彼女の名前は
『はい。ハガック理容院ですが。』
「あ、俺です。」
『…お、どうなりました?』
「何とか捕まえました。…それほど危険な相手でもなかったんで、今は
俺とネミルが一緒にいます。」
『なるほど。で?』
「筋向かいのエレーヌって喫茶店をご存知ですよね。今そこにいます。
警部の散髪が終わった後で、お手数ですがちょっと来て下さい。」
『了解。お待ちしてますので!』
そこで電話は切れた。
さすがに真向かいにある店ではないから、中の様子は窺い知れない。
それでもこんな近距離で電話するというのは、何だか変な感じだった。
「どうもありがとう。」
「いえいえ、またどうぞ。」
お礼を述べて電話代をカウンターに置き、そそくさと席に戻った。
トリシーさんに化けていた例の女性は、憔悴した様子でネミルの対面に
座っている。顔立ちは意外と整った感じだけど、まとう空気が暗い。
危ない物も持っていなかったので、とりあえずここまで連れて戻った。
ちなみに噴水広場にいた人たちは、ネミルとのひと芝居で反感を稼ぎ、
まとめて「魔王」の力であの騒ぎの記憶を抜き取った。こういう場面で
俺の天恵は実に便利だ。とは言え、嫌われるためのムーブはそれなりに
心が削れる。気をつけないとな。
そんなわけで、今に至る。
時間的に見て、もうすぐイザ警部の散髪は終わるだろう。
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考えるまでもなく、この人はこれといって悪い事をしたわけじゃない。
いくらイザ警部がいると言っても、わざわざ引き渡すほどの事はない。
そして、もう抵抗とか逃走といった心配もほぼ無さそうだった。
とは言え、それじゃもう結構です…と言って解放する訳にはいかない。
他人に対し、大きな影響を及ぼせるような天恵の宣告を受けた人物だ。
少なくとも、俺たちとトリシーさんには事情を知る権利があるだろう。
しかし、ハッキリ言って気まずい。
自分の店なら仕事をしていればいい状況だけど、この場ではお客として
座っているしかない。当然ながら、話が弾むわけもない。ただひたすら
トリシーさんが来てくれるのを待つしかないのである。
「…あの、お名前は?」
「ルソナです。」
「ルソナさん、ですね。」
一問一答もまるで盛り上がらない。さすがのネミルもぎこちない。
勢いに任せ捕り物をやったものの、我に返ると何だか恥ずかしかった。
しかし、今ここであれこれ質問する気はない。やってもいいんだけど、
トリシーさんが来たらまた同じ話を繰り返す羽目になるだろう。正直、
そんな無駄な事はしたくなかった。
ルソナさん、か。
女性だとは思ってなかったな。
いや、正体に関しては何にも考えていなかったような気がする。
天恵がどうのって話ではあるけど。
この人も当たり前の人間なんだと、あらためて思った。
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「ありがとな。」
「またのお越しをー!」
開け放たれている入口の扉の向こうから、イザ警部とトリシーさんの
そんなやり取りが聞こえた。そして数分後、「留守」の入口札をかけて
トリシーさんがやって来た。
「こっちです!」
「悪い悪い。何だかすっかり待たせちまったな。大丈夫だったか?」
「ええもちろん。」
そんな言葉を交わし、トリシーさんは俺の隣の椅子に腰を下ろした。
向き合う形になったルソナさんが、ビクリとかすかに肩をすくめる。
「まあそう固くならないでくれ。」
苦笑を浮かべつつ、トリシーさんがそう告げる。よかった怒ってない。
…まあ、それはこの先の話次第かも知れないけれど。
「コーヒーくれ!」
「はぁい!」
手早く注文を済ませたトリシーさんが、あらためてじっとルソナさんに
目を向ける。
「で、何だっけ名前。」
「ええと…」
「いや、本人から聴きたいんだよ。別にいいだろ?」
そう言われて俺もネミルも黙った。確かにその方がいいんだろうなと。
「教えてもらえるかい?」
「…………」
問いかけに、ルソナさんはかすかに頷いた。
トリシーさんの口調の穏やかさに、少し気持ちを立て直したんだろう。
大人の包容力だなと、俺は生意気な事を考えていた。
しばしの沈黙ののち。
「…ルソナ・ラズペスと申します。この度は申し訳ありません。」
「ルソナさんか。まあとりあえず、事情を話してくれ。」
「………………」
「何もかもとは言わないよ。話せる範囲まででいいから。」
「…分かりました。」
答えたルソナさんは、座り直した。俺たちもしゃんと居住まいを正す。
おかしな事を始めたのは間違いなくこの人だけど、今のこの状況にまで
至った原因は俺たち二人だ。だから俺もネミルも、きっちり話を聴く。
これもまた、神託師として自分たちなりに定義した責任の形だ。
そう思える自分たちが、何だか少し誇らしかった。