居残りの夜に思う
日常という言葉は、ある意味とても不思議だ。
突拍子もないと思っていた事実も、いざその中に組み込まれてしまえば
本当に気にならなくなってしまう。いつもの光景として、いつしか心が
受け入れる。本当に不思議である。
かくいうあたしの存在も、大概だ。
児童小説作家の天恵が生み出した、彼の「夢」の結像。人ですらない。
創作の世界の中に入り込み、時間と空間を無視して移動する。更には、
異なる世界にアプローチする事さえ可能だ。我ながら何だろうコレは。
喫茶店の店主代理を務めながらも、自分の不条理さに時おり呆れる。
神託カフェ・オラクレール。
このお店の日常は、とても不思議。
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さて。
ゲイズとシャドルチェの襲撃から、三日が経過していた。何だかんだと
後始末に気を揉んだけど、どうにか大ごとにはならずに済んだらしい。
タカネさんと、それ以上にモリエナが騎士隊相手に立ち回った結果だ。
正直、今回はあたしはとことんまで役立たずだった気がするな。まあ、
もう気にしたら負けだろうけど。
そうして、日常は戻って来ていた。
この日常の中で、もっとも異端だと言えるのはやはりローナの存在だ。
あんまり人の事は言えないけれど、それでも彼女は色々計り知れない。
当然のようにオラクモービルとこのお店を行ったり来たりしてるけど、
傍で見てるより大変だろうと思う。向こうはトラブルも絶えないし。
「まあ、好きでやってる事だから。心配無用よ。」
そうですかとしか言えないよね。
いくら恵神だと言っても、絶対的な後ろ盾になっているわけじゃない。
頼りない部分も多いし、知らない事なんかもたくさんあるらしい。
全知全能とは対極にあるからこそ、ここまで楽しそうにあれこれ難事に
立ち向かえるのかも知れないなあ。根拠のない想像ではあるけど。
そんな彼女が昨日、ちょっと珍しい頼みごとをしてきた。
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「…今夜いっぱい、ですか。」
「そう。もちろん灯りは点けない。PCの光だけで十分だから。」
「え?あ、はい。助かります。」
気配りをされると何か調子が狂う。すっかりお店の一員だなあこの方。
今日の閉店後、暗くなってから朝になるまで店を貸して欲しいとの事。
何するんですかと訊いてみたけど、やっぱり返答は理解できなかった。
何だろ、チャットって。少なくとも普通の事じゃないってのは判った。
「まあ、遠くにいる人とパソコンを通してお喋りするって感じよ。」
「なるほど。だけどそれ、わざわざパソコン使う必要あるんですか?」
「ああうん、言いたい事は分かる。神としての力でやれよって話ね。」
「そこまで言ってませんけど。」
「確かにそう思うのも無理はないと思うけど、知ってのとおりあたしは
この姿でないと人間の個を感知する事が出来ない。どうしてもこの姿で
臨まないといけないんだよね。」
「分かりました。」
別にそこまで警戒する話じゃない。わざわざ、トランさんたちの許可を
求める事でもないだろう。あたしは今、この店の店長を任されてるし。
ここは懐の深いところを見せよう!
「戸締りだけは気を付けて下さい。あたしも本の中に戻りますから。」
「ありがと。無理言ってゴメンね。埋め合わせはするからさ。」
「話半分に聞いときますね。」
「ははははは。助かります。」
恵神と軽口叩いてる自分がとっても不思議だ。そんな日常が面白い。
ま、細かい事は言いっこなしでね。
すっかり暖かくなった夜だった。
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深夜を回った頃。
シュン!
あたしは、本から外に出た。
何となく気になって、お店の奥の席をそっと伺ってみた。
カチャカチャと聞こえてくるのは、ローナのキーボード入力の音だ。
約束に違わず、この暗いお店の中でずうっとパソコンを操作している。
疲れないのかな本当に。
でも、何だか楽しそうな顔だ。
パソコンの向こうにいる誰かとの、何らかの交流を楽しんでるらしい。
あたしはチンプンカンプンだけど、ちょっと興味も惹かれる。
だけど、同時に思う。
ノートパソコンという「異界の知」を使って連絡している以上、相手も
相応の存在だ。きっと、あたしよりずっと常識から外れてるんだろう。
失礼な見立てではあるけど、恐らくそんなに外れてはいないと思う。
ローナは、あたしを模して人の姿を組み上げた。人の姿にならないと、
あまりにも出来ない事が多いから。その感覚は本人にしか分からない。
文字通り、神の領域というものだ。無理に理解したいとも思わない。
でも、人の姿になっても出来る事に限りがあるのは同じ。今まで何度も
その限界は目の当たりにしてきた。それを、みんなで乗り越えてきた。
おそらくローナは、全知全能ならばこんな風には接触してこなかった。
限界があるからこそ、個として人と関わる道を選んだんだろう。それは
もはや、誰もが認識している事だ。
そんな彼女が、こうして独りで話す相手って誰なんだろうな。きっと、
聞いてもチンプンカンプンだろう。だけど、やっぱり興味は尽きない。
じゃあ、どうする?
決まってる。
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コンコン。
壁を軽くノックすると、没頭してたらしいローナがハッと顔を上げた。
そんな彼女に笑みを向け、あたしはいつも通りの口調で告げる。
「コーヒー淹れましたよ。」
「ありがと!」
ローナも笑って答える。いいなあ、たまにはこういう静かな時間も。
「お邪魔じゃなかったですか?」
「ちょっと根詰めてたから、息抜きにちょうどよかったよ。」
そう言ってローナは軽く肩を回す。確かに相当根詰めてたんだろうな。
隣の席に座り、あたしはコーヒーを差し出した。
「熱いから気を付けて。」
「どうもどうも…熱ちちちち。」
言いつつ、旨そうにコーヒーを口にするローナは、いつも通りだった。
深刻な様子も張り詰めた様子も全くない。ちょっと拍子抜けだった。
「誰とお話してるんですか?」
「タカネたちと。」
「え?」
ちょっと意外だった。
もっと特殊な相手かと思ったのに、オラクモービルが相手だったとは…
「あ、ここのタカネじゃないよ。」
「えっ?」
「別の世界にいるタカネ。…まあ、バリエーションと言うべきかな。」
「ば、バリエーション?」
ちょっとよく分からない話だけど、どうにか推測を立ててみる。
「つまり、プログラムの元になったタカネさんって事ですか?」
「そっちと連絡は取れない。もっと別のタカネよ。」
「ええー…。」
ダメだ、あたしの理解を超えてる。想像さえ超えてる。手に負えない。
思った以上にとんでもない相手と、夜通しで話しているらしい。
小さく肩をすくめ、あたしはスッと席を立った。
「コップだけ戻しておいて下さい。後はやりますので。」
「分かった、ありがとね。」
「じゃあごゆっくり。」
席を離れたあたしは、そこでひと言だけ付け加える。
「タカネさんたちによろしく。」
「うん、伝えておくよ。コーヒー、感謝です。」
「どういたしまして。」
シュン!
そのまま本の世界に戻る。これ以上何か言うのは、無粋だと思った。
やっぱりこれは、ローナならではの事なんだ。あらためて確信した。
パソコンの向こうにいるタカネさんというのも、計り知れない。
だけど、それでいいと思う。
計り知れなくても、それがこの店の日常なんだから。あれこれ詮索して
悩むだけ損だ。
きっとローナは、必要だと思うからやってるんだろう。ならば信じる。
同じお店のスタッフとして信じる。それでいいと、あらためて思う。
とりあえず、ごゆっくり。
さあ、明日もお仕事頑張ろう!