扉の向こうの相手
不思議なものだ。
それなりに見知った存在だったあの護衛。いや名は知らなかったけど。
そんな彼が恐らく死んだであろうという事実。それに心が波立たない。
そのまま場を離れてしまった自分に対し、嫌悪感なども湧いてこない。
何だろう。
この何もかも当然だと思える感覚。
もしかするとあたしは、自分で思う以上に「ロナモロスの教主」として
相応しい存在になったのだろうか。いつの間にか、その肩書きを本当に
体現できる者になったのだろうか。
…それはそれで、喜ばしい現実だ。今のあたしに、相応の現実だよね。
ロナモロス教は、あまりにも多くの人の血にまみれ過ぎた。そこには、
もはや昔の敬虔さなど微塵も残っていない。あるのはただ、狂信だけ。
恵神ローナへの敬愛などではない。天恵というものを闇雲に礼賛する
卑しい心だけだ。人ならざる力こそ天恵の本質と唱えるネイルたちは、
確かに宗教家だったと思う。今さらあたしに断罪など、出来はしない。
いや、あたしも断罪される側の人間なんだろう。
それをはっきり自覚したからこそ、あたしの心には波は立たないんだ。
ロナモロスの人間に、まともな死が訪れる…なんて事は起こり得ない。
まともな死を望む心こそ、ローナに対する最大の冒涜なのではないか。
あたしもネイルも、オレグストさんたちも。
いや、末端の信者一人に至るまで。
あたしたちは、あんな風に死ぬのが相応の結末なんだ。
背信じゃない。
それこそが、今この時代においてのロナモロス教の殉教なんだろう。
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二羽の鳥は、枝から枝へ飛び渡ってあたしを誘う。見失う心配はない。
渡された地図が示す場所を目指しているのは、歩き出してすぐ判った。
もう今のあたしには、そこを目指す以外の選択肢はない。戻る事など、
考えられない。護衛が死んだという理由だけじゃない。今のあたしは、
とにかく何でもいいから自分で道を選びたかったんだ。
…………………………
何だろう。
このシチュエーションには、ほんのかすかな既視感があった。もちろん
実際にこんな経験をしたというわけじゃない。残念だけど、あたしには
そんな面白い経験なんてなかった。
そうだ。
鳥に誘われるままに向かった先で、不思議な少女と出会って交流する。
ずうっと前に、そんな物語を読んだ記憶が蘇ったんだ。…今になって。
憧れたなあ、幼心に。
『三つ編みのホージー・ポーニー』を読んでいる間だけ、あたしの心は
自由になれていた気がする。教主という空虚な檻を出て、羽ばたいた。
あの物語と同じなんだとすれば。
小屋で待つ人は、もしかして…
「ミエタヨ」
物思いはそこで途絶えた。すぐ目の前の枝に並んで止まり、二羽の鳥が
声を揃えてあたしに告げる。
「アソコノコヤデ、マッテルカラ」
「分かった、ありがとう。」
もう、鳥と話しているという現実に対し、何の違和感も抱かなかった。
ひょっとするとあたしは、現実から物語の世界に足を踏み入れたのかも
知れない。そんな突拍子もない事を真面目に考えている自分が、何だか
今までで一番好きになれていた。
あそこに行けば、何かが変わる。
あそこで待っている誰かが、あたしの心を解き放ってくれる。
あたしは迷わず、小屋の扉の前まで歩を進めていた。
この扉を開ければ。
あたし自身の意志で開ければ、この世界はきっと変わる。
ミクエ・コールデンは、今までとは違う誰かになれるんだ。
錆びた取手を掴んだあたしは、力を込めて扉を開けていた。
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暗い室内。
寒い。
そして静寂。
だけど、人の気配は確かにあった。
すぐ目の前に座っている。
こっちを見ている。
明るい屋外から急に入ったために、まともに室内の様子が窺えない。
だけどあたしは、目を凝らそうとは思わなかった。その必要はないと、
不思議な確信を抱いていた。
ここは、扉の外とは違う世界だ。
ここまで足を運んだあたしに、違う世界の誰かは声をかけてくれる。
ここまで導いた誰かは、あたしを…
…………………………
……………………………………………………
「お久し振りですね、教主。」
「えっ」
投げかけられたその声に、あたしの耳が反応した。
次の瞬間に反応したのは、記憶でも感情でもない。瞳孔だった。
ボンヤリとしていた両目が、一気に焦点を声の主に絞り込んだのだ。
あまりに聞き覚えのあるその声が、あたしの意識と感覚を引き戻した。
まさか
この声は
パチン!
スイッチの音と共に、テーブル上に置かれていたランプが灯った。
予想に反し、小屋にはちゃんと電気が引かれていたらしい。そこには、
ただ現実だけが鎮座していた。
予想以上に片付けられた室内。
そこには、不思議な物など何ひとつ存在していなかった。
もやの晴れた頭で、理解できる事物のみがあった。
ここは、ただの現実だった。
そして目の前に座っている人物に、あたしは確かに見覚えがあった。
と言うか、知っている人だった。
ずっと前に去った、ロナモロス教の人間だった。
いや。
知る限りではもう、人間である事を失いつつある人だったはずだ。
彼女は…
「憶えてませんか?あたしを。」
そう言って立ち上がる彼女の顔は、あの頃と違っていた。同じだけど、
違う顔だった。
「このウルスケス・ヘイリーを。」
ああ。
やっぱりそうなのか。
憶えています。
思い出しました。
やはり、ここは現実のままだった。




