粉にして働こう」


 アデナ様の凛とした言葉に背中を押されるように、ラオフェル様もまた僕の顔を覗き込んで畳み掛けてくる。

 その瞳には先程までの不安そうな色はなく、何処か野性的な…油断したら食われてしまいそうな強さを孕んでいるように見える。

 この瞳には見覚えがあった。


 ―――必ず和睦してみせる。

 その時にはお前を我が后に―――


 かつて僕に誓ってくれた時と同じ、力強く真摯な瞳。

 目頭が熱くなって、頬を涙が滑り落ちていく。

 なけなしの理性が歯止めをかけようとするけど、動き出した心はもう止められない。

 もう自分を偽ることが出来ない。

 僕の心が、身体が、たった一人を求めて傾いていく。


「必ず幸福にしてみせる。今こそお前を我が后に…」


 僕は、ゆっくりと近付いてくる唇を今度は拒まなかった。




 ***




「なぁんで、この僕がお前みたいな庶民に仕えなきゃならないんだよ!」


 あの日、城を出た時振りに見たリャム様は大変ご立腹のようでした。

 それもそうだろう。

 すっかり素性が暴かれてしまったリャム様は、王女とは違って地下の牢屋に閉じ込められていたらしい。

 僕が毒を口にしたのも刺されたのも何故かリャム様のせいになっていて、殆ど八つ当たりのようにラオフェル様がリャム様を拘束したそうだ。

 例え皇帝陛下だとしてもこんな不条理が許されるわけがないと、リャム様を放免しないなら部屋からは出ないと宣言し与えられた部屋に篭城して半時。

 慌てたラオフェル様とアデナ様がリャム様を連れて来てくれたまでは良かったんだけど、レスタ王国から見捨てられ後ろ盾を失ったリャム様は国外退去してもらわなければならないらしい。

 そこでつい口を出してしまったのがいけなかった。


『僕の話し相手としてリャム様を城において下さい、お願いします!』


 目を丸くするラオフェル様とアデナ様を余所に、リャム様はまるで毛を逆立てた猫のように怒ってしまった。

 リャム様には王族のような窮屈な生活を送ってほしくないとは思っていたけど、王族ではなくなった今、今度は僕の友達になってほしいと思う。

 頑張り屋で真っ直ぐで朗らかなリャム様を、僕はひっそりと憧れさえ抱いていた。

 僕にはないものをたくさん持っているリャム様。


「僕はリャム様に傍にいてほしいんです。従者とかじゃなく、友人として対等に。…リャム様のことが、好きだから」

「………ッ!!」

「ル、ルイ様ッ、何を…!」

「ルイ!! お前は俺ではなくリャムに心を寄せているのか!?」


 僕の言葉に何故か場が騒然となる。

 リャム様は白い肌を真っ赤に染め上げているし、アデナ様は顔が真っ青になってしまっている。

 ラオフェル様に至っては信じられないと顔を悲愴に歪め、カウチに腰掛けている僕の肩を縋るように抱き締めてきた。


「……え、っと…ラオフェル様、僕がお慕いしているのはただ一人です。おわかりでしょう?」

「ルイッ!! あぁ、俺もだ! 俺もただ一人、お前だけを愛している!!」


 ぎゅうぎゅうと抱き締めてくるラオフェル様に苦笑を浮かべながらも、僕は宥めるように広い背中に腕を回してゆっくりと撫でる。

 すっかり皇帝の威厳が無くなってしまったラオフェル様は、まるで三百年前に戻ったようだ。

 アデナ様も同じことを思っているのか、ラオフェル様の肩越しに見えた顔は苦笑を浮かべていた。

 その隣に立っていたリャム様は、驚きを隠せないとばかりに瞳が零れそうなほど目を見開いてラオフェル様を見ている。


「ラオフェル様が…! あの物静かで思慮深く威厳があって賢く聡明な皇帝陛下が…」

「ラオフェル様は遥か昔からルイ様にだけは頭が上がらないのですよ」


 姿形が変わろうとも変わらぬ愛を突き通してくれるラオフェル様に、不覚にも胸がジンッとしてしまう。


「……ってことは、ラオフェル様の后になるよりルイの友達になった方が得策か?」

「お前が何を企んでいるかは知らないが、ルイ様が望むならラオフェル様はそれこそ何だってしてしまわれる」

「マジか…」


 何かを話しているアデナ様とリャム様に見られていることが恥ずかしくて、今なお愛を囁きながら抱き締めてくるラオフェル様の胸をそっと押してみる。

 すると途端にガバリと顔を上げたラオフェル様が、この世の終わりのように顔を歪ませて僕を見下ろしてきた。


「……ルイッ、俺の愛を拒むのか!?」


 嗚呼、本当に変わらないな。

 美しい蒼の瞳にうっすらと涙まで浮かべているラオフェル様が可愛らしくて愛しくて、昔から僕はついつい甘やかしてしまいたくなるんだ。


「恥ずかしいんですよ、人が見ているから…。こういうことは、二人きりの時に…ね?」

「ルッ、ルイ…!! それは誘っているのか…っ」

「ラオフェル様、その前に執務へお戻り下さい。この数日で仕事が山積みなんですから」

「ルイ、お前がそこまで言うんなら友達になってやってもいいよ。僕のことはリャムでいいから」




 三百年の月日が僕たちにもたらしたものは何だったのか、それは誰にもわからない。

 けれどひとつだけ言えること、それは…

 それは、また次の機会にしようかな。




【end】

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