左利きの男
何だかんだで、今の生活にもだいぶ慣れてきた気がする。
最初はどうなる事かと思ったけど、いつしか当たり前の毎日になった。
ネミルとの関係も少しだけ進んだ。ポーニーも、俺たちの事については
それなりに察しているんだろうな。
妙に勘繰ったり訊いてきたりしないあたり、やっぱり原作小説どおりの
いい子だ。実際に喋るとかなり癖があるけど、それは現実だからだ。
リアジ村の人たちに関わる一件と、まさかの恵神ローナ降臨。正直な話
本当に理解を超えていた。しかし、あれ以来けっこう平穏と呼んでいい
日々が続いている。喫茶店は順当に繁盛し、天恵宣告を受けに来る客は
しばらく途絶えている。うん、このサイクルがもっとも好ましいな。
…まあ、もうちょい刺激があってもいいかも知れない。
などと考えたのが間違いだった。
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夕方近くになり、ひととおりの客がはけた頃。
チリリン。
「いらっしゃいませ。」
「よう。」
入って来たのは、カーゲの商店区で理髪業を営んでいるおじさんだ。
名前は聞いた事ないけど、子供の頃何度か頭を刈ってもらったっけ。
そんなに近くないから、今日までに来店は無かったはずだ。
「珍しいですね。」
「ああ、まあちょっと気紛れだよ。こっちに足を伸ばそうと思って。」
「何になさいますか?」
「あ、じゃあコーヒーを。」
「承知しました!」
ネミルが元気よく応対する。
ちなみにポーニーは、どこか遠くへ出向いている。もちろん本を使った
瞬間移動でだ。店の忙しさが一段落する午後は、週3日こういう感じで
仕事を抜ける。見聞を広げたい…という意思が強いので、雇い主である
俺としても応援したい。何たって、あのホージー・ポーニーだから。
静かで平和な午後だった。
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「どうぞ。」
「ああ、どうもありがとう。」
入口近くの窓側の席に座った彼は、ネミルが運んだコーヒーをゆっくり
手に取った。その様子に、俺は何か違和感のようなものを覚えた。
何だ。
どっかおかしいな。
そんなに親しい人じゃないけれど、記憶の中の姿とは何か乖離がある。
老けたとかそういった話じゃなく、もっと根本的な何かが…
「あ。」
「どうしたの?」
「いや…何でもない。」
そうか。
俺が見ていたこの人の姿は、散髪の時の鏡に映ったものがほとんどだ。
その印象が強かったせいで、余計に今の彼の姿に違和感があったんだ。
利き手が逆になっている。
鏡に映っていたのと同じ方の手で、カップに砂糖を入れている。
おかしい。
ずうっと職人として仕事をしている人が、利き手を変えるなんて事は
どうにも考えにくい。大怪我をしたとか、そういう止むを得ない事情が
あれば別だろうけど。
気にし出すととことん気になるな。
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「さあてと。」
コーヒーを飲み終わった彼の目が、カウンター脇に立つネミルに向く。
「せっかく来たんだし、天恵宣告を受けてみようかな。」
「えっ?」
「今ですか?」
「ああ。」
「………………」
ずいぶんとノリが軽いな。何だか、仕事帰りに一杯!みたいなノリだ。
そもそもこの人、もう軽く40歳は超えてるはずだ。何で今になって、
天恵を知りたいんだろうか。今でも十分立派に生きているのに。
「いや、金は払うよ?」
「ええ…ちょっと待って下さい。」
そう言ったネミルが俺に向き直る。思った以上の不審顔だった。
「…どうした?」
「おかしいよ。」
「何がだよ。」
もちろん、今の時点でネミルはまだ指輪をはめていない。あまり無闇に
人の天恵を見るな…という戒めだ。この時点でおかしいって、何だ?
「あの人、赤のはずなんだけど。」
「は?」
「前に、中央公園で大勢を見た時。確かに赤で文字が見えてたはず。」
「ちなみに、何だったんだ?」
「…残念ながら憶えてない。」
ないのかよ。
まあ無理もない。あれほどの人数を一度に見たんだから、いくら何でも
その中の一人なんかいちいち憶えていられなかったんだろう。
だけど、じゃあなおさら今の依頼が意味不明になる。
「赤」って事は、以前に他の神託師から天恵宣告を受けているはずだ。
もちろん本人が知らないなんて事、滅多にないだろうから。
「どうしたー?」
ひそひそと言葉を交わす俺たちに、のんびりとした問いの声が届く。
何と言うか、他意は感じられない。普通に天恵を知りたがってる感じ。
「…どうしよ?」
「いいんじゃないか、別に。」
あまり深く考えず、俺は答えた。
「試してんのかも知れないけれど、それならそれでいいって話だろ。」
「……そうだね。」
別にこういう事は初めてじゃない。要望があれば対応すればいいだけ。
まあ、それでいいじゃないか。
そう軽く考えたのが間違いだった。