失ったものと得たものと
悲鳴は、幾重にも重なっていた。
だけどその中に、残酷なほど鮮明に知った声が混じるのを感じた。
「何なんだよ!!」
叫びながら、俺は店から駆け出た。ネミルとポーニーも後に続く。
しかし、俺も二人も目の前の光景に足がすくんでしまった。
まるで盥でぶち撒けたかのように、あちこちに血飛沫が散っていた。
倒れている人は、視界に入るだけで十人以上。なおも遠くから悲鳴が、
まるで木霊のように聞こえてくる。
そんな地獄の真っ只中に、俺は絶対見たくなかったものを見つけた。
もつれる足を何とか動かし、目の前で倒れている男女に駆け寄る。
近付くにつれてハッキリと、絶望が形を成していくのが見て取れた。
ああ。
やっぱりあの時の声は、間違いじゃなかったのか。
助け起こそうとした手に、真っ赤な血がベッタリと着く。
「……嘘だろ姉貴。」
「そんな…」
ネミルの顔が恐怖に引きつる。
ディナの顔は真っ白になっていた。
傍らに倒れている婚約者のドッチェの顔は、既に土気色だった。
そして。
ひときわ大きな悲鳴が、この惨劇の終幕を告げる合図だった。
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「姉貴の容態は?」
「予断を許さないみたいです。」
数時間後。
やっと取り調べから解放された俺とネミルは、病院に駆け付けていた。
出迎えたポーニーの表情も厳しい。
姉貴の婚約者だったドッチェさんが亡くなった事は、行く前に聞いた。
聞かなくても知っていた事だった。
何でだ。
何でこんな事になったんだ。
あの男は確かに普通じゃなかった。
だけどまさか店を出てすぐ、あんな凶行に及ぶとは思わなかった。
一体全体、奴は何を考えてあれほど迷いなく人を襲い
そして、迷いなく死を選んだのか。それも大勢の見ている前で。
「……トラン……」
ネミルの細い声に向き直った俺は、そこに妙な違和感を覚えた。
悲しみに暮れているかと思ったその顔は、明らかに何か言いたげだ。
「トランさん。」
「君もか。」
「…はい。」
問いかけにポーニーが頷く。
そう言えば彼女は、あの時明らかに様子が変だったな。
「分かった。」
どのみち、今の俺たちが姉貴に対し出来る事は何もない。
なら、それ以外ですべき事をする。
「…とにかく、店に戻ろう。」
既に日は暮れていた。
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あの男に出したコーヒーが、完全に冷め切って残っていた。
何もかもほったらかしにしたままで出た店は、歪に時が停まっている。
最低限の照明だけを点し、俺たちはそれぞれ椅子に腰を下ろした。
「…ネミル、それにポーニー。」
「うん。」
「はい。」
ため息を堪え、俺は二人に言った。
「正直に言う。俺は何が起きたのか見当もつかない。」
「……」
「だけど、お前らは違うよな?」
「………………」
「どうなんだ?」
「ええ。」
「少しは分かります。」
やっぱりそうなのか。
「じゃあ、教えてくれ。それで何か出来る事があるのかも。」
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「…実はね、トラン。」
躊躇いがちに言ったネミルが、指にはめたままの指輪に視線を向けつつ
ゆっくりと告げる。
「あの人の天恵【死に戻り】というものだったのよ。」
「…死に戻り?」
聞いた事がない。確か神託師関連の資料にも出てこなかったはずだ。
「どういう力なんだ、それ。」
「見えた時はよく分からなかった。…だけど、今なら分かるんだよ。」
「今なら?」
どういう意味だ。
そもそもあの男は確か、天恵宣告を聞かずに出て行ったはずだ。
だったら…
「その名の通り死んで戻る。つまり死んだ瞬間に生きてた頃まで戻る。
正確に言えば、死ぬ前のとある瞬間まで時間が戻るんだよ。」
「…何だと?」
驚くと同時に腑に落ちた。あいつが天恵を聞かなかったのはそれでか。
わざわざもう一度聞くまでもなく、戻る前の時点で既に知っていた。
もし繰り返せる能力なら、あれほど迷いなく自決したのも説明がつく。
やりたい放題やった後、また戻って罪そのものを消し去るって寸法か。
「つまりあいつは、今日よりも先の時間からここに戻ったって事に…」
「三週間後です。」
俺の言葉を遮ったのは、黙っていたポーニーだった。
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「…あの男は、三週間後の世界から「今日」に戻って来たんです。」
「それを知ってるって事はつまり、君も…」
「はい。」
厳しい表情を浮かべて、ポーニーはゆっくりと頷いた。
「いきなりでビックリしたけれど、今なら分かります。きっとあたしは
人の世の理から外れた存在だから、戻った世界を記憶できるんです。」
「って事は君には、今日から三週間の記憶があるって事なのか。」
「ええ、でも…」
言いながら、ポーニーは小さく肩をすくめた。
「戻った世界で、あの男は違う事をした。だから未来も変わりました。
だからその三週間はもう、あたしの記憶にしか存在していません。」
「…………まあ、何とか分かる。」
つまり、奴が何をしたかについても永遠に分からなくなったって事か。
いや、もう今となっては「した事」ですらない話だ。実に混乱する。
そして自決したという事は…
「…奴はもう、とっくにまた過去へ戻ってるって事なのか。それじゃ」
「そうじゃないよ。」
食い気味にネミルがそう言った。
「どういう意味だ?」
「本人はそのつもりだったと思う。だけど戻ってない。戻ったのなら、
あたしたちがこうして存在し続けている説明がつかないでしょ?」
「そうですよね。」
「つまりどういう事だ?」
正直もう降参だ。俺の理解なんか、はるか彼方に置き去りになってる。
「分からない?」
「…ああ。」
「あの男は、天恵の宣告を聞く前に出て行ったんだよ。…つまりまだ、
天恵を得てはいないって事。死んで戻った時の記憶を持ち越したから、
既に得ていると勘違いしたのよ。」
「ちょっと待てよ。」
更にややこしい話になったものの、言いたい事はハッキリ分かった。
それって、つまり…
「そう。」
俺の表情で察したのだろう。
ネミルは小さく頷き、左手の薬指にはめたままの指輪を掲げた。
「あいつの天恵【死に戻り】は今、あたしに宿ってるって事なのよ。」
「マジかよ。」
何の冗談だ、それは。