望まざる報せ
「戻りました。」
「お早いですね。」
「ああ…まぁ…」
言葉を濁すノダさんに、俺は小さな苦笑を浮かべた。
察してねと表情が語っているので、お察ししますと表情で語り返す。
ここは個展開催中のギャラリーだ。いくら何でもカウンターに直行して
調理担当者と喋って終わり…という流れは失礼だろう。なのでとにかく
展示作品をぐるっと見て来てくれ、といった話になった。ノダさんとて
ちゃんとした社会人である。そこはきっちりこなしてくれた。さいわい
ニロアナさんは他の客数人との話が盛り上がってたので、スルーしても
不自然ではなかった。
何が「さいわい」なのかは、もはや言うまでもないだろう。
要するに俺やネミルと同じで、絵の魅力がよく分からないって話だ。
こればっかりはどうしようもない。と言うか、感性が同じ人がいるのは
俺たちにとって心強い限りだ。
「まあ、パワーがあるって事だけは感じ取れるんですけど。」
カウンターに座るノダさんが、小声でそんな感想を述べる。
「ずっと見てるとその…退屈で…」
「大丈夫、俺たちも同じです。」
「そうそう。」
ひそひそ話の内容は、多分当人たるニロアナさんにはお見通しだろう。
何となく空気で判る。こっちを見る視線の生温かさもそれを裏付ける。
だけど、悪いとは思わなかった。
絵画でも音楽でも彫刻でも、芸術というのは受取り方が違って当然だ。
「これに感動すべきだ」などという考え方は、傲慢以外の何でもない。
分からない者同士が話していても、それは風のように無害だろう。
害悪なのは、感銘を受けた人に対し「何がいいんだ」とか言う行為だ。
逆もまた然り。「良さが分からないなんておかしい」とか言う行為は、
同じくらい自分勝手で醜い。
そんな事も分からないニロアナさんではないだろう。
…とは言え、あの人が天恵の宣告を受けてなくて良かったとも思う。
何事も人それぞれって事だ。
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「すみませんね、なかなかお店まで行く機会が作れなくて。」
「いえいえ。」
「ご心配なく。元気に働いてます。けっこう繁盛してますよ。」
申し訳なさそうなノダさんに、俺もネミルも笑顔で答えた。
確かに、開店してからの来店回数は今日までにわずか2回だ。本人も、
そこは不本意なんだろう。だけど、遠過ぎるのはどうしようもない。
むしろ、今なお俺のスコーンの味を憶えてくれてるのが嬉しい限りだ。
「お忙しいんですよね。」
「まあね。…あ、そうですね。」
ちょくちょく敬語が崩れる。でも、それもまた俺たちの耳に心地良い。
杓子定規な話し方だった以前とは、俺たちの見方が変わったんだろう。
ほんの少しでも近づけているという実感は、悪いものではなかった。
「最近ではこっちに詰めています。年末っていうのもありましてね。」
「やっぱり、トーリヌスさん専属の運転手ですか。」
「それ以外にも色々ですよ。」
言いながら、ノダさんは美味そうにスコーンを頬張った。
その割にリラックスしてるなあ。
「じゃあ、今日はお休みで?」
「休みと言うか、終日待機です。」
スコーンを飲み下し、紅茶のカップを手に取りつつノダさんは続ける。
「詳しくは言えませんけど、仕事の中にはあたしが立ち入れない分野も
ありまして。まあそういう時には、いつでも動けるようにだけしとけ…
という指示になるわけです。」
「なるほど。」
俺とネミルの納得の言葉が重なる。
何となく想像できる話だった。
トーリヌスさんの立場や仕事内容を考えれば、そういう事もあり得る。
何はともあれ、それで時間を作ってここに来てくれたのは実に嬉しい。
さいわい暇だし、せっかくの機会にじっくりと話を…
おっと、誰か来たな。
あれ、またこっちに直行か。だけど今回は俺たちの知り合いでは…
「あれ?」
近付く足音に気付いたノダさんが、振り返って声を上げる。
「マシズさん。どうかした?」
あ、こっちの知り合いだったのね。それにしても、よくここにいる事が
分かったもんだな。…ああそうか、待機だから行き先は伝えてるのか…
などと考えている間に、「マシズ」と呼ばれた男性はノダさんに近づき
何かを耳打ちした。何だろうか。
一瞬の沈黙ののち。
ガチャン!
ノダさんの持っていたカップが音を立てて倒れ、中に残っていた紅茶が
カウンターに広がる。だけど、当のノダさんは気付いてもいなかった。
ついさっきまでの笑顔が遠く思えるほど、その顔は青ざめていた。
「早く行ってくれ。こっちは対応を整理するから。」
「…は、はい。」
短い会話を残し、マシズさんはすぐ出て行った。もちろん、絵などには
目もくれないままに。
「…あの…」
「す、すみません。」
答える声が、かすかに震えていた。
「急な呼び出しなので、これで…」
「大丈夫ですか?」
「な、何が?」
「顔色が悪いですよ。」
「いや…それじゃ後日ま」
「そこまでお送りしますね。」
不意にネミルがそう言い放ち、迷いなくカウンターから出た。
何だ、いきなりどうした?
呼び止めようとした俺は、ネミルの左手の指輪を見て押し黙る。
さっきまで、間違いなくそんなもの着けてなかった。何か意図がある。
「ああ。じゃノダさん、また。」
「失礼します。」
出て行くノダさんに対し、寄り添うネミルは特に何も言わなかった。
俺も黙ってその背を見送る。
何だかよく分からないけど。
きっとすぐ分かるはずだ。
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入口を出たところで、ネミルは踵を返していた。ノダさんはその瞬間、
弾かれたように駆け出していた。
そして、ネミルはすぐ戻って来た。俺も、とにかく漠然とした覚悟だけ
しっかりと心に据えていた。
「ただいま。」
「何だった?」
「大変な事になったみたい。」
「何だよ。ってか、本人から訊いたってのか?」
そこでネミルは、小さく首を振って声を潜めた。
「違う。心を読んだだけ。」
「…そうか。」
なるほど、そういう事か。
すっかり忘れていたけど、ここにはニロアナさんがいるんだったな。
あの一瞬に指輪をはめ、「読心」の天恵を得てノダさんの心を読んだ。
反射的にそこまで即断をしたのは、報せを耳にしたノダさんの様子が
それだけ悲愴だったからだろう。
あらためて、俺は覚悟を決めた。
「で、何があった。」
「…武装集団に、トーリヌスさんが拉致されたって。」
「は?」
冗談じゃないんだよな?
「…マジかよ。」
想像を、はるかに超えて来たな。