不可思議なクレーム
神託師になってよかったと、ここに来てやっと心から実感できた。
仕事が途絶える事はない。さすがに若干治安は悪くなっているものの、
神託師である俺に手を出す輩はまずいない。安全は保障されている。
何より、人々からの憧憬の眼差しが心地良い。女だって寄ってくる。
真似できない「神職」だからこそ、この街に留まる価値があるんだよ。
得た天恵をどう使おうが自己責任。そんな使い古されたお題目こそが、
今この街では当たり前のルールだ。天恵宣告のハードルが下がった事で
問題も起こったものの、時間と共にそれなりの治安の新基準ができた。
まあ聖都と呼ばれていた頃の面影は残っていないが、別にいいだろう。
根幹を成す宗教がこれだけの変革を経たのなら、無理もないって事だ。
そう。
ここ聖都グレニカンは、俺にとって正真正銘の楽園だった。
そう。
ほんの数日前までは。
================================
「…はぁ?」
その日の午後。
何か様子のおかしい女の客の顔に、見覚えと呼べるものはなかった。
しかし彼女は九日前、確かに俺から天恵の宣告を受けたと言い張った。
正直、たちの悪いたかりか何かだと思った。言いがかりをつけて小銭を
巻き上げようと考える、まさにこの街ならではの新手の商売なのかと。
しかし実際のところ、訴える彼女の顔は真剣そのものだった。そこそこ
多くの人間を相手にしてきた俺から見ても、嘘を言ってる気配がない。
甘い判断かも知れないけど、俺にはどうしても嘘と言い切れなかった。
幸い、俺はこの聖都で神託師として働き始めた当初から、割ときちんと
帳簿をつけていた。あれこれ副業に手を出していた経験から、その点を
疎かにしなかったのである。でも、まさかこんな事で活かされるとは。
一応照合した結果は、俺にとってはかなり予想外だった。目の前の女は
確かに、九日前にここに来ていた。俺自身が天恵の宣告をしていた。
どういう事だ。
切羽詰まった表情で詰め寄る彼女の天恵は、確かにまだ未宣告状態だ。
ああだこうだ話している間に、俺もようやく思い出した。確かに彼女が
ここに来ていた事を。忙しい時間帯だったから、憶えてなかったんだ。
だけど、じゃあどうして天恵宣告を受けたという事実が消えてるんだ。
いくら忙しかったとは言え、彼女も俺も宣告の記憶は確かにあるんだ。
と言うか帳簿にも残ってるんだし。宣告をしたのは間違いない事実だ。
実際、彼女も俺が宣告をしなかったと文句を言っているわけじゃない。
【念動力】なる彼女の天恵は、宣告した直後にちゃんと俺の目の前で
その一端を見せていた。水の入ったコップを触れずに浮かせてたんだ。
一度取っ掛かりを得れば、割とその時の事は具体的に思い出せた。
得たはずの天恵が消えてしまった。そう言って彼女は駆け込んできた。
特別に精査したけれど、病気だとかそういう理由で消えたんじゃない。
まぎれもなく宣告前の状態に戻ってしまっている。それこそが事実だ。
…………………………
何でなんだよ。
================================
俺も彼女もワケが分からなかった。しかしお互い、嘘をついてない事は
はっきり判った。だからとりあえず俺は、彼女にひとつの提案をした。
ひょっとすると、君は特異な体質の持ち主なのかも知れない。だから、
今回だけはもう一度宣告をしよう。それで無事にまた天恵を得られたら
ひとまず様子を見る。今回だけは、代金はいらないと。
追い詰められた様子だった彼女も、俺のその提案で落ち着いたらしい。
とりあえず宣告をしたら、きちんと天恵は発現した。安心したらしく、
彼女は手持ちの金を置いていった。通常代金の半分以下だったものの、
文句を言う気にはなれなかった。
とにかく、これで収まれはいいって話だ。特異な例だったと考えよう。
名前もちゃんと聞いておいたから、何かあったらまた対応すればいい。
それでどうにか…
いや。
そんな風に割り切っていいのか。
俺は医者じゃない。神託師だ。病気を診るのとは何もかも違っている。
治療が上手くいかなかったのとは、あらゆる意味で重さが違っている。
天恵宣告したのに、しなかった事になっている。一体どういう事だ?
そんな特異体質なんて、あるのか?
爺さんも親父も、神託師の修行には力を入れても教育は無頓着だった。
歴史も教わらなかったし、具体的な天恵についての知識も得なかった。
ローナ様の思し召しに余計な詮索はいらない、と言って終わりだった。
俺も別に、そんな座学まで苦労して修めようとは思っていなかった。
今になってそれを悔いる。
もしかしたら過去に、今回のような特異事例があったのかも知れない。
対策も考えられたのかも知れない。だが、今ここに至ってはもう遅い。
あれで済んだ、と考えるしかない。二度と起こらない事を祈ろう。
とにかくもう、今日は寝よう。
しかし。
現実は、寝ても変わらなった。
================================
翌日。
昨日の女と全く同じ事を言う輩が、一気に十人も押しかけて来たのだ。
大半に見覚えがあった。念のために帳簿を確認したら、間違いなく俺が
天恵宣告をした者ばかりだった。誰しもが目を血走らせて、昨日の女と
同じ訴えを口にしていた。
得た天恵が消えてしまったのだと。
中には、俺をペテン師呼ばわりする奴もいた。だが幸い、他の連中が
そいつを叩き出した。どうやら皆、そんな根拠のない不安を共有したく
なかったらしい。わずかに残る理性に救われた形だった。と言っても、
懸念は何ひとつ払拭されていない。この異常事態の理由が分からない。
とにかく、昨日のあの女と同じ説明をしてどうにかパニックを防いだ。
もう一度天恵宣告をした結果、皆はひとまず落ち着いて帰っていった。
代金を置いていく者はいなかった。まあ、そんな雰囲気じゃなかった。
俺は、今日の営業を取りやめた。
今回の騒ぎがこれで終わったとは、とても思えなかったから。
何なんだ、この事態は。
一人じゃなく、どんどん増えてる。まるで流行り病か何かのように。
この聖都グレニカンで、一体どんな事が起こっているというんだ。
在り方が変わった事と、何か関係があるのだろうか。
まさか。
「デイ・オブ・ローナ」のような、人智を越えた神の怒りの再来か?
マルコシム聖教が消滅してしまった事に対する、恵神ローナの警告か?
分かるはずもない。
俺みたいな人間には。
楽園だと思っていた聖都は。
疑念の魔都に、変わりつつあった。